シャクティの踊り手たちとシスター、アメリカに行きます

 29th of this month we are travelling to South Carolina.

July 2nd is our FeTNA program. Then we have arranged

program and mission preaching in 3 churches.July 23rd

will be the last program in Atlanda arranged by FeTNA

and we will travel back on 25th.

ビザも無事とれて、シスターたちと踊り手たち、いよいよ渡米です。

何かが始まる感じがします。

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シャクティの映像と解説/考えたこと

http://kazumatsui.com/sakthi.html

(シャクティの映像と少し詳しい解説をホームページに載せました。
映像は、リンクさせてYouTubeで見られるようにしました。)
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シスター・チャンドラと出会い、シャクティの踊り手たちを追いかけ始めなければ、私は一生に一度もドキュメンタリー映画を撮ることはなかった。そう言ったらシスターは「God’s Will」(神の御遺志です)と笑って答えた。

 インドという国の圧倒的な存在感と風景、そして静けさは、私に様々なことを教えてくれた。いまでも、教え続けている。日本で、保育や教育の問題、子育ての意味について考え書き、0歳児の役割について講演している時に、私は時々原点に還るようにシャクティの風景を思いだす。人間が長年共有してきた次元や意識がその中にある。

 そして、繰り返し考える。「人間はなぜ踊るのか」。


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草原で語るシスター「幸せとは」

草原で。「幸せとは?」  http://www.youtube.com/watch?v=uoQXhyz0rOg 
このアドレスで「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」のシスターのインタビュー映像にリンクします。


 「祭り」は、人間の進化や伝統の中で大切な役割を果たしてきました。絆に頼り、絆を信じて生きるしかない人間たちに必要な大切な行事です。生きている意味を確認し、体現することなのでしょう。福祉とか教育では中々代行できない、人間の遺伝子をオンにするために必要な発明です。

 祝うことが、祈ることであってほしい。祈ることが、祝うことであってほしい。そんなメッセージが伝わってきます。

 今のかたちの宗教が現れる前にあった人間のつながり方、原始的な祈り方を「アート」という言葉でシスターは表現したのだと思います。この次元のつながりを取り戻すことが、人類に必要ですね、と言っているようです。

 日本の小学校で、毎朝子どもたちが「輪になって踊る」ことで、この人類としてのつながりを実感出来るような気がします。オリンピックの開会式などを見ていても感じますが、こういう次元のコミュニケーションの入口に「0歳児が静かに眠っている」のだと思います。

 このインタビューの中でシスターが、「幸せとは?」という私の質問に、「集まること」と答えます。このタイミングが私は好きです。ドキュメンタリーという形でなければ残せない、宇宙にたった一度しかないタイミングのような気がします。時々、こういう瞬間のために生きているような気がします。


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栄養士さんからの講演依頼

 さっき、埼玉のある学校の栄養士さんから、夏の研修会で講演してもらえませんか、というお電話がありました。日程がどうしても合わず受けることはできなかったのですが、嬉しかったので、しばらくなぜ嬉しいのか考えているうちに、これを書いています。学校の現場でも先生や保護者の前で話すことはたくさんあるのですが、栄養士さんたちからの依頼というのは初めてでした。

 以前、本に書いた文章を思い出し、それをこのブログにも書いておこうと思いました。


保育園の守護神たち

 

 山形の先生たちに講演する前に、しばらく控え室で若い先生と二人っきりになりました。大会のセレモニーをしている間、待ち時間があったのです。その若い先生が入れてくれたお茶が、不思議においしかった。落ち着いた、やさしい味がしたのです。

 「何年保育士をやっているんですか?」

 「保育士ではないんです。調理師なんです。給食を作ってます。七年目です」

 「おかけになりませんか?」

 「はい」

 「楽しいですか?」と尋ねました。

 「はい。とても」と微笑まれます。「でも、三年務めたとき、一度やめようと思ったことがありました……」

先生は、そう言って窓の外の景色を見つめます。「そのとき、園長先生に、もう二年やりなさい、と言われたんです」

 「つづけたんですね」

 「はい。五年目くらいから、調理をするのが楽しくなりました。私の作った給食を、どんな顔をして園児が食べているか覗いて見るようになったんです……。おいしそうに食べているのを見て、とても幸せな気分になってきたんです。あのとき、やめないでよかったです」

