保育の心(子ども・子育て新システムに関連して)

 保育の質は、毎日子どもたちに向かう保育士たちの心。親たちの心に近づいて幸せを願えるかどうかだと思う。

 しかし、その大切な保育士や園長先生たちの心を守るべきひとたちの心が一つになっていない。「脱官僚」「政治主導」となどと言って争っていては、本当の意味でこれからの日本を守る保育施策は出来ない。現場で日々子育て親育てをしている園長先生や主任さんたちの気持ちを無視したような「閣議決定」が、雇用・労働施策として次々なされていきます。保育界が、業界としてではなく、子どもを思う気持ちで結束し反対しないと、保育界、教育界、そして親たち、子どもたちを囲む気持ちが一気にばらばらになってしまいます。それほど今度の新システムは恐ろしい要素を含んでいます。家庭を壊し、人々の不満と不安の中で力の集中を勝ち取ろうとする強者の論理が動いています。

 

 今回の、子ども・子育て新システムは、美しさに欠ける。大人たちが、自分たちの利便性のために、保育界をサービス産業化しようとしている。これでは親が育たない。孤独な子どもたちが、やがて孤独な小学生、中学生、高校生になってゆく。そして、その子たちが孤独な親になった時に、DVや虐待の連鎖が止まらなくなる。

 私のそんな思いに共鳴してくれるのは、何十年も保育を日常としてきた園長先生たちです。保育はやはり「子育て」です。保育士は、子育て支援ではなく子育て代行をしています。させられている。だからこそ、園長先生たちの心は親心に近づこうとする。親心、祖父母心、そして絆を育てることを役割りとしている幼児たちの大切さがわかる。最近の親たちや、不安の中で小学校へ進む子どもたちを見ていると、国の進むべき道が、根本から間違っているのではないか、と思うのです。

 

 産むことは育てること。そのことを意識する、教える、伝える、常識として守る、それを社会全体でしないと、やがて保育士や教師が、「子育て」を職業、労働と見なすようになる。そうでもしないと子どもたちを正視できなくなるのです。

 

 学校の教員を少人数学級に会わせて2万人増やすという。しかし、本来は50人60人のクラスであっても、教師の指導力が少々弱くても、学校教育が成り立つように親が親の役割を果たしている社会が良い社会なのだと思います。対処療法を繰り返すことで、ますます完治が難しくなってゆく病気のように、いま子育てを囲む状況が本末転倒の事態になっています。

 

 厚労省が労働施策に保育園や幼稚園を一体化して取り込み、親へのサービスで雇用を促進し税収を増やそうとする。その足元で、子どもを心配し親を育てようとする保育士たち園長たちが、笑顔を失ってゆく。10年前に、保育園の定款に「サービス」を無理矢理入れられた時の違和感を語る園長は少なくありません。

 先日、長い間保育の素晴らしさで評判の幼稚園の園長先生が、すっかり笑顔を失って、気力が落ち急に老け込んでしまったのに気づきました。良い保育をしようとすると、園長はたちは必ず親たちを育てようとする。その園長先生の親心に気づいて、3年かけて親たちは育っていったのです。その園が、近所の7時まで預かり、塾への送り迎えまでやってくれる幼稚園にどんどん子どもをとられていくのです。どんなに保育に自信があっても、子どもが減ってくれば、やはり気持ちは萎えてくる。自信があった人ほど、空虚な気持ちになってゆく。親たち子どもたちの幸せを願っていればいるほど、自分の生き方に不安を感じるようになってきます。

 「利他」の人たちが不安を感じ始めた時に、人間社会は大きく崩れる。その崩壊が始まっています。孤独な親に寄り添う園長たちが消えていった時に、この国は、かけがえのないものを失ったことに気づくのです




鹿児島大学の伊藤修平教授が「子育て新システム」について書いた文章。とてもわかりやすい、理路整然とした新システムに対する反対表明の文章です。
http://www.gyoda-hoikuen.com/pdf/kagosima-itou


九州の保育3団体が結束して作った反対のアニメ。九州の園長先生たちは燃えています。子どもたちの未来のために、頑張って下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=e5IESrXjO4U&=feature=related

新成長戦略(子ども・子育て新システム)と子どもの安心

(2010年)

