常識として知るべき、親たちに知らせるべき、乳幼児保育施設の現況

認可外保育施設の現況

 

 雇用均等・児童家庭局 保育課による報道機関に対するプレスリリース、「平成25年度 認可外保育施設の現況取りまとめ」〜施設、入所児童数ともに増加、ベビーホテルは減少〜 http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000080127.html、を読みました。

 平成25年度、ベビーホテルの新設・新設把握158カ所、廃止・休止158カ所。その他の認可外保育施設は新設・新設把握474カ所、廃止・休止331カ所とあります。これを、「ルポ 保育崩壊」(岩波新書)で語られる保育の質の低下の実態と照らし合わせてほしいのです。以前、著作に書いたことがあるのですが、なぜこれほど新設と廃止が多いのか。この仕事は、単なる思い込みや儲け主義では成り立たない、幼児の成長や家族の人生に関わる仕事です。だからこそ計画通りにはいかないし、人材が集められなければやってはいけない。コンサルタント会社が儲け話として煽るような種類のビジネスではない。(http://kazu-matsui.jp/diary/2014/11/post-193.htmlhttp://kazu-matsui.jp/diary/2015/01/post-261.html

 「把握」ということばが使われているのは「把握」していない状況がかなりあるということではないか。コンビニならまだしも、保育施設がこれほど継続が不安定な状況でいいはずがない。なぜそうなるのか。5年ほど前から保育界を追い詰めている慢性的な保育士不足を考え合わせれば、そこに明らかな無理と不自然さが読み取れるのです。保育所はどんな形であれ、日々の乳幼児の成長、そして日本の未来に関わる重要な施設なのです。

 もっと驚くのは「立入調査の実施状況」です。

 ベビーホテルの未実施数が26%、その他の認可外も26%。繰り返し全国紙で事故や事件が報道されているのに、未だに「未実施」がこれだけあるなどあり得ない話です。不手際というより、政治家やマスコミの怠慢。幼児に対する人権侵害ともいえる、あまりにも雑な保育行政です。国の安全保障については毎日報道されるのに、乳児の安全保障に関しては以前からずっとこんな状況です。政府の「あと40万人3歳未満児を保育施設で預かれ、そうすれば女性が輝く、活躍できる」という施策に水を差したくないのでしょう。

 保護者たちに知ってほしいのは、この報告書に、立入調査を行った施設に関して、指導監督基準に適合していないもの、ベビーホテルが50%、それ以外の認可外保育施設が37%と書いてあること。それに対する指導状況は口頭指導文書指導がほとんどで、公表:0か所、業務停止命令:0か所、施設閉鎖命令:0か所です。こんな状況だから、ルポ 保育崩壊で報告されているようなことが起っているのです。

 保育園に対する行政の立入り調査は抜き打ちではありません。前もって準備や手立て、隠蔽が可能な立入り調査です。調査官の目の前で子どもを叩いたり怒鳴ったり、口に給食を押し込んだりする保育士はいない。つまり保育の実態は、事実上ほとんど把握できていないのです。それでも確信犯的に乳幼児の日々の安全、安心を脅かす違反がこれだけあって、公表も業務停止命令も施設閉鎖命令も行われない。こんな仕組みだから宇都宮のような事件が起り、それが賠償訴訟になる。http://kazu-matsui.jp/diary/2015/03/post-273.html

 (保育それ自体の質を行政が現場で確認できないなら、保育施設における正規、非正規、派遣の割合い、どのくらいの頻度で保育士が辞めてゆくか、その理由くらいは調査し、保護者に発表すべきです。いくら待遇のいい保育園でも、保育士の離職率がとても高い園があるのです。保育士が使い捨てになっている園があるのも原因なのですが、保育の内容、園内の風景に耐えられなくなっていい保育士が辞めてゆく、そんな園が増えています。)