 「五年かかったんですね」

 「はい」と頷く先生の顔が、晴れ晴れとしています。

 一杯のお茶の向こうに園児が見えました。声が聞こえる気がしました。

 給食の先生は保育園を眺めています。客観的という言葉は当てはまらないけれど、毎日毎日、繰り返し心を込めて園児の食事を作る人たちは、園のすべてを見ています。おいしい給食をつくる先生に聞くと、その園のことがわかります。

 厳しい保育士がいたりすると、お願いだから給食の前にあの子を泣かさないで、と心の中で祈ります。心を込めて食事を作ることが、人間の確かな目を育てます。だから、保育園に給食室は必要です。保育園は子どもたちが育っていく家なのです。屋根があって、門があって、釜戸があって、その釜戸の前で、子どもたちを思う心が育っているのです。

 調理師の先生の目が、子どもたちを見守っている。これも大切な保育です。

(「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」国書刊行会より)


 幼児が育ってゆく不思議な気が活発に動く場所で働くひとたちが、ただ職業として労働として働いていたのでは、幼児たちが、本当の役割を果たせたことになりません。幼児たちの存在が、社会に人間性を育てる。潜在的な役割を含んだ絆を育てる。その絆は、いつどこで役立つのかわかりません。しかし、お互いの意識の中に存在し、育ってゆくのです。

ある理事長先生のはなし

 ある私立の幼稚園の理事長先生の体験談です。男性ですが、子どもが大好きで熱血漢、県会議員もやっておられる年輩の方です。

 ある年、視覚障害をもっている子どもを引き受けたそうです。経験がなかったので躊躇したのですが、どうしても、と言われ、決心し、自ら勉強会や講習会に通い、出来る限りの準備をしたのだそうです。

 その子が入園して間もなくのころ、砂場でその子が一人で遊んでいて、自分の頭に砂をかけたそうです。その「感じ」がよかったのか、そっと、繰り返しかけたのだそうです。理事長先生は、注意することなしに「遊び」「体験」として見ていました。幾人かの子どもが集まってきて、その子にそっと砂をかけ始めました。それを理事長先生は、「育ちあい」として見ていました。長年保育をしてきた先生の経験からくる確かな判断がありました。その子のお母さんが見ていたことも、先生は知っていました。

 無事に3年が過ぎ、卒園が近づいてきました。そして、その子の母親が「あの日」のことを卒園の文集に書いたのです。砂をかけられ幼稚園でいじめられている我が子の姿がどれほど不憫だったか。それを先生たちは笑って見ていた、と。

 理事長先生は、あれほどびっくりしたことはなかった、悲しかったことはなかった、障がい児を預かるのはもうやめようかと思った、と話します。子どもに対する思い、保育にかける情熱に自信がありましたから、その気持ちが母親に伝わっていなかったことにびっくりしたのです。

 3年間そういう思いで過ごしてきた母親の気持ちを思うと、私はやりきれない思いにかられます。しかし、これは、いい理事長先生といい母親のエピソードです。

 その子は3年間、この二人に守られていたのです。

昔つくった音楽

 昔のアルバムから4曲聴けるようにホームページの表紙にリンクをしました。聴いてみて下さい。

http://kazumatsui.com/music/music.html

 懐かしい、曲たちです。30年前に作った一枚目のアルバムの復刻版CDがアマゾンでプレミアつきで出品されていました。いまだに、探している人がいるのかもしれない、と思うとかなり嬉しい。音楽が生きている。
 その時生きていた、いくつかの魂のコラボレーション。作曲家、作詞家、アレンジャー、ミュージシャン、歌手、エンジニア。音楽を聴けば、蘇る出会いがある。蘇るものがないと人生に悪い。自分一人では蘇れない。昔作った音楽でさえ。
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 公立小学校の50周年記念で講演したときのこと。講演の前に小学生たちの学年別合唱発表会がありました。体育館は満員でした。床にぎっしり座っている親たちの姿を見て、ホッとしました。まだまだ大丈夫。