  民主党が年明けの国会に諮り進めようとしている新成長戦略の中に、「子どもの笑顔あふれる国、日本」という保育園、幼稚園の仕組みを根本から変えようとする施策があります。(子ども・子育て新システム)

 これが全国で「子どもの笑顔」を真剣に願っている幼稚園・保育園の先生たちの怒りを買っています。まだ、この仕組み自体の理解度が十分に高まっていないのですが、その分析が進むにつれ、全国各地で燃え上がる火は増えてゆくと思います。そうあって欲しいと思います。子どもたちの笑顔を守るために絶対にこの施策だけは止めなければいけない、と思います。老人介護から、笑顔がなくなっていったように、保育園から笑顔をなくすわけにはいかない。保育士の笑顔が保育の質です。そして、本来子どもの笑顔は、それを見た親たちが親らしくなってゆく、子どもが安心して育つ「絆」を社会に生み出すものだったのです。

 

 先々週福岡市で開かれた保育士相手の説明会に、この施策の民主党プロジェクトチームの責任者の代議士が来たのですが、90分の説明が終わってその政務官が帰ろうとしたら、会場からの猛反発に包まれた。埼玉から出席していた知り合いの園長先生が報告してくれました。

 保育というどちらかと言えば穏やかな仕事をしている人たちがこれほど憤る施策だということを説明に行った若い代議士が気づいていない。これがそもそもの問題です。それほど保育や子育ての意味と現状を理解していない政治家が多いのです。何回かの視察と、付け焼き刃の経済論で検討を進める。財務省から強制的に押し付けられた厚労省の予算削減施策にのせられているのか、そのあたりがよくわからない。政務官がいくつかの矛盾を指摘され、厚生労働省の真意がどこにあるかわからない、と自ら首を傾げる。現場の理解を得ないまま、こんな重要な施策が、なぜこれほど性急に進められているのか。

 原点に返れば、子どもの日々の生活を第一に考えずに進めているのが今回の新成長戦略です。20年間保育士たちと保育と言う仕組みについて、話し合い、なんとかここで親心を育もうと、親子を引き離そうとする施策と闘ってきた私は、こう書いているだけで気持ちが昂ってきてしまいます。なぜ、こんな時期に保育界を大混乱に陥らせる改革を進めようとするのか。私も去年の12月から始まる一連の閣議決定を初めて読んだ時、気持ち悪くなりました。これをやったら日本はガタガタになる、保育園だけでなく学校という仕組みがもたない。子育ての責任は誰にあるのか。親なのか、国なのか、保育園なのか。保育がただの労働、もしくはサービスになってしまう。保育は子育てなのです。

 0歳から5歳までの子どもの生活、成長がその子の人生だけではなく、後の人間社会にどう影響するか、その間に親がどうのように親らしくなり、子育てを中心に親身な絆が社会にどう育つか、という人類の魂のインフラに関わる流れを理解していない。子育てを、単純に雇用・労働施策としかみていない。

 

 「言葉をまだ知らない0才児は、実は親と、特に母親と、一緒に居たいと思っているかもしれない」という想像力が、これを進めようとしている政治家たちにない。

 

 この想像力が、人間性の大切な一部です。自ら主張出来ない赤ん坊の期待や気持ちを、想像するしかない、だから、人間は人間らしく育った。絶対的弱者の心情を察する感性の働きが、人間社会にモラル・秩序を生み出してきました。幼児という特別なひとたちは人間社会の中心にいて、人を育て、絆を育ててきたのです。

 人間としての想像力に欠けた施策が、めぐり巡って犯罪国家を生み出すことは、欧米の犯罪率と日本のそれを比べればわかるはずです。幼児と接する機会を持たず、パワーゲームに魅了された政治家は経済論で動く。日本の犯罪率はアメリカの40分の1、フィンランドの30分の1、イギリスの20分の1。この奇跡的な状況は、日本特有の「親が子どもを自分で育てようとする思い」が支えてきたのです。だからこそ、まだ学校が成り立ってきた。

 譲って、子育てを幸福論ではなく経済論でとらえたとしても、本来、経済発展は親が子を思う気持ち、子が親を思う気持ちが一番強い力になることは、戦後の日本経済の発展、いまの中国やインドの急成長を見ても明らかです。本来の人間性に沿った経済論を日本は思考しなければならない。欧米の後を追ってはならない。新しい道を模索する土壌を、私たちは幸運にもまだ与えられています。