 こんな現状でさらに保育のサービス産業化、一層の規制緩和を進め、総理大臣が、あと40万人保育施設で乳幼児を預かります、と国会で宣言すること自体がおかしい。国家の安全の根幹を見誤っている。

 子ども・子育て支援新制度を進める内閣府のパンフレット、その「すくすくジャパン」というタイトル、「なるほどBOOK」というタイトルの趣旨や思惑に翻弄され、保育園に預けておけば大丈夫、と思ってしまう親たちがたくさんいるのです。

「みんなが、子育てしやすい国へ」というキャッチフレーズが馬鹿馬鹿しく、虚しい。保育の質を整えず、ただ子どもを親から離し保育施設で預かる数を増やせば、それが「子育てしやすい国」だと政府が言う。この国は、そんな国であってはいけない。道徳教育とか愛国心などと軽々しく言わないでほしい。愛国心とは、すべての子どもたちに責任があると人々が感じる心。政府の子育て施策に愛国心が欠落しています。

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「花束を贈ろう」・宇多田ヒカルさん・不思議な次元のコミュニケーション

花束を贈ろう

NHKの番組で「人間・宇多田ヒカル、今、母を唄う」を見ました。終わってしまいましたが、朝ドラ「ととねえちゃん」の主題歌「花束を君に」を歌っている歌手で、母君は、私たちの年代には印象的な藤圭子さん。

亡くなった母の存在、そしてその意味を語る真摯な姿と、歩んだ道、作詞で磨かれた選ばれた言葉と語彙にも素晴らしく、感動しました。作詞と音楽という次元も重なり、母子関係というものをこれほど端的に、感性の世界から深く語った光景を見るのは初めのような気がしました。

インタビュアーが、お母さんの存在は巨大ですね、と聞いたのに答えて、巨大なのは母親だからです、と間髪入れず答えた表情に、何か、通り抜けてきた人を感じました。

そして、人格や人間性が形成される乳児期、そこから自分の人生や行動が生まれているはずの、謎のような闇のような時間、自分が覚えていない人生の最初の2、3年を、自分の子供を育てることで体験する、たぶん自分の行いとか悩みの源になっているはずのその闇さえもそこに感じて、腑に落ちた、と言ったのです。凄い人だなと思いました。

母になった娘だから体験できた、母親と一体になって、アーティストとしても伝えている伝言が歌の中に聞こえました。

女性でなければ体験できない、男性が体験すべきでない伝承があるのでしょう。よしもとばななさんの小説に、その辺のことが書かれているのを読んだ記憶があります。読んだだけですけど。こうした不思議な世界を知ろうとする時、宇多田さんの表現は、文字に加え音楽も重なるから、次元が広がって説得力があります。

全てを包み込む何かに納得した、という風に聞こえたんです。それを単純に「感謝」という言葉に表したのですが、そこへ到達するまでの自分が産んだ子ども、乳児との日々の積み重ねの中に「腑に落ちた」一体感があったんでしょうね。母親との。

だから、「どんな言葉並べても真実にはならないから、今日は贈ろう 、涙色の花束を、君に」という歌詞が生まれたんでしょうね。

6年間、歌手生活を休業していて、その間にお母さんが亡くなって、そのあと妊娠・出産していなければ活動をまだ再開できていなかったかもしれない、と言っていました。

言葉では無理だから、「花束を贈ろう」・・・。それが、いつか、すべてのことの答えになってほしい。当たり前なのですが、こういうやり方は、人間にしかできない。不思議な行為だということにあらためて気づくのです。言葉を話さない乳児との会話が、こういう次元のコミュニケーションに気付かせるのです。

命がつながってゆく景色を見た気がしました。感謝です。

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米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊

2016年10月

米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊

 

以前、保育誌にも書いたのですが、子育てが人々の生きがいの中心から外れ始めた時に起こってくる社会の仕組みの機能障害を、市場原理と義務教育がどのように連鎖させていゆくか、米国で起きた一つの例を挙げます。