 一年生の合唱が始まり、音楽を愛する熱心な女の先生が表情豊かに大きな身振りで指揮するのを、この前まで幼稚園や保育園に通っていた一年生が一心に見つめ、声を合わせて歌います。

 幼さの残った子どもたちの心を一つにして歌う姿が、体育館の床に座っている親たちに、「心を一つにして下さい。そして安心して下さい」と歌いかけているようです。指揮をする先生を見つめる視線が、一身に信じること、頼り切ることの大切さを教えてくれているようです。

 次に歌った五年生たちのきれいなハーモニーが、「心を、美しく、それから一つにして下さい」という願いを伝えている。一学年ずつ、伝えるメッセージが違います。

 隣に座っていた校長先生が私に言います。「合唱を聴けば、まとまっている学年とそうでない学年がわかります。子どもたちと先生の心が一つになっているかどうかがわかるんです」

 そう。学力テストよりも、合唱大会のほうが社会にとって有意義です。生徒たちの絆を計れる上に、先生の実力もわかります。なにより子どもたちが大人たちを育てる、という宇宙の法則を学校で実践できるからです。

 あの一年生の姿を、あの子たちを育てた保育者たちにも見せてあげたかった。ふと、そう思いました。

ひたちなか市、宇都宮、茅野市

 日曜日、茨城のひたちなか市で梶山ひろし代議士主催の講演会で、600人の主に年配の女性の方たちに話しました。子どもをもっと眺めよう大切にしよう、と熱い思いで会場全体が一体になり、ずっと日本を守ってきたひとたちの前に立っているような気がしました。人間は自分のためにこんな風に一体になれません。子どもたちのため、孫たちのため、他の人の子どもであっても、幼い命のためだから心を一つにできるのです。言葉の話せない0歳児のために、想像力を働かせ、みんなが共感しなければなりません。

 エンゼルプランなど、結構、過去の自民党の施策の批判もしたのですけれど、日本の利他の幸福論は、子育てをしてきた女性の中にちゃんと生きている、通じる。この女性たちの世代で親心・祖父母心が途切れてしまったら取り返しがつかないことになる、と思いました。たくさんの笑顔とエネルギーをいただきました。梶山先生も最前列で聞いてくれ、2時間の陳情のつもりで話しました。具体的な方法として、一日保育士体験が常識になりさえすれば、いいのです、とお願いしました。
 参加してくれる予定だった熊本の金子代議士は台風で飛行機が飛ばず、残念ながら来れませんでしたが、国会でほんの少しでも理解者がつながっていると知るのは心強いことです。民主党では、私の説明を聴いて「これは国家戦略の問題だね」と言ってくれた長島昭久議員が梶山さんの友人だそうです。それを知ったのもこの日の収穫でした。
 帰りに強い風の中、ひたちなかの港を見ました。

