詩集、配っています

 小野省子さんから快諾を得て、省子さんの子育ての詩を詩集にして講演会で配っています。

 去年から、「おかあさん、どこ」と「愛し続けていること」の二編を講演会で朗読しているのですが、もっと読んでみたい、読み返してみたい、という主に母親たちの希望にこれで応えられるようになりました。幼児の存在、そして幼児との時には言葉にならない会話が、どれほど深く、時に悲しく人間の心を育て、魂の次元のコミュニケーション能力と想像力を高めるか。省子さんの詩には、人間が、その人生を深く豊かにしてゆく瞬間が見事に語られています。こういう育ちあいの時間が、人間たちに、「すべての人に役割がある」「お互いに鏡なんだ」という意識を持たせるのだと思います。
 詩集は、解説付きでホームページの「原稿集」からダウンロードできるようになっています。http://kazumatsui.com/genkou.html
 広めていただければ、幸いです。
(メールが着ました)

突然に失礼致します。

00県00市にある、保育園の園長です。

00市保育協議会の会長も努めさせていただいております。

昨年度、1月に県の研究大会の時、先生の講演をお聞きしました。

先生のお話に吸い込まれ、私自身がとても元気を頂きましたので、あの時参加できていない、園を守っていてくれた保育士にも、是非、先生のお話を聞いてもらいたい!と思い、色々な方を通してやっとここまでたどり着き、不躾ながらお願いしております。

私達の町は、「市」と言っても人口は3万8千人、産業、工業もない小さな町です。

そんな町ですが、ここ何年、子どもの様子が様変わりしてきています。

5歳児になっても椅子に座れない、話が聞けない、朝から「だるい」「行きたくない」担任や他の保護者に「抱っこ」「おんぶ」

自分の方を見てくれるまで大声で泣き喚く、勝手にどこかに行ってしまう・・・・など等!

保護者に相談すると、

「保育園に任せているのに、保育園のことをいちいち言わなくていい!」

「いうことを聞かなかったら叩けばいい」

「去年まで言われなかったのに!どうして!」等、保育士も日々悩んでいます。

私自身が先生のお話で元気をもらいました。どうか保育士も元気の基をいただければと思い、お願いしている次第です。

ただ、誠に失礼なことは重々なのですが、協議会としましても、講演料のこと、日程のことなどありますので、詳しく教えていただきたく

ご連絡を差し上げました。

大変恐縮ですが、どうかよろしくお願い致します。

                               

(返信)

ありがとうございます。

現場の方たちに元気になっていただければ本望です。感謝です。

講演料のことはご心配なさらずに。どんな条件でも喜んでまいります。

日程の方は、ぜひ、早目にお知らせください。

よろしくお願いいたします。

 実際に子どもを長時間預かり、育てている保育士たちと、親たちの心が信じ合わない言葉の応酬で離れてゆく。

 その狭間で戸惑い、役割を果たせず、さ迷う子どもたち。

 そういう仕組みになっているのです。

 長時間子どもたちと関わる保育者たちが生き甲斐を感じること。保育に幸福感を感じること。そのことの重要性が30年間政府の施策の中に入っていない。もし、保育がただの仕事になってしまったら、それはこの国を守ってきた最後の砦が崩れてゆくことかもしれない。「子どもたちが子どもたちであるというだけで親を育て、家族や社会の絆をはぐくむ」という役割を果たせるように、仕組みを変えてゆかなければならないのです。このまま進めば、学校も福祉もこの国も、ますます辛い状況になってゆき、人間たちが孤立を深め、傷つけあいます。