 

 新成長戦略では、5年以内にあと25万人乳幼児、0、1、2才児を預かる、そうすれば将来にわたって3,3兆円の増収になる、というのですが、保育園で預かるのだとしたら保育士の数が絶対に足りない。財源も明示されていない。国の認可保育園に対する基準(これは最低基準だと私は思っています)を崩すしかない。簡単に言えば、保育士の3人にふたりが保育士の資格を持っていなければいけない、という国基準が、3人にひとりでもいい(これは東京都の認証保育所がそうですが)、園庭も無くていい、資格を持たない個人がやるママさん保育でもいい、保育の質を落としていくしかない。

 すでに全国の公立保育園の保育士の6割が非正規雇用(パート)になっている現状を考えれば、もう十年も前から、就学前の子どもたちの生活は政策上どんどん軽んじられています。地方の財政が悪くなって来た時に、まず切られるのが保育に関する予算です。直接契約制を軸とするこの仕組みでは、良心的な園ほど、やっていけなくなる。

 幼児は、幼児であるということによって、親を育て、祖父母を育て、人間社会に絆を育てることです。その役割りが果たせなくなってきている。そのことがどれだけ将来社会の負担なってくるか。

 

 税収を増やすために何が何でも0、1、2才児を預かる。これは自民党時代の経済財政諮問会議が言い始めたことですから、民主党だから駄目というわけではないのです。「子どもを全員保育園で預かって、母親が全員働けば、それによる税収の方が、保育園にかかる費用より大きい」という計算が経済企画庁の諮問会議から発表されてから10年が経ちます。直接契約制にしても幼保一体化にしても、自民党が言い出した路線を、民主党が一気に乱暴に進めているだけのことです。それだけ焦っているのでしょう。しかし、衆議院選挙前のマニュフェストは、短時間に票を得るために適当に作られたことはみんな知っています。選挙に勝ったからそれを国民が望んでいる、などと本気で言うのは政治家くらいでしょう。国民は何となく投票しただけ。

 保育に関して素人の経済学者が、机上の計算で政治家に助言をしているから、こういうことになるのでしょうか。しかし、「乳幼児は親と一緒にいたいだろう」と思う感性を失っている政治家たちには、もっと責任があると思います。

 まだまだたくさん問題点はあるのですが、繰り返しますが、保育の質は保育士たちの思い、心持ち、です。政務官が言う「保育の質は監査でたもてます」という言葉はあまりにも現実離れしている。監査とか、第三者評価は、時として、子どもの幸せを願い、親を育てようとしている園長先生を悪い園長先生にしてしまいます。親たちに匿名の満足度調査をするからです。園長先生たちの親心を理解する親が減って来ている。

 こんな無茶な施策を厚労省が自ら作るわけがないと思うのですが、その辺りがわからない。担当の役人たちは保育の問題をもう少し深く理解しているはずです。親たちの心の動き、園長先生たちの心の動き、保育士たちの心の動き。そして何よりも子どもたちの安心感が真っ先に考えられていないといけない。どうなっているんですか、と知り合いの民主党の代議士に聴いてみたら、内閣府がやっているんです、と言います。保育士たちに説明に来た厚労省の役人が、問いつめられて、私たちだってこんなことしたくありません、閣議決定されてしまっていますから、その政治家を選んだのは国民でしょう、と言います。民主党は消費税を当てにしていたんです、それが参院選で崩れて、もうどうにもならないのに止まろうとしないんです、と本音で言います。仕組みのことはよく知りませんが、政治主導と叫ぶ政治家たちが、役人を怒鳴り散らしているうちに、心の中で役人から背を向けられているのではないか、と私は思います。なにしろトップである政務官が知らないことが多過ぎる。乳幼児という自分で発言出来ない人たちの生き方を考える時に、大人たちの心が一つになっていない。パワーゲームに取り憑かれてしまっているようです。