 月曜日、宇都宮で栃木の保育士たちに話しました。二度目三度目の保育士たちも居ます。民主党の子ども・子育て新システムにはみなが反対しています。そこを聴きたい、詳しく説明して下さい、と言われます。まず基本にあるのは、五年以内にあと25万人三歳未満児をあずかれ、という雇用・労働施策です。これをやるには保育士がいません。資格を持っていて働いていない保育士が90万人居る、と厚労省は言うのですが、その人たちのほとんどが未経験のペーパードライバー。現実は、いまのままでも、公立私立を問わず保育園で保育士の欠員ができると埋めるのが大変なのです。資格を持っていないパートの保育士でさえです。それを、保育の国基準を緩和して無理に進めようとしている。現場は、もうこれ以上水増し保育は許さない、子どもたちの毎日の生活を犠牲にしないでほしい、という気持ちでまとまってきています。雇用・労働施策で子育てを考えるのはもうやめにしないと、この国から人間性が失われていきます。
 大学や専門学校の保育科があちこちで定員割れを起こしている状況で、保育士の青田買いが進みます。学校丸ごと買い占め、なんていう話もを耳にします。企業保育や派遣会社が保育界に市場原理を持ち込んでいる。母親の近くに子どもたちが居る、という視点で、企業保育自体はけっして悪くない。しかし、日本の保育はただの託児ではありません。保育士たちが長年にわたって勉強し、検討し話し合いを繰り返し、学校教育の準備を担うところまですでに進化しています。確かなリーダーや経験者なしにすぐに進められるような簡単な仕組みではありません。もし、保育界が「ただの託児でいいんだね」ということになって匙を投げたら、すでに危ない所にきている学校教育が急速に疲弊していくでしょう。日本のモラル?秩序を支えていた次世代育成能力が根本から崩れて行きます。
 小泉・竹中路線が押し進めた市場原理・競争原理の裏にあるのは、サービス産業の論理です。保育にこれを当てはめようとすると、必ず「親へのサービス」になっていってしまう。しかし、保育は「子どもたちのために」まず存在しなければならない。10年前に私立保育園の定款に「サービス」という言葉が入れられた時に、園長先生たちがどれほど違和感を感じ傷ついたか、行政も政治家も学者もわかっていない。この違和感は、親心の崩壊の流れに気づいている園長たちの、それはもう直感的なものでした。
 国基準を規制緩和することで、予算を増やさずに待機児童をなくそうとしている。しかし、保育界の市場原理はかならず行き詰まる。なぜなら保育は常に幼児たちの目にさらされているからです。現場で良心を捨てなければ、この大人優先の市場原理は成り立たない。
 待機児童はなくそうとすればするほど増える。政府はそれを目指しているのですからその通りになりつつあるということなのですが、一連の現場を知らない施策の弊害が保育界を蝕んでいます。
 保育士の補充がこれほど困難になっているということは、明らかに保育の現場に居てはいけない保育士を園長が排除出来なくなってくるということなのです。一度、園長や主任が、保育の現場であってはならない光景を故意に見過ごすと、保育界から良心が欠け落ちてゆく。保育の現場は、言葉のしゃべれない子どもを相手にする、本質がイマジネーションの次元にある育ちあいの現場なのです。人間たちの意識が問われるフィールドです。心ある保育士があってはならない光景に耐えられずに辞めていく。そんな風景が日本全国で頻繁に起こっている。そして、犠牲になっているのは子どもたち。この現状を、なんとか予算をかけずに食い止めるには「一日保育士体験」しかないのかもしれない。「育てる側が心を一つにしようとする」ことを子どもたちは望んで産まれてきたのです。茅野市の保育士たちが「一日保育士体験」にすぐに賛同してくれたのは、いつでも親に見せられる保育をしている、という自信があるから。そのことだけでも茅野の親たちは恵まれている。茅野の保育士たちが作って来た伝統に感謝してもいい。感謝が、育てる者たちの心を一つにします。
 認可保育所を増やさずに待機児童をなくそうとするため、都市周辺では認可外保育所がどんどん増えています。家庭保育室という名で、60人規模の保育所がゆるい規制のもと参入している市もあります。『「おおむね」とか「のぞましい」という言葉で子どもを守れるわけがありません』と、規則を守らせる立場の市職員が嘆いています。
 火曜日、台風一過、きれいに空気が澄み山の緑の濃淡が美しい中央道を運転し、茅野市で最後の2園で話しました。市長、教育長、教育委員、市議、も一緒に聴いてくれました。これで、17園すべてで話し終わりました。役場の担当の方たちは17回聴いて、まだ聴きたい、と言ってくれました。一回一回違う母親たちとの一体感が気持ちいい。出会いを感じるのです。子育ては人間たちが出会うために
ある。もう、同士といってもいい仲になりました。寂しいですね、また来ます。お土産をたくさんいただきました。これから企業に、親たちの一日保育士体験への協力を呼びかける手紙も、出来上がっているのを見せてもらいました。
 隣町から園長先生が一人聴きにきてくれました。町長が良い事をしているつもりで福祉を進め、三人目の子どもは保育料を無料にしたので、0歳児が急に増えてきたそうです。保育が利権になり始めている。
 なぜ、町長は園長の話に真剣に耳を傾けないのでしょうか、なぜ政治家は現場の声に耳を傾けないのでしょうか。本当に子どもたちのことを考えているのは誰なのか。真実を語っているのは誰なのか。人間が安心して本音で話し合うことができるだけで、方向性は必ず見えてくるはずなのです。優先順位が見えてくるはずです。
 市長に、育休に入っている学校の先生が、赤ちゃんを生徒に毎月見せに来るのもいいですよ、という話をしました。小学生、中学生の保育士体験はやはり三日がいいです。寂しさや、別れる悲しみが生まれます。それが感性を育てる。高校生の保育士体験は、少人数で男女の生徒が混ざって、幼児の前にいるお互いを盗み見るのがいいのです。男女がいい人間だと確認しあうために幼児がいるのです。そうすればきっと少子化対策にもなります、と伝えました。
 みんなで幼児を眺める、その目線が人間社会の基本にあれば、大丈夫です。そんなに難しいことではないのです。
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 シスターとシャクティの踊り手たち、今月末アメリカへ行きます。アメリカの独立記念日に踊ります。私も演奏して下さいと招待する団体から誘われたのですが、山口で保育士たちの大きな大会が入っていて帰国が間に合わず残念ながら参加出来ません。でも、踊り手たちがアメリカで踊っている姿をイメージするだけでワクワクします。別の道を行きながら、意識の世界で一緒に旅をしている、そんな感じがいいのでしょう。
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 日本のために祈りを捧げてくれているひとたちがいます。毎日日課のように、祈ってくれている踊り手たち。