 子どもの幸せを願う保育者は、親たちとの信頼関係に生き甲斐を感じます。

 それを理解し、施策を進めないといけません。

 人間たちが育ちあう「輪」を取り戻せば、自然治癒力は戻ってきます。

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ぜひ、省子さんの詩を読んでみてください。

北の大地のN女史

 北の大地のN女史はクラブのオーナーママ。36歳。

 なぜ、最近北へ行くと素敵な女性に出会うのだろうか。以前、ブログに書いた「仏塔のともちゃん」も北の街のシングルマザーだった。

 N女史は、6歳の実子と高校生の養子を女手一つで育てている。
 三年前に引き取った養子の少年は、女史の友人が産んだ三人の子の一人。その友人はいまどこにいるかわからない。友人が、子どもたちの住所をN女史の住所にしていて(このあたりは詳しく聴いていないので定かではないのですが)、それがきっかけで、児童養護施設から一人を引き取ったそうだ。
 「もう中学生でしたから信頼関係をつくるのが大変でした。こっちに三歳の自分の子を寝かせて添い寝しました。難しかったです」いまでも時々綱渡り、と話をしてくれました。
 その上、女史はクラブで毎晩家に帰りたがらない男たちの愚痴を、時には明け方までお酒を飲みながら聴くのだそうです。男女共同参画社会。(男女共同参画社会は、男女が一緒にオロオロすること。不必要だと宣言することではありません。)すごいなあ。N女史、みかけと雰囲気が熊本の巫女、K園長先生にそっくりだ、と思いながらみとれていました。この人に見捨てられてしまった男のことを思ってしまいました。
 ホステスさんのなかに幼な顔の化粧もほとんどしていない、その日が業界初出勤という二十歳の大学生がいました。九州から流氷の流れ着く土地まで生物の勉強に来ているのでした。
 「冷たい海の岸には鷲がいるんです。九州にはカラスしかいません」と真面目に言うのです。カラオケの持ち歌が2曲で、そのうちの一曲「真夜中のギター」を歌いました。上手ではないのですが、一生懸命、小学一年生のように歌いました。お母さんがいつも歌っている曲だそうです。育ちの良さそうな素朴ないい娘さんでした。
 私は、講演のあとに、こういう女の人がいてお酒を飲むところに幾度か連れて行ってもらったことがあります。23年間に10回くらいで回数は少ないのですが、びっくりするようなすごい女性に出会うことがあります。
 そのひとたちの存在を感じながら生きていけばいいのだ、と思うようにしています。
 

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 N女史のことを思いながら、「子どもでいられることは、ありがたいこと。親でいられることは、救われること」という誰かの言葉をふと思い出しました。
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 2歳の娘をもつ友人が、私に言いました。
 「この前近所の公園に子どもを連れて行ったら、保育園の子どもたちが遊びに来てたの。二歳くらいの子たちだった。さあ帰ろう、となった時、一人の男の子が帰りたくない、って駄々をこねて嫌がった。保育士の中に男性保育士がいたの。怒鳴るのよ、置いてくぞっ!って。その剣幕に、駄々をこねていた子がびっくりしたのか、いやだっ、て男性保育士の足にしがみついたの。そしてらその男性保育士がその子を蹴っ飛ばしたの。しがみついたのを振り払った、って感じかもしれないけど、男の子は転がったわ。びっくりして私は凍りついた。女性保育士たちは見てるだけだった。もし私の子があんなことされたら、飛びついていったと思う」
 私は、しどろもどろに一生懸命説明した。
 まず、なぜ、他の保育士たちが止められなかったかを。つまり、いま、保育士は足りなくて、一人辞めたら次を探すのが大変なこと。保育士の待遇が悪過ぎること。親たちが感謝しない事。そもそも人間社会の「絆」が弱くなっているのが、すべての人間関係を荒くしているんだ。そして、福祉の危険性。福祉が仕事になってしまった時に、心ある、福祉に一番必要なひとたちが現場を去っていっていくこと。説明をしながら、空しかった。その男性保育士を蹴飛ばしに行きたいと思った。
 N女史のことを思うと、なお一層そう感じた。

大学生の早期退職、詩人、内閣府





 同じテーマに関心を持っているひとの輪から、選ばれた情報が送られて来ます。

 新聞に、「就職できず・早期退職」/大学生ら2人に1人/高校生は3人に2人(一昨年春・内閣府調査)という記事がありました。(毎日3/20)八王子の共励保育園の長田先生がFAXで送ってくれました。

 内閣府は、「ミスマッチ(求職者と雇用者の意識の食い違い)」対策などをいそぐため、近く有識者による組織を設置し、6月をめどに就職支援の拡充策をまとめる、と書いてあります。

 ミスマッチが問題ではないですよね、これは政府の就職支援で解決出来ることではなく、若者たちに働く意欲がなくなっているだけですよね、と電話で長田先生としばらく話します。幼児と人間たちの関係(幼児も人間ですが…)、人生の初期の体験が社会の土台を築いている、特に意欲という面でかなり影響を及ぼしている、そんなテーマで二人でしばらく意見交換します。