 

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保育の市場原理化、そして規制緩和ともいえる「子ども・子育て支援新制度」が去年施行され、5年後にその影響が小学校へ上がっていく。親の意識の変化も含め、幼児期の体験は数十年に渡って連鎖していきます。

経済優先の施策の影響が、5年後に義務教育の入り口に到達する。そして、制度や仕組み、社会全体に広がった流行によって起こされる波に、学校教育がすでに対処しきれなくなっているのです。保育や学校、民主主義という仕組みでさえ、親が親らしい、幼児がその役割を社会の中で果たせる、という前提のもとに作られていることを忘れてはならない。親たちの子育てにおける責任意識と協力なしに学校教育を教師たちが維持するには限界がある。

「子育ては学校がやってくれて、学校で起きたことは自分たちの責任ではない」と考える親が一定数出てくると、学校は突然その機能を果たせなくなってくる。

新制度が施行され一年、各地で役場の人が言うのです。0歳児を保育園に預けることに躊躇しない親たちが突然増えている、と。

人間の遺伝子に組み込まれている長い進化の歴史における体験の積み重ねが、突然一部の政治家や学者の乱暴な施策によって壊され始める。経済競争の邪魔だと見なされた「社会の常識」が崩されてゆく。それが、義務教育で縦横に連鎖していく。欧米の状況と日本のいまの違いは、日本では「自分で育てられるのなら、自分で育てたい」という母親が、15年間まで9割居たこと。そして欧米では、30年前にすでに、未婚の母から生まれる子どもが3割以上いたこと。

日本で「自分で育てられるのなら、自分で育てたい」という母親が7割にまで減っている。豊かさが主な原因とは思いますが、いまの保育施策を考えると、政府主導で減らされている、経済施策に踊らされているとも言えるのです。人々の意識が弱者を守ることから離れ、それによって社会全体の安心感が薄れ、モラル・秩序が失われてゆく。

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胎内で覚せい剤に犯される子ども達−クラック児

 

(以下は、「胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊」も含め、20年前に私が書いた文章からの抜粋です。いまでは当たり前になった、妊娠中のアルコール摂取の危険性についての告知が、日本では、まだされていなかった頃でした。保育雑誌に連載し、著書「家庭崩壊・学級崩壊・学校崩壊」:エイデル研究所刊、にも掲載しました。)

 

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母親の胎内で「薬物・覚せい剤」に汚染され、生まれながらに中毒症状を持っていたり、脳障害、機能障害に蝕まれる子ども達の問題は、FAS(後述)と同じように、以前からアメリカで問題になってはいました。しかしその問題がハッキリと実感となって教育界を襲ったのが今から十年ほど前(現在からは30年ほど前)です。

5年前に急速に広がった「クラック」という覚せい剤(通常粉末のコカインを気体にして吸引するドラッグ。覚せい剤の市場を一気に広げる役割を果たした。)、極めて短時間に効果を現し、廉価いうこともあって、あっと言う間にアメリカ全土に広がりました。このクラックに母親の胎内で汚染された子ども達が1990年に5歳になり学齢に達したのです。

1985年ににクラックが最初に広がったニューヨーク、ロサンゼルス、マイアミといった大都市では、その年、こうしたクラックによる機能障害をもった子ども達の第一波が一斉に学校に入学しました。

ある程度予期されていたことではありました。しかし当時、財政赤字削減に伴う賃金カットや、教師の人員削減、音楽や美術の授業の廃止に直面していた公立学校にとって、この新たな重荷は打撃でした。言語障害や行動に異常のある子ども達を何人か一度に教室に抱えた教師たちの多くが、こうした子ども達を扱う特別な訓練を受けていませんでした。しかもクラックの過去6年間における広がりぶりから、クラックの影響による障害児たちは1995年まで増加の一途をたどることが予測されました。こうした子ども達のほとんどが、通常のクラスに入学することになるのです。ニューヨーク市だけをとってみても、このクラック児と呼ばれる子ども達は、9年後には72、000人に達する見込で、この子ども達に対する応対に教師たちはエネルギーを使いはたし、一般の子ども達に対する配慮がますます行き届かなくなることが容易に予測出来ました。

