インドにいます。







 インドに来ています。久しぶりに、一年半ぶりにシャクティーセンターを訪れています。

 空港に降りた時から、「変わらないインド」がそこにあります。生きている感じがします。貧しくて、働けなくなったり怪我をしたら怖い、諦めるしかない世界。じっとりと人間が生きています。人類が集団である感じがします。アメーバーような人類です。理屈や理想論とは別の次元で、お互いがパズルのように組み合わさって、だから存在する「生きる力」です。この力は、強い。

 シスターチャンドラもシスターフェルシーも元気そう。空港に迎えに来てくれた二人の姿を見てホッとしました。シスターは少し体重を減らし、フェルシーは少し増えて、ちょうどいい感じです。マドライ空港は、典型的な田舎の空港だったのが、ずいぶん立派に巨大になっていました。インドの南部はハイテク産業の拠点になるはず。その玄関口として立て直されたのです。

 センターに着くと、歓迎の詩と踊りをみんなからプレゼントされました。新しい娘たちがたくさんいます。みんなで祈りました。

 

 インドの景気はどうですか、とシスターに聴いたら、「お金持ちはますます金持ちになるけど、貧乏人はますます貧乏になってきました」

 ダリットに対する差別の問題も、なかなか簡単に改善というわけには行かないようです。宗教や職業の世襲制がからんだ複雑な常識の中にカーストは存在しています。二千年の呪縛です。アメーバーの解体は、思うようには進まないようです。

 ダリットの少女たちも8年生までは学校へ行けるようになって来ました。行政や政治家の意識も変わって、選挙があるたびに、教育の権利が少しずつ守られるようにはなってきました。ダリットの人口はインドの人口の20%ですから、大票田ではあるのです。民主主義というパワーゲームも、試みとして一部機能しつつあるのです。

 しかし、新たな問題として、ダリットは学歴社会での差別と闘わなければならなくなってきているそうです。村で暮らしている時には体験することのなかった差別の現実を、教育と交通の発達のおかげで、体験出来るようになってきたのです。差別のフィールドが、個人の人生体験の次元で広がって来ている、ということです。ドキュメンタリーで語られたようなあからさまな差別の状況は、いつかは改善されるのでしょうけれど、まだまだ遠い遠い道のりです。

 まだ現時点では、差別の現実を体験する権利を勝ち取ることが出来た、という段階です。

 私もアメリカで人種差別を幾度も体験しました。多くの黒人の子どもたちが中学生くらいで崩れるように暗い顔になっていくのを見て来ました。知る、ということは、実は、覚悟のいることなのです。

 それでも、センターに来ている子どもたちの表情は明るく元気で、私をずいぶん勇気づけてくれます。

 美しさで量れるものがそこにはあります。美しさ、は「絆」の目に見える形だと思います。

 

 そこへ共励保育園の長田先生がから、この映像を見よ、というメールが入って来ました。

http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/1efa580162d941628d5d95393ebad583

 

 保育所の国基準を緩和せよ、という全国知事会の要望のニュースでした。大阪の橋本知事がテレビに出て来て、0才児一人当たりの面積を緩和しろというのです。簡単に言えばもっと詰め込めるようにしろ、ということです。

 

 インドにいると、なぜかこうした子育てに関する問題が、より一層くっきりと異常に見えて来ます。

 貧しい村で育ち、いまも貧しい暮らしをしているシャクティの卒業メンバーが、日曜日に子連れで集まってくれることになりました。結婚、子育てが人生そのものとして受け入れられている国の風景です。みんな子どもを私に見せたいのです。