 民主党プロジェクトチームの責任者政務官が、福岡での説明会で、保育士たちに責められ、「一度、私たちにやらせてみて下さい」と言ったらしいのですが、「子ども手当」や「高校無償化」ならやり直しが効きますが、この「子どもの笑顔あふれる国・日本」は、崩壊のマグニチュードが違います。これをやったら元に戻れない。学校教育がもたない。だからこそ、保育士たちが怒っているのです。ただでさえ満杯の児童養護施設がもたない。すべての学級に副担任を置かなければ学校の秩序が保てなくなる。児童相談所や、毎日子どもたちと向き合う保育士たちの気持ちが萎えてしまう。障害を持っている子どもや、トラブルになりそうな親は保育園から敬遠され、行き場を失うかもしれない。市場原理と規制緩和は強者のための方策です。障害をもっていたり、要領の悪い親たちが親子で損をする。介護保険で起こったことが保育の世界で起ころうとしています。コムスンのような会社が参入して来るかもしれない。その会社が潰れたり撤退したりした場合、老人介護と違って、子どもたちは学校へも行くし日本の担い手になっていくのです。児童福祉法24条で守られていた最低元の子どもたちの福祉の責任が、国から外れ、市町村に移る。その市町村の財政状況は多様で、よほど市長が意識の高い人でないと、財政のしわ寄せが直接子どもたちに来るようになります。

 すでに、九州の方では、ストライキという声が上がっています。政治家やマスコミは、こうした動きを、既得権益を守るため、ととらえるかもしれません。自分たちがそういう物差して考え、生きていると、他のひとたちもそうなのだ、と思いますから。しかし、保育士たちの多くが、本気で子どもたちの幸せを願っていることを私は知っています。親が親らしさを失っていくのを目の当たりにし、子どもたちを守るとしたら、もう自分たちしかいないのではないか、とさえ思っています。私は、そういう気持ちで保育士たちが立ち上がることが、子どもや親たちのために、そして保育士たちの意識を高めるために必要なことだと思います。

 そして、これはお願いですが、保育園だけでなく、幼稚園の方もこの幼保一体化という、幼稚園も雇用・労働施策に取り込もうという動きに反対しなければなりません。担当政務官が、「もう予算はないのだから、株式会社やNPOでやって行くしかないでしょう」と本音を言ってしまったんですから。

 この施策に、本当に予算がつぎ込まれるのなら(たとえばGDP1.2%くらい。現在の約倍)、考える余地は残されていますが、それでもやはり「子どもの気持ち」が明らかに軽視されている動きは、人間社会にとっていい結果にはならないと思います。

 「国民の生活が第一」なんてとんでもないことです。これは、「投票出来る国民」が相手の言葉です。こういうキャッチフレーズが読めない幼児を最優先に考えることが、人間社会に絆と安心を生むのです。

 



 

 

鹿児島大学の伊藤周平教授が「子育て新システム」について書いた文章。とてもわかりやすい、理路整然とした新システムに対する反対表明の文章です。

「子ども・子育て支援法と保育のゆくえ」

 「言葉をまだ知らない0才児は、実は親と、特に母親と、一緒に居たいと思っているかもしれない」
 シスター・チャンドラがここにいたら、当たり前でしょ?、と首を傾げると思います。
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シャクティセンターがコミュニティーカレッジになりました

シスターからメールが来ました。

 

Yesterday 19th we got the acceptance from Mother Tresa Women’s University!!

 And Here after our training program will be done in the Name of Sakthi Community

College.

マザーテレサ女子大学の正式な単位にシャクティセンターの活動が受け入れられることになりました。

シスターの長年の夢が着々と進んでいます。

「発足式に来て下さい」とシスターから嬉しそうな電話がありました。スケジュールがどうしても都合がつかず、行けません。教育委員会の定例会とひょっとして議会答弁もあるかもしれません。千葉国体で選手団と行進もするのです。

でも、これで

 – Folk Arts – (Folk Dance,Terracotta,and Paper making)

– Computer Applications and

– Tailoring. 

この三つのコースがひょっとして日本でも単位として通用するかもしれませんね。

シャクティセンターに留学してみませんか?コースは多分三ヶ月。とても不思議な体験が出来ると思います。

三つのコースを表現する写真が届きました。シスターもフェルシーも元気そうです。出産後のメリタも帰ってきました。

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日本の終戦記念日はインドの独立記念日

そしてシャクティの創立記念日。17周年です。公演回数は1930回。その一つ一つが、いまだにどこかで響き続けているはず。

Dear kasu san,

Thank you so much for your immediate reply.