こうした覚せい剤に胎内で犯された子ども達の存在は以前から指摘されていたことですが、それがこの年ほど大きな波として、一気に増えた例は過去になく、あきらかに6年前のクラックの発明普及と直接結びつけて考えることができました。

障害の特徴としては、運動機能障害、行動に一貫性がなく、物忘れが激しいアルツハイマー症に似た症状があったり、感情の抑制が効かず集中力がないなど、FASの特徴に酷似していました。

特別学級に入った子どもの数。(クラックが広がる以前、以後)

ロサンゼルス

1986−87:4370

1990−91:9405

ニューヨーク(一年差で)

1989−90:3645

1990−91:4604

マイアミ

1986:1384

1990:2707

 

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胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊

「生まれる前から虐待される子ども達」

学級崩壊について書こうとすると、避けては通れないのがFASの問題です。(以下、当時のアメリカで全国的に放送された特別ニュース番組と新聞報道からの情報からまとめたものです。)

FAS−Fetal Alcohol Syndrome−(胎児性アルコール症−−妊娠中の女性による飲酒が胎児におよぼす様々な影響を総括してこう呼ぶ)が、アメリカで大きな社会問題となっています。

妊娠中のアルコール摂取は、発達障害児の産まれる原因として、最も可能性の大きいものと言われています。様々なお酒の一般家庭への普及に伴い、FASの子どもがいま世界中で増えつづけています。特に若い女性のアルコール消費料が飛躍的に伸びている先進国社会では、FASを囲む状況は深刻なものとなってきています。日本でも密かに増えているのではないでしょうか。

妊娠中に女性がアルコールを飲むと、産まれてくる子どもの知能や運動能力に悪い影響があることを最初に文章にしたのはアリストテレスだと言われています。それほど昔から人類はFASの存在に気づいていました。しかし、アルコールはほとんどの国々で、日常生活、文化と密接に結び付いており、また一定の確率で精神的肉体的障害を持った子どもが産まれることを、人間社会は受け入れてきました。加えて、胎児の脳および肉体の正常な発達が母親の体内において損なわれるFASは、症状の出方に差があるため、現代医学でもなかなか病名が特定されることがありません。妊娠中のアルコール摂取量に関してもどこまでが安全かは、明らかになっていません。

FASが社会問題として初めて真剣に扱われたのは、ジンが急激に普及した十八世紀の英国でした。しかし、胎児が胎盤を通してアルコールにさらされることが、脳障害や肉体的障害の非常に有力な要因となることが、医学的科学的に論議されはじめたのは1970年代になってからのことです。

現在、アメリカで酒類を置いているレストランやバーに行くと、入り口を入ったところに、「妊娠中にお酒を飲むと、障害児が産まれる原因となります。」という政府による強い警告が必ず貼ってあります。 母親が、妊娠中にお酒を飲まなければFASは防げるからです。

アメリカでいま、自分の子どもがおかしい、普通ではないと思う、でも何がおかしいのかわからない、という親達が増えています。

知能の遅れ、自制心に欠陥がある、集中力がない、落ち着きがない、突然暴れだす、奇声をあげる、友達が作れない、作ろうとしない、抽象概念がわからない、危険性を認識できない、読み書きが優れているのに時間の概念がわからない、原因と結果、物事の因果関係が理解できない、想像する能力がない、熟睡できない、食欲がない、運動能力が発達しない。専門家による報告、医学書に書かれているFASの症状だけでもこれだけあります。