 少子高齢化問題もそうなのですが、こういう現象の背後に、現在2割、10年後3割の男たちが一生に一度も結婚しない、という一つの集団としての意思があると思うのです。ひとつの国の中で、ある条件のもと、集団としての無意識の意識が動く。たぶん人間の進化にかかわる力学がそこにあって、その原因をだいたいでいいから探り、想像して対応しないと意味がない。対応の仕方がすでに動いている力学に要素として組み込まれている場合があるので、視点や思考の次元を変えて渦巻きの外に一度出て考えないと、対処するほどはまって行ったりする。ひと世代前の常識ではかり、ちゃんと働けとか忍耐力が足りないと彼らを責めても、自らの意思で辞めて行く者を引き止めることはできません。いまの「社会」という観点からは間違っていようとも、彼らは彼らなりに幸福になろうとしている。

 

  「三歳までに親に関心を持たれなかった子どもは安心の土台がないから新しい体験をしたときに不安がってそれが壁になる。安心している子どもには、新しい体験がチャレンジになって、壁がその子を育てる」

 長年現場で保育に携わってきた長田先生が常日頃言っていることですが、もちろん全ての子どもに当てはまるわけではありません。人生には出会いがあり、祖父母との関係、保育士や教師との関係も人格を形づくる重要な要素です。しかし、人間が哺乳類である以上、まず親子関係、特に母子関係に特別な意味を持たせるのは正しいと思います。これまで人間たちがその進化の過程でほぼ選択肢がないこととしてやってきたことが急激にされなくなってきているとしたら、それは人間の遺伝子、仏教で言えば修羅のようなものと摩擦をおこし始めてもおかしくない。その第一に福祉や教育の普及で「子育ての時間と意識がかなりの割合で親から離れたこと」が挙げられると思うのです。

 幼児期の発達を観察し現場で試行錯誤し、同時に親子関係を見つめてきた保育園の理事長の発言です。これが正しければ、国会に消費増税法案と抱き合わせで提出される「子ども・子育て新システム」は、長期的な国家戦略上の最重要案件といってもいい。雇用労働施策の一部として、5年以内にもう45万人未満児(三歳未満の乳幼児)を様々な手段を使ってシステムが預かる(社会で子育て)という政府の方針が増々意欲に欠ける子どもを増やしてゆくことになる。子育ての第一義的責任は親にある、という常識が崩れてゆく。

 人間が社会を形成する時、子はかすがいではなく、実は子育てが根底にあるかすがいでしたから、社会で子育てという施策はますます絆を希薄にし、崩壊家庭を増やし、生活保護受給者を増やしてゆくのでしょう。

 生きる意欲が減少しているいま、家庭崩壊の流れは一度崩れ始めたら止まらない。


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 子ども・子育て新システムで幼保一体化プロジェクトチームの座長をつとめている学者さんが言うのです。「若い世代は子供を産みたいと願っているが、産めない理由がある」(NHK視点論点)。放送を聴いていると、社会(保育所)が育ててくれば産む、ということらしい。しかし、日本の少子化現象は、自らの手で育てられないのだったら産まない、という親子関係を文化の基礎にする美学ととらえることもできます。この方が自然でしょう。自分で育てられなくても産む、という感覚の方が、人間社会に本能的な責任感の欠如を生むような気がしてなりません。ひょっとすると、人間性の否定かもしれない。人類にとって危険な一線がそこにあると思えてなりません。

 

 最近の高校生男子の草食系化や、平均年齢34歳二百万人ともいわれるひきこもりの数を考えれば、「がんばりなさい、君たちには無限の可能性がある」「夢を持ちなさい」といった安易なモチベーショントークではどうにもならないところまで来ています。励ましのように聴こえるこうした常套句は、真面目に受け止めると自己責任につながる。経済競争が社会の基盤になり義務教育が普及してから広まった強者の論理から出ている言葉だと思います。生まれつき自力精進型の人か強運の持ち主を除けば、自己責任は自己嫌悪につながる可能性が高い。そして、この自己嫌悪に人間は弱い。他人の責任か神様の責任にするほうが健康的です。地球上に現存する神や仏を祀る場所の多さを考えれば、それは明らかです。祠や神殿、社や神像の数を精神科医の数が上回った時、人類はどういう時代を迎えるのか。

 連帯責任と神様の責任は、人間社会に「絆」を育てます。

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 自立の先に「孤立」があるのでは、と若者たちは気づいています。無意識のうちにそれを避ける。