茅野市との不思議な縁/マニフェストに一日保育士体験を入れて市長が当選

 前茅野市長で現長野県教育委員長の矢崎さんと全国教育委員長会議で出会ったのがきっかけで始まった茅野市との不思議なご縁です。以前から茅野で絵本の読み聞かせ運動を進めていた牛山圭吾先生とは長いお付き合いでした。それが矢崎さんの推薦で去年役場とつながって、現市長が一日保育士体験をマニュフェストに入れて再選されたので、6月から一斉に保育園で始まります。今月中にすべての保育園で保護者に講演することになりました。半分終わりました。

 今日も、二つ講演して来たのですが、講演のあとに課長さんや園長先生たちと色々話をするのが楽しみになり、今日も一つ勉強になりました。
 茅野では、昔から小学校の入学式は父親が子どもについてゆくのが習慣だったそうです。母親は家で御馳走を作って待つのだそうです。今では変わって、夫婦で来る方も多いのですが、それが昔は当たり前で「他では違うのですか?」と園長先生に聞かれてしまいました。
 「そうですよね課長さん」
 「そうです。私の頃は,父が来ましたし、息子の時も私が行きました」
 そこで私が、沖縄では常識的に5才児はみんな一年間幼稚園に行きます。保育園の卒園式は伝統的に4才児です、という話を披露すると、みんなそれにはさすがにびっくりしていました。
 先週の日本保育学会の大会、「多くの方から大絶賛でした」と大豆生田先生からメールをいただきました。
 びーのびーのの奥山さん、ゆうゆうのもりの渡辺先生、白梅大学の汐見学長、そして玉川大学の大豆生田先生と私でした。時間が短かったこともあり、私はちょっと熱くなってしまい、どれだけ思いを伝えられたか心配だったので、ホッとしました。
 

若い議員に陳情

 午前中、国立市の私立幼稚園PTAでお母さんたちに講演。偶然聴きに来ていたひえださんという若い女性市議が、講演のあと他の若い男性市議二人にすぐ電話して、ホールのロビーで色々話をしました。駆けつけた若い政治家たちに、幼児たちの存在意義、親心が崩壊してゆくと弱者に厳しい社会になってしまうこと、福祉が家庭崩壊を進めてしまう危険性などについて話しました。そして、たぶん一日保育士体験が唯一の解決策だと思う、と言いました。20年後のことを想像しながら,頼むよしっかり、半分祈りながら気合いが入ります。