妊娠中のどの時期に、つまり胎児のどの部分が発達しようとしている日に(または瞬間に)、母親がアルコールを飲むかによって、FASの症状はまったく異なってくると言われています。妊娠45日目に母親がアルコールを飲めば、45日目に発達しようとしている能力、器官に影響が現れるのではないかと言われています。妊娠初期は顔を形作る時期といわれていますが、脳は妊娠期間中、常に発達を続けます。そして母親がアルコールを飲めば、それがまんべんなく子どもの脳まで回るというのは疑いのない事実なのです。

(FASを肉体的特徴で見分ける手段として専門家が使っている方法に、目と目の間隔と眼孔の長さのバランスを計る方法があります。また上唇が薄く、鼻の下が平たく広いというのもFASの特徴と言われていますが、これらの身体的特徴は、その調査がアメリカで行われているものですので、アジア系の人種にそのままあてはまるものではない可能性もあります。)

現在アメリカで特に問題となっているものは、症状として際立った肉体的欠陥が見られず、子どもの行動に異常が出る種類のものです。この種のFASは、その原因を後天的なもの、つまり成長期の環境、特に親のしつけの問題と勘違いされやすいというやっかいな問題を抱えています。(これは裏返せば、FASが社会的に知られれば知られるほど、後天的、環境的原因を持つ子どもの問題行動が、FASつまり先天的なもの、治癒できないものとして片付けられ、親達のより一層の子育て放棄を生むという危険性をも意味しています。)

妊娠中にアルコールを大量に飲む母親は、出産後も良い母親ではない場合が多いため、FASの子どもの多くが、その行動を、劣悪な家庭環境の結果とみなされてしまいがちです。その症状の多様性、そして後天的なもの、しつけの問題と見なされやすい周囲の環境によってFASは長年ベールに包まれたままでした。それが最近になってにわかにクローズアップされてきた原因の一つに、アメリカにおける養子縁組みの普及が上げられます。

 

「養子をもらった親達の悲劇」

子どもが出来ない、出産を体験したくない、結婚したくないけれど子どもはほしい、養子縁組みを希望する親達の理由は様々ですが、その多くが経済的に裕福で、子どもを育てることに熱意をもった、良い親になろうという意欲のある人達です。しかし皮肉にも、もらわれる子ども達の多くが、子どもを捨ててしまったり、産んだあと引き取らなかったり、母親が親権を放棄した結果施設などに預けられた子ども達、子育ての意欲のない母親によって産み落された子ども達です。子育てに意欲を持たない母親の子どもが、意欲を持っている別の大人に渡され育てられる。この一見合理的にみえる制度が、いまアメリカ各地で様々な悲劇を起こしています。

子どもを養子にもらって、さあがんばって立派な子どもに育てようと、幸福感に浸っている。ところがしばらくすると、その子どもが間違った行動をしてしまったり、言うことを聞かなくなる。一体自分の育て方の何がいけなかったのだろうと親達は戸惑います。そんな状況がアメリカのあちこちで起こっています。

悲劇の原因は、子どもが実の母親の体内で過ごす10ヵ月にあります。子育てに意欲を持たない母親の体内で、すでに子育ては始まっていたのです。

現代社会はまさにアルコール漬けの社会です。アメリカにおけるアルコールが原因の死は、毎年10万件といわれ、覚せい剤による死亡数よりはるかに多い数字です。薬物以上にアルコールは社会にとって危険なのです。1800万人がアルコールで問題を抱えていて、5人に2人が一生のうちにアルコールが原因の事故に遭遇すると言われています。

そういう社会状況の中、産んだ子どもを自ら放棄してしまう母親がアルコール依存症である確率が非常に高い。アルコール中毒という問題を抱えている母親は、自分の世話が出来ない大人達と言ってもよいでしょう。

FASではないかと診断された養子の産みの親を追跡調査していくと、しばしばその母親が、妊娠中重度のアルコール中毒患者であったことが判明します。中には病院で子どもが産まれたときに、母親が酔っ払っていたというケースさえあります。