「シスター?チャンドラとシャクティの踊り手たち」から、映像のメッセージ

オープニング http://youtu.be/YXk7xexQR8I    

セルバの結婚観    http://youtu.be/h3OpPP_JY_g        






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男女共同参画社会

2011年2月28日

栃木の那須の保育士会で講演しました。公立保育園は財政削減の名の下に、全国的に非正規雇用化が進んでいます。市によっては9割が非正規雇用という所もあります。加えて、今回の民主党の「子ども・子育て新システム」のような現場の良心、子ども優先の「心」を無視し、保育をサービス産業のようにとらえる雇用労働施策が出て来ると、みなやる気をなくしていきます。数年で退職という先生たちが、講演前に集まってきて「呆れています。誰も子どもたちのことを考えようとしない。定年前に辞めようかと思います」とおっしゃいます。この年代の園長主任たちは、親が親らしかった頃を覚えているひとたちなのです。次世代の保育士たち、そして親たちに園で人間性の伝承をしてもらわなければいけない人たち。もう少しだけ、がんばって下さい、ここまで状況がひどくなってくれば、そろそろマスコミも政治家も気づきますから、とお願いします。

 講演で「一日保育士体験を薦めることによって、保育園で子どもたちに囲まれる体験が親子の人生を変えます、なんとか親の目を、早いうちに子どもに向けさせ、彼らを眺めることの幸せを伝えて下さい。特に父親にやらせることで、母親がずいぶん楽になります。子育てを中心にして家庭の絆を早いうちにつくること、先生たちも、そこに生き甲斐を感じて下さい」と、お願いします。無理なお願いでも、お願いするしかないのです。いま保育が、その質を保ち、持ちこたえることがこの国を支える、という説明します。0歳から5歳の子どもがどう育つか。どんな時間を過ごすか。その間に、親たちがどう育つか、弱者を眺める視点で「絆」がどう育つか、それがこの国の魂のインフラです。道路を作ったり、ダムを造ったりすることよりもはるかに緊急かつ最重要問題です。

 続けて、鴻巣の男女共同参画の会で講演しました。大きな会場にたくさんの方たちが聴きに来てくれました。教育長や県議の方もいらしてました。
 アメリカで3割、スエーデンで6割の子どもが未婚の母から産まれる状況、犯罪率がアメリカは日本の45倍、学力が高いと言われるフィンランドでも30倍、イギリスが20倍という状況を説明します。欧米で、家庭の定義が崩壊し、どれだけ本来の男女共同参画が壊れてしまったか、弱者に辛い状況を生み出しているか、という話をしました。欧米社会の言っている男女平等はマネーゲーム、パワーゲームにおける「機会の平等」でしかない。いわば男女共同参画競争社会であって、より一層の格差と、弱者につらい社会を生んでいる。
 人類の進化の歴史から見ても、男女共同参画の第一は子どもを作ること。
 そして、子どもを作ることは、すなわち一緒に育てること。それが社会の土台です。
 そうした男女共同参画の基本である家庭と家族の絆が、先進国の中では、まだ奇跡的に残っている日本の素晴らしさを説明しました。もちろん、いま急激に日本を襲っている親らしさの喪失、弱者がその役割を果たせなくなっていることについても話しました。
 保育園で、週末48時間親に子どもを預けるのが心配だ、という園長先生が出始めています。せっかく五日間良い保育をやっても、月曜日にまた噛みつくようになって戻ってきてしまう1才児の話をしました。家庭と保育が日本でも本末転倒状態になってきていて、心ある保育士たちがどれほど悩んでいるか、を話しました。
 講演者に選んで下さった会長と副会長に感謝です。会長と副会長は、私を講演者にするかどうかで悩み、わざわざ二ヶ月前に会いにきてくれた方達でした。
 まだこの国は大丈夫かもしれません。もう一度、拝むような気持ちで、みんなで幼児を眺めていれば、男女がそれぞれの個性や役割りを自覚し、幸せを感じながら参画しなければ絶対に成り立たない人間本来の遺伝子の仕組みに気づくと思います。そうすれば、必ず社会に自然治癒力が働くはずです。
 今日は、これからもう一度長野県茅野市の園長・主任先生たちに、お願いに行きます。明日は鶴見区の保育士たちです。この人たちが子どもたちの幸せを願ってくれているうちは、まだ方法はあるのです。