Convey my wishes to Yoko san and Rio san.

Tomarrow Aug.15th our Independence day.

1993, august 15th, our Sakthi cultural group

had our first performence.

We are completing 17 years and so far staged 1930

performences.We are having a get together with all our

artist who have contributed their service through folk art.

Really we miss you. Surely many will be asking about you tomorrow.

Please do remember Sakthi tomorrow. In the midst of your busy schedule Think of Sakthi for a while and thank God for His

PROVIDENTIAL CARE.

With love

Sr.Chandra

歴代のメンバーたちが揃ったシャクティセンターは

壮観だったに違いない。

往復のトラベルデイに都合四日かかるシャクティ訪問が、今年は中々実現しない。

今年の講演は、100行きそう。感謝です。聴いてくれる人が居ることが嬉しい。一回一回心を込めて、コンサートのように話したい。

10月2日に、熊谷の常光院という

築三百年のお寺で久しぶりに尺八を吹くことになりました。

http://www.koosato.org/index.html


地球は回っています。

 シスターからメールが来て、エスターが5月20日に結婚するという報告が来ました。来日したシャクティのリーダー格で、長年シスターを支えて来た娘です。私が一番「友人」のような気がする人です。いろいろ、彼女から学びました。「親が決めた夫で大丈夫?もし良くない人だったら、どうする?」という私の質問に、間髪を入れず「その時は、その夫を良くする」と答えたエスターです。本当に大丈夫だろうか…。

 エスターの結婚は、私にますます同時進行の人生、時をわかちあっている感覚を与えてくれます。いま、共に生きている、というあの感覚です。
 5月20日は、ちょうど鳩ヶ谷で講演をする日で、次の日は熊本です。残念ながら出席出来ません、というメールを打ちました。
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シャクティの風景から

 今年に入って、シャムラ、カレイスワリ、ロージーの三人が結婚しました。ロージーの婚約式に出たのが去年の9月でした。シャムラは来日したとき、最後のお別れパーティーで「来年結婚しようかと思う」と私を連れ出して言いました。誰が決まっているの?と聴くと、伯父さんに頼めばすぐに決めてくれるから、と笑っていました。それが、あっという間に現実になりました。15歳でシャクティセンターに来た時から目立っていた娘でした。私の作ったドキュメンタリーの映像にも登場します。15歳まで苦労した娘だからこそ、結婚を急いだのでしょうかか。

 この三ヶ月の間にシャクティセンターでは様々なことがありました。その場に居なかった私には、支えになることが出来なかったことを心に刻み、思い、祈り続けるしかありません。
 貧しさの中で、親や親戚たちに守られているから美しい大地の箱入り娘たちが、外の空気に触れた時に起こる事件は、純粋だから苦しく激しい。
 美しさを放棄しないと強くなれないのだろうか。
 そんなことさえ感じさせます。
 日本で私が直面している現実が、シャクティの風景と重なります。
 親による虐待が主な原因で児童養護施設がいっぱいになり、児童相談所は手一杯、危ないケースを、親子を引き離す目的で黙って保育所に措置してきます。保育園が子育てをしなければ子どもを守れない状況が増えているのです。そこで働く保育士たちが、良心捨てるか保育士辞めるか、という自らの人間性にかかわる選択を迫られています。
 子育ての社会化は人間たちから人間性を奪う、と私が「日本の論点」2004年版に書いてから5年になろうとしています。
 待機児童なんていない。待機させられている児童がいるだけ。幼児たちが親を育て、人間たちから良い人間性を引き出し、人間たちの心を一つにする、という天命を果たせなくなって来ているのです。
 10年前に書いたものに最近の数字を足して書き直した文章ですが、近著の「なぜ私たちは0才児を授かるのか」(国書刊行会)にも載せた文章です。シャクティの風景と重なりあって来ます。