500人に1人と言われているFASの子どもが、養子縁組みをした子どもに集中したことで、妊婦によるアルコール摂取の危険性が改めて社会に大きく報道されたのです。

 

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アメリカインディアンとFAS

 

もう一つ注目すべきことは、アメリカインディアン(ネイティブアメリカン)の中にFASが多いという事実です。

アメリカインディアンはアルコール中毒患者が非常に多いという歴史的特徴を持っています。大自然と一体になった精神文化を長い間維持してきた人達が、現代社会に適応出来なかった結果といえるかもしれません。アメリカの奴隷史を見ても、インディアン達だけは奴隷に出来ませんでした。特有の自由な精神が奴隷という立場に適応できず、無気力になり自ら死を選ぶようなことがよくあったそうです。居留地をあてがわれ、有り余る時間と少しの金を政府から毎月与えられ、子育てと伝統的生活様式、価値観を否定された部族が、アメリカ社会に背を向け、アルコール依存症になってしまうのかもしれません。インディアンが集中して住んでいるニューメキシコ州のギャロップ市におけるアメリカインディアンたちのアルコール中毒率は、全米平均の6倍になります。 そうしたインディアンたちの子ども、インディアンから貰われた養子の間にFASが集中しているのです。

アメリカにおける最近のLearning Disabilities(日本でLD児と呼ばれていますが、直訳では、「学ぶ能力に欠けている子ども達」)の急増が、FASと判断されつつある背景には、こうした母親の妊娠時の行動調査があります。そして、FASの子どもを知らずに授かった親達は、やがて育児に疲れ、子育てを放棄し、多くのFAS児がホームレス(路上生活者)になったり、売春や犯罪に関わったり、犯罪の犠牲になっている。

FAS児には、盗むという概念がわからない子どもがいます。学校で人のものを取ったり、嘘をついたり、十代になると社会との摩擦が頻繁に起こり始めます。親は子どもを叱ります。ここでの悲劇は、そうした行動の原因が、子どもを叱ったからどうなるというものではないところにあります。

FAS児には、誰を信用していいかわからないといった症状の子どもがいます。そうした子ども達は、性的いたずらの対象にされる場合が少なくありません。

FASの研究者は、非常に不自然な犯罪を犯した受刑者、突然人を撃ってしまい現場からまったく逃げようとしなかった殺人犯などを、刑務所で調査した結果、FASと認定できる犯罪者がかなり含まれているとの結論を出しています。FASは脳障害であり、犯罪者に善悪の判断を下す能力が備わっていない場合や、突発的に判断能力を失ってしまう状況が起こりうるのです。

東京消防庁の調査(20年前、執筆当時)では、飲み過ぎによる急性アルコール中毒で病院に運ばれる女性が急増しているそうです。その半数が二十代の女性です。計画的な出産が減ってきている現在、妊娠を知らずにお酒を飲んでしまう女性もいるでしょう。FASの危険性がもっと社会に認知されてよい時代に入っていると思います。せめてアメリカのように、お酒類を置いている全ての店やレストランに警告が出るくらいは早急になされなければならないでしょう。広く警告が発せられているアメリカにおいてさえ、この問題は増加の一途をたどっているのです。

家庭におけるしつけの問題が叫ばれ、落ちこぼれを拾いあげる態勢の弱さを学校教育が問われている現在、FASの問題に社会全体が取り組まなくては、すべてが後手に回る。今のところFASに治療法はありません。不治であることを親に宣告することが、果たして子どものために良いのか、という難問が必ずクローズアップされてくるでしょう。

自分のしつけの問題として終わりのない苦闘を続ける親達には、原因が親達の人間性に起因するものではないと知ることは、ある意味で救いになります。しかしそれは同時に、妊娠中の自分の行動が、我子に取り返しのつかない傷を与えてしまった、という現実を知らされることでもあります。こうした状況を招くことを予想しながらも、この問題には正面から取り組まなければなりません。なぜならFASは予防できるからです。