カール・アンダーソン

 今日はカール・アンダーソンの命日だった。唐突に、メールで知人から知らされたのだ。

 7年前にカールは逝った。知らせてもらわなければもちろん覚えていなかった命日。こういう時は、意識の中で、、ちゃんどリアクションした方がいい。久しぶり、カール。

 カールは、私の最初のアルバム「Time No Longer」で歌っている黒人の歌手。ミュージカル「ジーザスクライスト・スーパースター」で主役のユダ役を演じ、映画「ディープパープル」にも出ている。

 私にとっては、アメリカという国の扉をあけてくれた案内人だった。今でも初めてスタジオで会った日のことを思い出す。温かい飲み物の入ったポットを片手に、「Voice from the Dark」を一気に歌い上げていった。https://www.youtube.com/watch?v=KwYERT0zE-Q

地球が終わりに近づいている時に、危機を告げる吟遊詩人に暗闇から語りかける、というかなり奇想天外な私の舞台設定を見事に歌いきってしまった。あんな体験は人生でもそうそうない。ジェニファー・ウォーンズが「Direction West」を二枚目のアルバムで歌ってくれた時も素晴らしかった。カールの時は、私にとって本物の歌い手を初めて録音した体験でもあったので、印象が特に強い。いまだに昨日のことのように思い出す。モントレースタジオだった。ちなみにこの曲のドラムは、亡くなったジェフ・ポルカロ、ギターはスティーブ・ルカサーとロビン・フォードだ。

 カールとは、人種差別の問題を軸に、アメリカや人間についてずいぶん話し合った。いつも言葉に力がある、ストリート系のインテリだった。

 私はいつも講演でアメリカのことを数字を上げてとてつもなく批判するのだが、カールが「Say it, Kazu, Say it!」と言っているような気がする。

 珍しい種類の白血病になった時、「Kazu, I ‘ve got bad deal, men」と言っていたのを、その声の哲学的な調子まで思い出す。妹の骨髄を移植したが駄目だった。なぜかいまでも私の携帯電話にはカールの携帯電話の番号が入っている。病院にかけていたのをそのままにしている。いつか電話をしなければ、と思っているのかもしれない。こういうときに、「携帯」電話はいい。

 葬式には、スティービー・ワンダーやナンシー・ウィルソンが来て、本気で歌った。霊歌を歌った。

 息子のカリルはいくつになっただろう。

 私が会った頃、カールは時々アブカリルを名乗っていた。回教名でカリルの父という意味だった。ブラックムスリムの運動に少し関わっていたのではないかと思う。カールがアメリカという国を見るとき、そっち系の厳しさが常にあった。ロジックが信心と螺旋状に絡み合っている。そう言えば、カールを看取った二番目の奥さんベロニカは、以前モハメド・アリの奥さんだった。私も、一度パモナ大学での集会に出て、アリからサインをもらったことがあった。

www.dongarlock.com/carl

大道あやさん

 あやおばさんが亡くなった。もう去年の秋に亡くなっていた。今になって報道されたのだった。100歳越えていたから仕方ないけれど、新聞の記事とラジオのニュースを聞いた時は、けっこう悲しかった。

 自分の人生が過ぎて行く感じがした。当たり前のことだけど。
 絵本の代表作「ねこのごんごん」を描いていた頃の風景を昨日のことのように思い出す。最近、昨日のことのように思い出すことが多いような気がする。過去と未来は実在しない、ということもついでに思い出す。
 割烹着を着て、下駄を履いて、眼鏡の奥からにやりと笑って、あやおばさんは、時々絵を描き、野菜を作っていた。泥をひねって羅漢様も作った。

 一昨年、松濤美術館での個展で見たドクダミの絵は、やはり凄かった。お兄さんの位里先生の牛も凄いのだろうけれど、私には、実は、あやおばさんのドクダミの方が凄かった。人生はどこかぼけてしまうところがあるのだが、あやおばさんのはそのドクダミの花と葉ようにくっきりしてした。
 あやおばさんが絵を始めたのが60歳。私ももうすぐその歳になる。