 田園地帯に位置するその町には保育園が九つあって、幼稚園はありませんでした。子どもたちはみな保育園に行きます。

 田舎へ行くと、時々こういう街があります。それがその街の保育の歴史です。子育ての習慣が、地域の事情、保育の普及の仕方で左右されるのです。こういう街で家庭崩壊は急速に進みます。子育てという地域の絆の中心になっていたものが、そこに保育園がある、というだけで簡単に他人の手に渡されます。新入園児の二割から三割が父親のいない家庭からきます。卒園するときにはそれが三割から四割になるのです。待機児童の問題が争点になる都会では見えにくいのですが、すでに保育の問題は、経済の問題でも人権の問題でもありません。あきらかに、子どもを見つめる視点、子育てに対する意識が変わってきているのです。夫婦でする子育てが崩れているのです。

 外では雪が降っていました。田んぼの中の保育所に保育士が11〇〇人くらい集まっていました。町の保育課長さんもいらしていたので、少子化対策は、経済論がその裏にあります、とても危険です、という話をしました。

 保育士さんが座っている席の斜め前、講演をする壇上から見ると斜め右に来賓席のようにイスを並べて、保育課長さんは座っていたのですが、皆そちらを見ないようにして、一所懸命うなずいてくれます。なかなか面白い緊張感でした。

 税収がどうであれ、政府の将来の予算組みがどうであれ、年金制度が崩壊しようが、福祉の予算が減ろうが、いま、日本の女性が欧米なみに仕事を持ち子育てから離れることによって社会から失われてゆく価値観やものさしの方が、この国にとってはるかに重要で根本的な問題だと、私は思います。このまま進めば、欧米と同じように家庭内暴力が増え、離婚が増え、母子家庭が増え、子育てをするために母親の就労は不可欠になるでしょう。そうなってしまってから、男女雇用機会均等法や女性の社会進出という言葉が、アダム・スミスが『国富論』の中で言っていた資本主義のトリックだったと気づいても、もう遅い。欧米が進め日本もその後を追った「平等」はあくまで「機会の平等」であって、格差を正当化するための強者の免罪符でしかない。ある程度の無理は承知でも、やはり経済論に勝てるのは幸福論しかないと、この国は主張しなければいけない。GDPの1・8%を就学前の子どもに使っているフランスは、たしかに予算配分的には魅力ですが、毎月10人以上の女性が配偶者または同居人に殺される、といいます。出生率が上がったといっても、それは子育て代行を福祉でやることと移民の多さが原因です。未婚の母から生まれる子どもは50%を越えています。経済が悪くなって税収が減ったらどうするのでしょう。子どもは突然減らない。父親も帰ってはこないのです。しかし、〇歳から五歳までの子育てに使われる予算がGDPの0・6%という日本は、あまりにもお粗末。親心が奇跡的に残っているとはいえ、保育者の人間性に頼りすぎ。限界にきています。いまの倍、一・二%を確保し保育を充実させ、あとはしっかり親心で補うくらいが理想でしょう。

 まだ、日本では〇歳児を保育園に預ける親は一割に満たない。多くの母親が、幼児との体験を就労による充実感より優先してくれている。ありがたい、と思います。経済論だけでは動かない日本人の個性と歴史を感じます。幸福論にもとづいた秩序やモラルは、一度失われると取り戻すのがとてもむつかしい。それを欧米社会に見てしまった私には、現場で働く保育者の良心が最後の頼みの綱です。

 田んぼの中の保育所で、1〇〇人ほどの保育士さんと保育課長。雪もやみ、月明かりに照らされた、いい会合でした。

 講演のあとで保育課長さんが、「でも、議員や町長が……」と言うので、「そういう人たちは上手に無視して、正しいと思ったことをやってみてください。保育士が、本気で親子の幸せを願うことができるように、楯になってくれるだけでいいのです」とお願いしました。その会話を、先生たちが食い入るような目で見つめています。

 子どもを風呂にも入れない、服も着替えさせない、おしっこのにおいがプンプンしているわが子を平気で保育園に預け、昼働き、夜遊んでいる母親を毎日見ていて、子どもが不憫です、といってポロポロ涙を流す三年目の若い保育士が、「どうしたらいいでしょう」と質問しました。この保育士は毎日子どもに着替えをさせ、体を洗ってやり、ご飯を食べさせているのです。