 経済政策にいま必要なのは文化人類学的視点と幸福論でしょう。欲に頼って経済をのばす時代は終わっています。この国では。

 (草食系男子は実は育ちの良さそうないい子たちで、繁殖しないかもしれませんが、地球の平和に貢献しそうなひとたちだと私は感じます。母親たちの意識が動いているのかもしれない。人間が豊かさに弱いことの反動だと思えばいいのかもしれません。)

 

 こんなことも考えます。

 現在、若者の多くは消費者であって、生産者にはなれない。

 育つ過程で消費者であることに慣らされている。消費者であることを義務づけられていると言ってもいいかもしれません。数人の小学生がゲームに熱中する姿を見ていて特にそう思います。

 嫌な上司に当たって早期退職しても、内閣府がミスマッチ対策と言って有識者を集めてくれる。それを当然のことと思う。

 内閣府の姿勢はサービス産業的発想です。消費者と生産者の中間に位置するサービス産業が意識の主体になり始めている。学者と政治家というサービス産業の中核を成す人たちが施策を考えているのですから仕方ありません。若者たちはますます消費者の立場に置かれて行くのです。

 福祉もそうですが、社会全体のサービス産業的発想への偏りは、政治家が次の選挙に受かりたいという心理が動機で起こっているような気がします。これもまた民主主義の一つの欠陥と言えるのかもしれません。

 (歴史の浅い民主主義という仕組みの一番の欠陥は、親しか投票出来ないこと。「親心」という人間性が薄まると、発言できない者たち、特に幼児の希望、願いを想像しなくなるか、後回しにするようになる。)

 生産者はめぐり巡って自分のために働くのですが、そこには必ず「誰かのため」という意識が存在します。それが人間の本能に沿ったかたちで社会に経済力を与えてきました。経済力の基本は絆をつくろうとする力です。

 簡単に言えば、人間は自分のためには中々頑張れない。誰かのため、友人や恋人、特に家族のためになら頑張る、ということです。家族を持とうとしない男性がこれだけいる、ということが問題の根本にあるのです。

 日本の昔話の主人公には怠け者が多いし、古典落語の重要な登場人物が与太郎です。人間が意欲を持つためには、必ず弱者、先天的な非生産者の存在が必要です。弱者や非生産者の役割を理解して、意欲が生まれるのです。だからこそ乳幼児とつきあうことが宇宙から義務づけられていたのです。

 

 人間の心理は不思議で、例えば「男女共同参画社会」という言葉を市庁舎に掲げ、ニュースや報道で流したり、法律をつくったりすると、宇宙に向けて男女が共同していない、と宣言することになってしまい、実際そのような社会になってしまうことがよくあります。「言葉」は背後で人間を誘導し支配することがあるのです。

 特に法律になる言葉には気をつけないと、言葉でがんじがらめになってゆきます。法律は作ればつくるほどいいのではない。17ヶ条くらいで治まっている社会が良い、ということを忘れてはいけません。特に法律家や立法者はそれを念頭に置いて活動しなければいけない。法律で、「助け合っていない」と宣言するより、遺伝子の進化の歴史に近い所にある慣習とか本能とか伝統、常識と呼ばれるものの存在理由をもう一度理解し、移動手段の発達とコミュニケーション網の発達で異常に膨らんだパワーゲームに巻き込まれないようにするといいのです。自然に近い体験から自分自身をまず体験する方が重要です。だからこそ、一番効き目がある方法として、一日保育士体験、保育者体験を薦めているのです。

 

 すごい感性で見抜く人がいます。私が子育ての詩を送ってもらい感銘した小野省子さん。http://www.h4.dion.ne.jp/~shoko_o/newpage8.htm

 この人の詩を読むと、詩人というのは、一番感性の磨かれた人たちではないか、と思います。他の芸術家に比べて生産活動から遠いところにいるからでしょうか。レオ・レオーニのねずみ「フレデリック」を思い出します。



  不特定多数のだれでもいいだれかへ   

                  by 小野省子



すべてがくるまって並べられて
売られている時代に
私たちは産まれたんだ
不特定多数のだれでもいいだれかのために
どこかのだれかが機械じみて作った何かを
私たちは整列して受け取って生きてきた

手の届かない品物はあきらめ
商品が無くなれば終わり

ああ 私たちはだんだん
熱い欲望を失ったと思わないか?
(私たちの体は クローンのような寸分たがわぬ商品に
育てられすぎたんだ)

自分のことを
くるまって並べられた
不特定多数のだれでもいいだれかだと思った瞬間
私たちはもう
不特定多数のだれかの中からだれかを
選ぶことができなくなるんじゃないのか?