 シャクティセンターからメールが来て、今月の26日にフェルシーが正式に尼僧になる。
祈っていて下さい、というリクエスト。
道は続いてゆく。
来月、会える。

江ノ島アジア映画祭、ありがとうございました。

 実行委員会の方たちのご努力のおかげて、たくさんの人にシャクティの風景を見ていただくことが出来ました。

 この前会った茅ヶ崎の市長さんから祝電もいただきました。「一日保育士体験」進めてくれるといいのですが。
 保育関係の方たちもたくさん来てくださいました。私が本当に音楽家もできるところを見ていただきました。ピアノの三品亜美先生ありがとうございました。
 さっき、詩人の小野省子さんから最新の詩が届きました。以前ブログで紹介させてもらった「お母さんどこ」の娘さんが、もう一年生です。

『がっかりしないで』

 

お姉ちゃんの授業参観日に

弟が熱を出した

お姉ちゃんはまだ一年生だから 

お母さんを探してふり返るお友達の中で

きっと

淋しい思いをするだろう

熱で赤くなった弟の寝顔をみつめながら

何て言おうか考えていたら

娘は私の顔をのぞきこみ

そっと言った

「授業参観に来られないからって

そんなにがっかりしないで 

お母さん」


http://www.h4.dion.ne.jp/~shoko_o/newpage8.htm (省子さんのホームページ)

自民党本部での講演、シャクティ/江ノ島アジア映画祭、

 先週の土曜日、午前中横浜のかさまの杜保育園で講演をし、そのまま永田町へ行き、自民党本部で講演しました。以前厚労副大臣時代に水田次官に紹介された鴨下一郎先生が厚生労働部会のワークショップに推薦して下さり、保育の重要性について、保育園でどう子どもが育ち、親が育ち、絆が形成されるか、について一日保育士体験の実践を中心に話しました。そして、0歳から5歳までの子どもを育てる風景が、本当の意味での日本のインフラを立て直す鍵になるという話をしました。滅多にない機会ですから懸命に話しました。

 先進国社会に、子どもを見つめて生まれる絆を、幸福論として取り戻さないと、親らしさ(=人間らしさ)の喪失は、福祉や社会保障では補えるものではない。反対に、福祉や社会保障の普及、そしてシステムに子育てを依存することが、社会における「急激な人間性の喪失」を招くという話をしました。

 以前から理解をして下さっている田村憲久議員、熊本の桑原先生から紹介され国交副大臣室で2年前お話しをした金子やすし先生、司会をしてくれた丸川珠代議員、保育関係では以前から積極的に動いて下さっているはせ浩議員、元厚労副大臣の衛藤先生ほか、赤石清美議員、三原じゅん子議員、山本一太議員、大勢の方達が聞いて下さいました。ありがたいことです。出来るだけたくさんの方たちに現場の思いを子どもたちの立場になって説明し続けるしかありません。現場の保育者たちが日々の保育の中で思っている親心の喪失と家庭の崩壊を、いつか現場で見てもらいたい、そんな思いを強くしました。
 講演前に鴨下先生とは久しぶりにゆっくりお話しすることが出来ました。丸川さんと田村さんとは、これからも色々話し合いましょうということになりました。いまの流れを踏まえ、10年先20年先のことを考えると、こういうひとたちとつながりが出来ることは、大事なことです。願ってもないことです。幼稚園保育園、そして家庭、この相互理解と信頼関係を育む仕組みを何とか早くこの国に実現したいです。
 江ノ島アジア映画祭におけるシャクティの上映会、もうすぐです。
 ハーフタイムに、私はインドの村から何を学んだか、という講演をし、2曲、演奏します。ぜひ、いらして下さい。大きなスクリーンで見るのはまた格別です。
 11時と2時半の二回です。もし、インドへ実際に行って、シャクティセンターを訪れてみたい方がいらしたら、声を掛けて下さい。
 今週末29日に熊谷のさくらメイトで講演します。熊谷西高校のPTA主催ですが、講演を90分して、演奏を20分します。時々演奏する機会があるとホッとします。熊谷テレビが録画して放送してくれるそうです。