 私は泣きたくもあり、嬉しくもあり、「これから先、なるべく子どもたちがそういう目にあわないように、毎日、毎日、明日を考え、子育て放棄をする親が増えないように、親に語りかけながら、土壌を耕して直してゆくしかないんです」と言いました。

 「子育てをなるべく親に返すような保育。親の関心を引き出すような保育。親に親らしさを取り戻させる保育。親子を出会わせればなんとかなる。少なくとも、引き離すようなことだけはやめましょう」

 幼稚園の預かり保育も、まだかなりの数の幼稚園が「こんなことをやってはいけない。幼稚園の良心が許さない」と、文科省の予算攻撃と、一部の親たちの「預かり保育をしないならほかの園にします」という競争原理の重圧に耐えて反対しているのです。少子化の折、土俵を割り白旗を掲げる幼稚園が増えてきました。生き残りのための保育のサービス産業化が、子どもの幸せを願う保育の心を、親の顔色を見てサービスする、という方向へ変え始めているのです。

 保育園が厚労省に負けてエンゼルプランを積極的に推進し、幼稚園が少子化による園児の定員割れを恐れ、積極的に預かり保育をはじめたら、いずれ、若い保育者が涙を流すことをやめ、生きるために親身になることを避け、仕事として保育をやるしかない状況になるのではないかと思います。そうなったら打つ手はありません。刑務所をつくる予算で福祉が崩壊するのを待つばかりです。 

 家庭崩壊の周辺で起こる一つひとつのケースに心を込めて対応するには、家庭の事情にまで入り込んで関わらないかぎりできるものではありません。そこまで踏み込んでくださる園長先生もいらっしゃいます。その園長先生がいたために夫の暴力が止まったり、離婚しなかったり、人々の人生が変わるのを何度も見ました。勇気のいることです。いま、子育て放棄や家庭内暴力、幼児虐待の増加を保育や学童の現場で目の当たりにして、強いて答えがあるとすれば、もうこの若い保育者の涙しかないのでしょう。国の政策が経済競争の論理から離れるまで、保育者が良心を持ちつづける、ということでしょう。私はそう答えました。

 私たちにできることは、遠くを見つめながら、毎日の保育の中で、一人ひとりの親に、少しずつ子育てを返してゆく。親子を引き離さないように、悩みを聞いてあげる。手を貸してあげる。それが、二〇年後、三〇年後の親子関係に実るかもしれません。人類を無益な闘いから救う道かもしれません。そんな話をしながら、私は政治家とか役人、その背後にいる学者たちにひどく腹を立てていました。

 「保育園にいる間はなんとか、みんなでできるかぎりのことをして、精一杯の愛情をそそぎます。でも、学校へ行くようになったらと思うと悲しくなります」と園長先生がおっしゃいます。ああ、こんな発言がまだ出る国です、日本は。

 「学校へ行くようになっても、月に一度は訪ねてください、毎週でもいいんです」と私が言うと、園長先生の顔がパッと明るくなりました。

 「そうですね、そうだ、そうだ、そうすればいいんだ」とおっしゃるのです。「その子の家は、ちょうど私が朝晩犬の散歩をする途中にあるんです」

 私は、そのとき、システムや立場に縛られていた人間が、一人の人間に還ったときの嬉しそうな顔を見ました。子育ては仕事ではないのです。学問でもないのです。祈りの領域にあるのです。こんな園長先生や保育者がまだいてくれる日本の素晴らしさ。プロの保育者なんていらない。職業の枠を飛び越えて、子どもを心配して下さる本当の保育者が日本にはまだまだいっぱいいるのです。だからこそ、なんとかしたい。