私のためだけに作られた熱いスープをすすり
あなたのためだけに作った甘いデザートを差し出し

むかいあって わらいあって こぼしあって
おこりあって なぐさめあって ないたりして

そうして口に運びながら
そんな延長線上に
セックスはあったんじゃないのか?



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園長先生からのメール/システム疲労及び人類にとっての選択肢

もう春です。

卒園児が旅立ち・・・

新しいお友達が入ってきます・・・

私はこの季節が大好きです。

では、またお目にかかる日を楽しみににております。

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先日講演した保育園の園長先生から、親たちの感想文に加えて、メモが届きました。

こんな心持ちが、この国を支えているのだな、と私も暖かい気持ちになりました。

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 今年も、色んなところへ行って講演しています。

 人間は、生きて試みをしています。市政においてもそこに生きようとする人間が関わっていれば、試行錯誤があり、様々な試みや状況を目にします。呼ばれて行った市の保育の様子子育て環境を知るのは楽しみでもあります。毎年100を越える市に行くのです。たくさんの事情と考え、習慣と知恵に出会います。そして、一日保育士体験を薦めています。

 駅まで迎えに来てもらった役場の人に車の中で質問します。

 幼稚園と保育園の割合、公立と私立の割合を聞いて、それに窓から見える景色を関数として加え、次の質問を考えます。

 保育という仕組みとしてはこの国の将来の心のインフラを担う分野で、いまの制度内でこれほど多様な体制を組むことが出来るのかと思うと、驚きです。子育てを取り巻く環境は様々で、家庭保育室という名で100人規模の認可外が営利目的で動いている市があるかと思えば、保育園に待機児童がいないのに、幼稚園に待機児童がいる、という市もあります。そういう市では、三歳で入れなかった子は一年待って二年保育に入ります。五才児はほとんど全員が一年保育の幼稚園に行く、保育園の卒園式は四才児、という風習を祖父母の意識でしょうか、伝統として維持している県があります。

 新システムを踏まえこの先どうなるのかと、子どもたちを思い不安になりますが、同時に、子育てに対する首長の意識によってどういう方向にでも行ける気がするのです。良い意味で。

 7万人規模の市でした。4、5歳児は全員幼稚園、保育園は3歳まで、という方針を決めて施策をしているのです。こんなことも可能なんだ、と思いました。市全体で幼稚園型認定子ども園を目指している感じです。なるべく親が育てる、という日本的考え方が背後にありました。幼稚園プラス預かり保育で共働き家庭を支援しているのですが、考え方としては、幼稚園に学童保育がついているという方向性でしょう。松伏の若盛先生に報告したら喜びそうです。

 日本には、田舎で100年くらい前に学校教育が幼稚園とともに発達した地域があって、まれにそういう所では、住民たちが地域や家庭で乳幼児の子育てをするという意識を強く持っています。それが人間が集団として結束する土台だという、昔からの伝統や本能が自然に働くのでしょうか。そういう可能性を秘めている地域は、公立幼稚園が私立より多いかどうかで見分けることが出来きます。遡っていくと、江戸時代の藩主の考え方、藩校や寺子屋の充実、地域の進歩的大地主の意識といった、歴史の水脈のところへいきつくような気がしてとても面白いのです。(この辺の歴史を垣間みると、役に立たない「学問」の方が、役に立つ「福祉」よりもはるかに人類にとって安全で無害だということがわかります。ただし、「学問」が「福祉」をコントロールする、という段階に入ってゆくとこれは非常に危ない。)

 時間はその地域で縦につながっていて、人類にとっての大切な選択肢、オプションなのだろうと思います。(地球規模で見れば、日本という国が大切なオプションだと思います。)こういう多様な選択肢を持つことが、現在私たちがシステム疲労によって直面している諸問題の解決の糸口になるはずです。時間をさかのぼって考える、失ったものを検証する、ある集団が育ててきた意識を社会の安定という視点から分析する。それが時間を越えて糸口になるからです。