■ 日  時   2011年2月6日(日)

● 映画上映「シスター・チャンドラとシャクティーの踊り手たち」

      1回目11:00 2回目 14:30  (1000円)

 *1回目、2回目とも同じプログラムです。ご都合の良いお時間におでかけください。

              <作品概要>

カースト制度の最下層に位置するダリット(不可触民)の少女たちを集め、差別反対のためにある修道女が彼女達にダンスを教え、公演をしている。その活動の素晴らしさに引き寄せられた一人の日本人音楽家が、修道女の活動、ダリットの少女たちの生活を追った。監督 松居和(2007年/日本映画/カラー/108分)(第41回ヒューストン国際映画祭長編ドキュメ
ンタリー部門金賞受賞)。監督:松居 和

同 時 開 催

●ハーフタイムショー 13:00   ※無料です。

○松居監督の講演と尺八演奏

○インド舞踊・歌

●インドグッズコーナー 10:00?(各コーナー完売次第終了)

インド屋台、関係教材、図書、雑貨、食材など

●インド民族衣装試着コーナー 10:00

                                         *同時開催の内容は、変更になることがあります。


■ 会 場  神奈川県立かながわ女性センター ホール

藤沢市江の島1-11-1 TEL 0466-27-2111

【アクセス】

● 小田急線片瀬江ノ島駅下車 徒歩15分

● 江ノ島電鉄江ノ島駅、湘南モノレール湘南江の島駅下車徒歩20分

● 藤沢駅前から江ノ電バス「江ノ島行き」(15分)→江ノ島下車徒歩5分

● 大船駅前から京急バス・江ノ電バス「江ノ島行き」(約25分)

→江ノ島下車 徒歩5分

■ お問い合わせ

江ノ島アジア映画祭実行委員会 enoshimaeiga@liv

お父さんの感想文

新年早々から講演してあるいています。

栃木の園長先生から一日保育士体験の感想文で、面白いのが送られて来ました。
2才児の娘さんを持つ父親の文章です。給食についての感想文が素晴らしかったので引用します。

2。            保育士の仕事を体験した感想など、お願いします。

 まずは保育士の先生方に「本当にお疲れさまです」とお伝えしたいです。

 私は、保育園とは「預かる」「食べさす」「寝かす」「遊ばす」を事務的に行って、ある意味「監視」という形で請け負っているのかと思っていました。(失礼な発言ですみません)。他所の保育園はわかりませんが、さくら保育園はまったく違うということを実感し、納得しました。なぜかと言うと、まず保育園の中にしっかりとした「教育」の概念が存在していて、それを先生方が「作業」ではなく、「信念」で行っていることを体感したからです。「監視」であれば、理由なく「だめはだめ」「規則は規則」といっていればいいです。一番憶えや、呑み込みがはやいこの時期にそんなことを教わって大人になると、考えず、思いやれずの人間形成が出来上がると思います。

 ですが、先生方が信念をもって園児に「しっかり」「わかるようにゆっくり」「理解したときは褒める」を先生たちのやり方で行っていました。今の大人に一番足りない行動に思えて、感動してしまいました。間違ったことをした園児に「悪いこと」で済まさず、「何が間違っているか」を伝える、これが教育だと思いました。

 今の担任の先生方に娘をお預けできて本当に安心しています。

 ありがとうございます。

4。            給食について感想をお願いします。

 とてもおいしかったです。毎日食べられるのがうらやましいです。

 余談ですが、実は私自身ブロッコリーが大嫌いで、過去に何度も挑戦しましたが、挫折してきました。娘のお友達が「Iたんのパパがいるから、ブロッコリー嫌いだけど食べるね」と言って、顔をしかめながらがんばって食べました。

 「すごい?」と聞かれて、本気で「すごい」と言いました。

 その後もとても嬉しそうにしてくれたのが印象的でした。情けない話ですが、勇気をもらったので、思い切って私もブロッコリーを頬張りました。あの大嫌いな食感が襲ってきましたが、一気に呑み込みました。

 生まれて一度も食べられなかったブロッコリーが食べられました。

 「おいしい?」と聞かれ「おいしい」と答えられた自分を褒めてあげたいです。

 勇気をくれたお友達、ありがとーーーーー!