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謹賀新年

明けましておめでとうございます。

本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
去年は、6冊目の本「なぜ私たちは0才児を授かるのか」が国書刊行会から出版されました。30年前、アメリカの現状から出発して、日本の保育者たちから学び、保育界の道祖神たちを見つめ考えて来たことを、少しシャクティ寄りの世界観からまとめました。
0才児、といっても主に言葉を知らないものたちとのコミュニケーションが人間を育てる、という意味で使っています。ダンスも実は言葉の介在しないコミュニケーション。
0才から2才くらいまでの人間との会話は、ほとんど宇宙との会話?人間の人間性に不思議な次元を与えてくれます。その次元が人間たちの絆を演出します。
去年も、日本全国で講演させていただきました。石垣島へは2度行かせていただきました。宮良先生ありがとうございます。宮古島も体験でした。
秋のシャクティの来日は、一生の思い出に残るイベントになりました。ここからどこへ進むのか、楽しみでもあります。
教育委員長をやらせていただいている埼玉県の教育のテーマは「生きる力と、絆」。シスターが言った「集まること、そして分かち合うこと」と重なります。23年間本に書き、講演してきた「人間たちが幼児を眺めることの大切さ」が、人間の行いすべての土台にあると確信します。
「親心を育む会」での先生たちとの勉強会は3年目に入ろうとしています。議事録も、感想文もずいぶん分厚くなってきました。もうすぐ一冊の本になろうとしています。ご期待ください。
会でマニュアルを作って薦めている「一日保育士体験」は、埼玉県では3年以内にすべての幼稚園保育園で、を目標に予算がつきました。品川区は来年度中にすべての保育園で、を目指してくれています。他でも、講演に出かける度にお願いしています。単体の園で始めてくれるところもあります。集団で遊ぶ幼児を眺めることによって親心が耕される、親心で人々の心が一つになると自然にモラルと秩序が生まれる。いまこの時代に、親心という人間性の耕しをしなければ、教育や保育に関するすべての施策は後手にまわる。後手にまわるくらいならいいのですが、施策が今のまま進むと、親心を基盤としていたこの国の魂のインフラが危機的状況に陥ります。日本は人類の大切なオプションにならなければいけないはず。
「一日保育士体験」が日本の常識になった時に、学校は生き返ると思います。
良いお年をお迎えください。   2010年 元旦          松居 和
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from India

Dear loving Kazu san Yoko san and Rio

All the Sakthi members remain in union with you all.

Convey our special prayerful wishes to Hide san,Hiromi san

and one more son and his wife.

We are having a special prayer this evening.

When is the buriel taking place.

When I think of our trip to Japan, Yamada san is full of it.

I am happy and thank God for the chance given to meet her and

be with her and experience her love and concern for Sakthi.

Convey our deep condolences to Komotsu san too.

With love,

Sr.Chandra.

My dear Kazu san,

For the past few days I was in my farm, could not receive any of the phone calls.

Today I was shocked to receive the news throu your E mail contains the sad demise of Yamada San.

What a lady she is ….What a lovely soul… My dear Kazu san, first time in my life, I am crying for a death.. still crying…not knowing how to stop, still crying..

I still hear the voice of Yamada San who always called from the bottom of her heart “My son… My son..”… I still feel the warmth of her hands who hold my hand tight, expressing her love and affection.

That was a rainy day… I took her in her wheel chair to her home… She was unable to climb on the steps of her home… what a painful suffering it was… I was very much moved and wept. I was cursing God and I was questioning God, ” Why… Why..Why you are giving such an untolerable pain and incurable disease to this good soul..?” There was no answer.

But now I realise That God wants to free the soul and took her to the heaven. She has become an angel.. She has become one of the shining stars in the sky…Her Love towards mankind, and her spiritual strength she will be a guiding star.. she is a beautiful angel..she is ONE in the million…

I am crying as if I have lost my mother.. I am crying as if I have lost my daughter.. I am at the edge of a painful experience.. Is there no death for death…?

I can’t do anything.. except recollecting the memories of Yamada San..

She is in my feelings.. She is in my veins..She is there in my heart.. she will be there forever. Till the end of my life Her spiritual strength and cheery spirits will guide me.

I express my deep condolences to my brother Hide san and sister Hiromi san. I would like to be with them to console them.

Please express my deep condolences to Komatsu san too.

With tears

Sowba.

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今日、山田さんが天国へいかれました。

シャクティの日本公演の原動力だった山田順子さんが、今夕天国へ逝かれました。

エネルギーの塊のような方でした。私は、そのエネルギーに何度も後押しをされ、励まされ、とにかく前へ進むことを教えられました。
シャクティセンターでも今夜は、みなで祈りの時を過ごしています。
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お祈りの会は、久我山教会で
行われます。
20日午後6時から
そして、
21日午後1時から

杉並区久我山2?13?3  
TEL:03?3332?9661