 ある地域の集団が持つ「あたりまえ」という次元の絆を研究することで、いま行き詰まってしまった経済論主体の絆の希薄化を方向転換しなければいけません。

 その市も,最近になって新興住宅街が出来たとはいえ、何かそういう人間らしい非論理的な雰囲気を持っていました。

 幼稚園がすべて公立で保育園もほとんど公立という状況があるから出来ることではありますが、ちょっとびっくりしました。

 人権課の男女共同参画推進委員の研究会で講演を頼まれたのです。

 男女共同参画の第一は子どもを作ること、第二は育てること、その感覚が失われると弱者たちがその天命を果たせなくなる、という講演をしました。盆栽や人形が、どうやって私たちを人間らしく育てるか、という話をしました。

 質問の時に女性委員の一人が、委員をしていて何かおかしい、おかしいと思っていたのですが、少しすっきりしました、と言ってくれました。

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木喰さんの生家を訪ねて

 山梨県の身延町に木喰さんの生家を訪ねてみた。

 木喰五行明満上人は、以前このブログにも少し書いた不思議な人物。
 入場料もない生家に入ってびっくりした。目の前に懐かしい顔が出迎えてくれたのだ。京都、八木町清源寺の木喰さんたちだった。大きな、等身大の写真だった。十六羅漢がそろって残されている清源寺は、私の師匠のもうずっと前に亡くなった宅間英夫さんが40年前に連れていってくれた寺で、酔っぱらって畦道で寝てしまうような、十六羅漢の生まれ変わりのような和尚さんがいた。その頃は粗末なお堂に木喰さんたちは並んでいた。宅間さんの家に居候になるたびに何度か行った。宅間さんの家に泊めてもらえない事情があったときには清源寺に泊めてもらった。しばらくして、宅間さんの助言もあって、十六羅漢を収める立派なお堂がが出来た。
 身延町の生家を訪ねたのは2度目。一度目は去年の正月で閉まっていた。と思っていたら、今回訪ねてわかったのだが、普通の家なので閉まっているも開いているもないそうだ。
 木喰さんの血を引いたおじさんが、色々教えてくれた。
 木喰戒の行をしていると宇宙と周波数があってくる、この波動のあわせ方は4000年前に理解された。この情報は私も初めてだったので、なるほど、と思った。清源寺の木喰さんの中にある片目をつむっている羅漢さんのメッセージなどもうかがい、思い当たる節もあって、びっくりした。
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「みな人の、こころをまるくまんまるに、どこもかしこもまるくまんまる」
「身を捨つる、身は無きものと思う身は、天一自在 うたがいもなし」  
                             木喰上人

ロータリークラブでの講演と園長先生たち

 茅野市の諏訪大社ロータリークラブで講演しました。会員の方たちは揃いのエンブレムのついたブレザーにネクタイをきちっと締めて前の列から順番に座っています。一般参加も可能だったので、その後ろに保育園の園長先生たちが座っています。園長研修会や親たちへの講演会で私の話を一度聴いたことのある方たちが、もう一度と集まっていました。茅野市周辺の市町村からわざわざ聴きにきて下さった園長先生たちもいました。二つの集団の違いがこれほどくっきりハッキリしている講演会はいままでなかったような気がします。ロータリークラブ集団は全員男性、園長集団は全員女性、ビジネスをして来たひとたち、保育をしてきたひとたち。しかし、年齢は近いのです。

 講演翌日、園長先生集団の代表的存在の方から電話をいただきました。ロータリークラブ男性集団が感性豊かに、時に大笑いしながら、、「保育、子育て、親心、祖父母心」の話や一日保育士体験の話を聴いているのを見て、園長先生たちがとても嬉しそうでした、ちょっと子どもにも見えるあの男性たちの反応を見たのがとても良かった、安心した、という報告でした。
 ひょっとすると、男女で一緒に子育てをし、大笑いしながら心を一つにするということが本当は簡単で、充分可能なんだ、という証明の瞬間だったのかもしれません。それが園長先生たちには嬉しかったのだと思います。こういう時代だからこそ、子どもたちのために、この国の将来のために、自分自身をより深く体験するために、経済競争の次元ではなく、もっと古い時代の感性で、男女が年齢を越えて、幼児を眺め心を一つにすることが望まれているのだと思いました。違った選択肢を選んで異なる道を歩いた人間たちが、お互いにホッとする風景がもっと生まれなければいけないのでしょう。
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安野先生の展覧会が板橋区立美術館で始まりました