妊娠中にお酒を飲まなければいいだけなのです。

 

(日本の酒造業者はコンサートホールなどを建てて、文化に貢献していると言いますが、それよりも妊娠中のアルコール摂取の危険性についてのキャンペーンを自ら率先して行ってもらいたいものです。日本政府が、訴訟国家アメリカで、ここまで徹底されているレストランやバーにおける危険性の告知をしないのは、業界からの圧力によるものでしょうか。マスコミがこの問題を取り上げようとしないのは、大口スポンサーである酒造業界への配慮でしょうか。しかしFASはすでにその存在が充分証明されているのです。アメリカでは学級崩壊の引き金となっているのです。お酒は文化の一部です。人間関係におけるその役割は重要です。しかし、最近の日本における女性による飲酒の増加は、将来の教育システムの存続を考えると、かなり危険なところまできていると思います。LD児と呼ばれる子ども達の増加が、幼稚園保育園でハッキリ現れ始めてからでは手遅れです。)

(FAS、クラック児、PCBの胎児への影響、ウイリアムス症。染色体やDNAと機能障害の関係はまだ未知の分野です。しかし、防げる方法があるのなら早めにやっておく、という姿勢が大切です。学校は既に様々な問題を抱え崩壊の危機に直面しているのですから。)

ーーーーーーーーーーーーーここから現在に戻ります。

 

アメリカにおけるクラック児の報道でもわかるように、家庭の本来の機能が弱まるほど、義務教育における学級崩壊が子どもの(親子の)人生に及ぼす影響は大きくなります。アメリカの小学生の十人に一人が学校のカウンセラーに薦められて薬物(向精神薬)を飲んでいる。カウンセラーと薬物がないと画一教育・学校教育がすでに成り立たない。そして、このカウンセラー(専門家)が薦める薬物が、将来麻薬中毒、アルコール中毒につながっているという研究もすでに終わっています。それでもなぜアメリカの義務教育が「薬物」から逃れられないか。「家庭」という義務教育を支える基盤が崩れてしまったからです。

学級崩壊は、人類にとって、学校が普及しなければ存在しない新たな問題です。将来への影響、連鎖という視点で考えれば、未知の問題と言ってもいい。学校教育と市場原理が、クラックというちょっとした発明を、とんでもない影響にまで広げる、それが現代社会の特徴です。

FASの問題についても同じことが言えます。人類は、もともとこれほど頻繁にお酒を飲みませんでした。妊婦がお酒を口にする機会にいたっては非常に稀だった。(自然界に存在するものはあったとしても、覚せい剤もまだ発明されていなかった。)そして、ここが問題なのですが、飲酒を薦める「市場原理」がまだ働いていなかった。そういう時代には予測できなかった新たな子育てに関わる問題に、待った無しで、対処しなければならない時代に私たちは生きています。

いまでは日本でも当たり前になり、酒類のパッケージなどには必ず書いてある「妊娠中のアルコール摂取に関する警告」が、アメリカで義務として法制化されてから35年になります。この法律が義務教育を守るためには不可欠という認識が社会全体に生まれ、マスコミも繰り返しそれを取り上げた。日本では、その警告が現れるのが二十年以上遅れました。しかも、いまだに業者の自主的な警告でしかない。いつかは絶対にしなければいけない政府による警告が、国の仕組みの中でこれだけ遅れている。どうしてそうなるのか、国民は考え、マスコミや学者はしっかりその仕組みを調べるべきなのです。

そうした国の姿勢や政府の仕組みが、この国の現在の状況、あり方に、見えないところで大きな影響を及ぼしている。保育の問題もそうですが、その影響の大きさと進む速さを考えると、政府の施策の進め方、思惑、市場原理、の罪深さを感じます。これからも、教育、保育、福祉、司法、あらゆる分野で雪だるま式に起こる「現在の施策の結果」に繰り返し対処し続けていかなければならないことを考えると、憤りさえ覚えるのです。