 

5。            その他

 

 今回の保育体験は、一保護者の意見として、ぜひ「お父さん」に参加していただきたいです。感動します。外に出てコミュニケーションが不足だったり、知らない言葉や表情、お友達の付き合い方、親とは違う大人(先生)への対応などが身近に実感できる滅多にない機会だと思います。こういう機会を作っていただいた園長先生他、たくさんの先生方に娘がめぐり合えたことに感謝しております。

 正直、ニュースなど子どもの話題は悲しく暗い話が多く感じますが、このようなイベントを先生方が信念をもって行っていただき普及して行けば、もっと明るい話題に変わっていくと信じています。

 容易ではないご苦労だと思いますが、これからもがんばって下さい。

 ありがとうございました。

小野省子さんの詩「お母さん、どこ」と解説

小野省子さんの詩

 お母さん、どこ

 

「ヒカリちゃんのお母さん、どこかしら」

「ここにいるじゃない」

「それはコウちゃんのお母さんでしょ」

弟を抱いた私に、娘は言った

長いまつげの小さな目は

悲しげにも見えたし、

何かをためしているようにも見えた

「じゃあ、ヒカリちゃんのお母さんは

どこにいると思うの?」

「病院に寝ているんだと思う。

ばあばが言っていたよ。

ヒカリちゃんのお母さんは病院に行ったよって」

 

娘は、私が弟を出産した日のことを言っているのだ

「お母さんをむかえに行かなくちゃ」

玄関でくつをはこうとする娘の

小さな背中を見ていたら

私は

夕闇の中で

大切な人に置き去りにされたように

心細くてたまらなくなった

同時になぜか

動揺している自分が

くやしくもあるのだった

 

娘はふり返って

私が泣いているのを見て

「あっ、ひかりちゃんのお母さん、

やっぱりここにいた」と

無邪気な風に言うのだった


http://www.h4.dion.ne.jp/~shoko_o/newpage8.htm (省子さんのホームページ)

(解説)

 三歳の娘が、そこにいる母親に向かって、「おかあさんどこ?」と言ったとき、娘は魂の次元のコミュニケーションに入っている。

 「ここにいるじゃない」では、答えにならない問いかけに、母親は応えなければならない。父親なんて、普通、こんな質問さえしてもらえない。

 泣くしかなかったお母さん。

 言葉のない会話を、0歳からずっと娘と続けてきた母親は、「泣く」というやり方で、ヒカリちゃんに答えることができた。それは、娘の魂に寄り添うこと。

 自分が病院に居た時に、玄関で何ども靴をはこうとした娘の姿をイメージし、そのイメージと心を合わせることが可能だったから、言葉で答えることの無意味さを知っていた。言葉ではないコミュニケーションの次元が存在することを母親は知っていた。それを学ぼうと、人間たちは幼児とつきあい続ける。母は何も悪いことはしていない。いくらでも言い訳ができたのです。しかし、娘の悲しみは、その言い訳が通じる次元のものではないことをすでに娘から教わっていた。

 子育てだけではなく、人間関係は育てあう時、悲しみや絶望感を必要とすることが多いのではないでしょうか。子どもたちは、そのことを正直に私たちに告げる。魂を感じあうしかない絆の確認で人間は生きてゆくのです。悲しみを避けていては、絆は育たない。こうしたコミュニケーションの先に、前回紹介した「愛すること」の詩があるのだと思います。