安野光雅の絵本展
日時:2012年2月25日(土)- 3月25日(日)
 9:30-17:00(入館は16:30まで)
会場:板橋区立美術館

anno.jpg           『旅の絵本』(表紙) ©空想工房2012 津和野町立安野光雅美術館蔵

このブログを書き始めた時にシャクティのドキュメンタリーに心にしみる感想をいただいた安野先生の展覧会が始まりました。美術館の学芸員の松岡さんからオープニングのセレモニーに誘われていたのですが、講演が入っていて行けませんでした。安野先生は私の小学校の工作の先生でもあったので、当時の思い出などをお話ししたためか、図録の最後に私の名前が載っていました。ありがとうございます。記念になります。来週坂本区長さんとお話しさせていただいたあとうかがうことになっています。楽しみです。
東京都私立幼稚園連合会の「都私幼だより」の2月号に巻頭文を書きました。以下のリンク先に掲載してあります。
http://kazumatsui.com/genkou/012.html

保育者必見!共励保育園の保育展 2月19日、9時から3時です。

 ここに情報が載っています。http://www.kyorei.ed.jp/cn1/pg113.html

 長田安司園長(理事長?同志?)と共励の保育士たちが、保育とは何か、を人類に問いかける毎年のイベントです。保育は、ここまで行ける、それを知ることで勇気が湧きます。
 私も、長田先生からは様々なことを学び、これからも学び続けるつもりです。
 保育関係者、教育関係者、行政、政治家、みんなに見て欲しい保育展です。
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言葉、翻訳、古さ、と次元2

 150年くらい前に、日本で,欧米語の翻訳という過程で「社会」とか「自由」という言葉が現れ、使われるようになった時に、本来「ある」もの(語らずともよいもの)が人為的なもの「概念?」になり始めたような気がします。一見広い範囲を持つように思われる「概念」が現実と混同され、TPOまたは趣味と都合によって中身(意味、共通理解)にばらつきがでてくる。宇宙の意識が,人間の意識の枠のなかに治まると思ったのが、解体され、人間の意識を一体に保つ役割りが希薄になってくる。体験から生まれるはずだった「言葉」が一人立ちして、人の意識を支配するようになると、人間は宇宙の意思によって作られたことを忘れて、だから、いまこれほどシステムにこだわるのか。水増しされ膨張しすぎている学問(本来の意味ではない)が加わると、言葉を発しないひとたち物たちとの会話がないがしろになってゆく。

 以前、沈黙との対話が人間の絆を支えていたことが、記憶の中でぼやけてくる。
 フィギアと話し始める若者たちは、ひょっとして人間性を守ろうとしているのかもしれない。

 品川で、誕生日に、プレゼント要らないから、と言って一日保育士体験を親に頼む子どもの話を聴きました。子どもたちは自分の親を自慢したい。親たちに園での生活を自慢したい。その気持ちを大切にすれば,利害関係ではない絆が自然に生まれるはず。

 子どもたちは何か出来るようになるのが嬉しいのではない。出来るようになったのを親に見てもらうのが嬉しい。子どもたちは生きることが、育てることと一体になっている。それに気づいた時に、損得ではない関係の心地よさに親たちが引き込まれていゆく。

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言葉、翻訳、古さ、と次元

 保育という言葉で言い表せない「子育て」。しかし、それは表裏一体のもの。保育の歴史は100年にも満たないのですが、子育ての歴史は二億年?

 最近「社会で子育て」ということが言われます。「社会」という言葉、定義さえ日本という国にはつい150年前までなかった。子育てが醸し出す空気そのものが「社会」だったのかもしれません。よく使われ、そろそろ私たちはそれに縛られている観のある「自由」という言葉も、福沢諭吉が「フリー」「リバティー」という言葉を翻訳する時に悩み抜いて当てはめた仏教用語、すごい翻訳だと思います。欧米のようにはなってはいけない、という無意識の意識さえ感じます。欧米の「自由=フリー、リバティー」は権力闘争の中で使われた、主に特権を意味する言葉だそうです。古代ギリシャの自由人は、20人の奴隷を持って労働から解放されたひと。私はアメリカに30年住んでいて知っています。欧米人の言う自由とは、勝ち取るもの奪い取るもの、奪い返されることを心配するもの。

 「子育て」のある次元とは、古さも存在理由も違う。