 そのあと、茨城の梶山ひろし代議士の秘書の方が、来週ひたちなか市でやる講演会の打ち合わせに来られました。津波の影響はまだまだあるようです。市長さんや県議の方たちも来られるようで,いい機会をいただきました。先日自民党本部で講演したのがきっかけになっています。茨城でも何か始まってくれると良いのですが。
 以前国交副大臣時代にお会いした熊本の金子代議士も聴きに来られるとのこと。いま、保育界は大変な時期にさしかかっています。説明したいことがたくさんあります。

 明日は玉川大学で日本保育学会の大会があり、パネルディスカッションに出ます。久しぶりに汐見先生と一緒です。司会は大豆生田先生。テーマは「子どもは誰が育てるのか」。はっきりとした線引きは出来ないのですが、極端に言えば親か社会か、ということでしょう。「社会」の定義があいまいなので噛み合ない部分もあると思いますが、福祉で子育ての肩代わりをどこまでするのか、危険水域の見極め、という議論になるのでしょう。

 明後日、22日日曜日は中野の環境リサイクルプラザで講演します。これは一般に公開です。一時からです。お問い合わせは「はぴふる」までどうぞ。

佐伯昭定先生のこと。

 昨日の国神保育園に続き、今日も秩父の明星保育園で講演しました。両園は姉妹園です。真言宗のお寺の保育園。びっくりしたのは、八十才を越えた創設者でもある道祖神園長先生、小学校が明星学園で照井げん先生に音楽を習ったとおっしゃるのです。その時の授業や修学旅行がいまだに忘れられずに保育園に明星と名付けたそうなのです。私はおげん(お元)先生の最後の教え子。おげん先生は私が入学した時にはもうおばあちゃんでした。私は小学校しか明星に行っていませんが、お互いにその時期の思い出が強く、歳がこんだけ離れていてもやはり共通して習った先生が数人いて、いろいろと懐かしく話をしました。当時の明星学園は修学旅行で京都に行き、帰りは船で帰ってきたのだそうです。もちろん戦前です。照井先生が一学期かけて道中出会う物に関連づけて授業をしてから出かけたそうです。

 ちょうど、前回遠藤豊先生のことを書いたばかりだったので、これは偶然ではないような気がします。昔の授業の思い出をもう一つ書くことにしました。

 私の小学一年生から三年生までの担任は佐伯昭定先生でした。ピー閣下とあだ名され怒ると怖かった遠藤先生とはまた違った、柔軟性のある魅力的な国語の先生でした。
 いまでもはっきり覚えているのは、「ダムのおじさんたち」という絵本を使った授業でした。当時の明星学園の授業はほとんど教科書を使いません。あのころ国語の授業で読んで話し合い、美術の時間には一学期かけて絵まで描いた「ごんぎつね」や「なめとこはまのくま」、「てぶくろをかいに」「だいぞうじいさんとがん」は、子ども心にすごい話だなと思いました。その時の言葉の向こうに見える空間、感触を鮮明に覚えています。私は宮沢賢治か新美南吉か、となると新美南吉が好きでした。
 「ダムのおじさんたち」は後に「だるまちゃんとてんぐちゃん」で有名になる加古里子さんの初期の作品。
 ダムのおじさんたちが、ダムを造るのには何が必要か、という佐伯先生の問いかけに、45分かけてみんなが必死に答えを出そうとしていました。シャベルとか、つるはし、大きな重機など次々と答えるのですが、先生は、一番大切なものを忘れている、と私たちに問い続けました。みんなの頭の中がかなり混乱し始めた頃、最後に、だれかが小さな声で「ごはん?」と言ったのです。先生は「そう!」と言いました。
 この授業、いまだに私の中に生きています。

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