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 0歳児が初めて笑った時、見ていた人間たちは嬉しくなり、命を眺めるひとたちの心が一つになる。それが、人間社会の原点だと思います。

 産むことは育てること。人間が「自分自身を体験したい」と宣言すること。0歳児と言葉のない会話を繰り返し、人間は年をとって、お地蔵様や盆栽、海や山とも会話出来るまでになる。こうしたコミュニケーションが、人間の精神の健康を保ち、生きる力である絆を生む。

 幼児は「頼りきって、信じきって、幸せそう」、宗教の求める完成された人間像を私はそこに見るのです。
 完成している人間が一人では生きられない。ここが、素晴らしい。真の絆が生まれます。
 集団で遊ぶ幼児をながめ、人間は、自分がいつでも幸せになれることに気づき、幸せは、「ものさしの持ち方」だと学びます。「自分も昔、完成していた」と気づいた時、一体感が生まれます。

小野省子さんの詩『愛し続けていること』

『愛し続けていること』 詩/小野省子

いつかあなたも
母親にいえないことを
考えたり、したりするでしょう

その時は思い出してください
あなたの母親も
子供にはいえないことを
ずいぶんしました

作ったばかりの離乳食をひっくり返されて
何も分からないあなたの細い腕を
思わず叩いたこともありました
あなたは驚いた目で私を見つめ
小さな手を不安そうにもぞもぞさせていました

夜中、泣き止まないあなたを
布団の上にほったらかして
ため息をつきながらながめていたこともありました
あなたは温もりを求め
いつまでも涙を流していました

わたしは母親として
自分を恥ずかしいと思いました
だけど苦しみにつぶされることはなかった
それは小さなあなたが
私を愛し続けてくれたからです

だからもしいつか 
あなたが母親にいえないことを
考えたり、したりして
つらい思いをすることがあったら
思い出してください

あなたに愛され続けて救われた私が
いつまでもあなたを
愛し続けていることを

http://www.h4.dion.ne.jp/~shoko_o/newpage8.htm (省子さんのホームページ)

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 出会うことの不思議は、人それぞれが自立出来ないといことを証明しているようです。去年、私の講演を聴いた一人の母親が、手紙と詩を送ってくれました。

 「話が進むに従って、私の中で不思議に思っていた問題が少しずつ解かれていきました」と書いてありました。

 自分が子育てをしながら書いた詩の解説に、私の講演がなったのです。私は、最近講演でこの方の書いた詩を一つ朗読します。短い詩が、私の2時間の講演の全てを説明してくれる。詩という芸術の素晴らしさを実感します。余韻、余白、で表現する、これは、言葉の喋れない0才児が私たちから「人間性」を引き出そうとする人間の進化の仕組みに似ています。感性の世界で全体的につながることを要求する。詩人の感性は、子どもの感性とよく響きあう。この余韻、余白から生まれる時空を超えた感性の絆が、人間社会には大切なのだと思います。人が育てあうことの背景には「信頼」が存在する。信頼を確認するために人は永遠に育てあう。
 人間が育てあい、支えあう行為が、人間対システムになってはいけないと思います。人間対自然であればいいけれど、システムは人間の思考から出来上がっていることが多いので、偏りが出て来てしまう。社会全体で子育て、と政治家は言うけれど、それでは、社会から本来の人間性が失われてしまう。システムが人間を支配するようになってしまう。

 幼児は信頼することで私たちに人間であることの幸せを教え、ときどき許し、絆を育てる。それが初めにある。それが社会。そして私たちは、詩人がそう言うように、幼児によって「救われる」。そうやって人間性は潰されずに回り続けてきた。絶対的弱者が運動の始まりに存在して、動機、意思を生み出す。
 講演でこの詩を声に出して朗読すると、時々、最後のところで泣きそうになってしまいます。

(小野さんの子育て詩集「おかあさんどこ」がhttp://kazumatsui.com/genkou.htmlからダウンロードできます。)