なぜ、20年前、学者でもない私がアメリカに住んでいて、簡単に知ることができたFASに関する情報が警告として共有されなかったのか。当然日本にも伝わっていたはずの情報の共有が、なぜこれほどまでに遅らされたのか。日本がまだ訴訟社会ではないというだけでは済まない、意図的なものを感じ、不安になるのです。

アメリカインディアンが「生きる力を削がれること」で陥った罠に、私たちも少しずつ捕まり始めたのではないのか。

いまの、子ども・子育て支援新制度、11時間保育を「標準」と名付けた施策が、撤回されなければならない日は必ず来るでしょう。それほど不自然な「標準」ですし、1年目でこれほど矛盾や問題が噴出している。「保育は成長産業」などという偏った閣議決定に煽られ、利潤を目的とした保育が日常になり、事故が増え、園や自治体が繰り返し訴訟の対象になる可能性は充分にある。そうなってほしくはないですが、日本が、アメリカ程度の訴訟社会になれば、新制度自体が訴訟の対象になり国が負け続ける可能性は十分にある。この歪んだ施策の転換か撤回が、政治家の優柔不断さでさらに遅れ、十年後になれば、この国の魂のインフラはより深く傷つき、学校教育が修復不可能な状況に追い込まれてゆく。それが見えるのです。

政治家は真面目にこの国の形について考えてほしい。

安易に「愛国心」などと言う前に、もっとさかのぼって家族の形、幼児の日常のことを考えてほしい。この国の未来と人々の生活に、自分たちの閣議決定が大きな影響を及ぼすことに、慄然としてほしい。

 

まだ、わかってくれる。中学生くらいから説明するといい。

「十数年前に私立保育園の定款にサービスという言葉が入れられた時、違和感を感じた園長は多くいました。それでも少子化対策(エンゼルプランなど)の掛け声のもと、保育は政府の雇用労働施策に取り込まれてしまった。社会で子育て(実態は保育園で子育て)がいいと言う学者の意見にマスコミも同調してしまった。」という私のツイートに、

「まあとりあえず来年度の保育士採用状況次第ですな。関東圏では東京都の保育士優遇策によって、保育士が東京に一極集中し、悲惨な状況になることが予想される。また地方も東京などの大都市圏の業者によるリクルートで過度の保育士不足になるおそれが。物理的保育崩壊が進むと思われる。修正があるやも。」とツイートが返ってきました。

都会のお金のある自治体の、地方はどうなってもいい、というような待遇改善施策(月八万円の居住費補助など)と青田買いによって、地方の保育士不足はより一層深刻さを増しています。加えて、恒久財源を確保しにくい財政危機を抱え、地方の、特にいままで公立保育園主体にやってきた小さな市の課長さんたちは腹立たしさの中で必死に頑張っている。公立も職員の半数以上が非正規という地域がほとんどです。正規で雇えば倍率は出ますが、財政削減=非正規雇用化という流れになっています。

「地方では、すでに保育士不足と、0歳児を預けたいという親の急増で混乱しています。都会からの無節操な青田買いもありますが、いま枠を広げても財源が続くか見えない。市町村にも財源負担はある。切羽詰まって、役人が0歳保育を求める保護者一人一人に面接して、説得すると半数はわかってくれる。」と私。すると別の人が、

「半数はわかってくれる。まだ希望はあるのかな。」

『びっくりしますよ。希望がある、というより、0歳児を預けたい親たちの意識が「ニーズ」より「預けたい」であることが多い。三年前の国のニーズ調査でもそれは顕われていたのですが、誰かが親身に乳児と親の関係について説明し、市の財政や保育士不足を真剣に訴えれば、納得する親は相当いるのです』と私。

『大事なことを「知らない」親、「預けて働くのがスタンダード、乗り遅れたら負け組」と思い込んでいる親が、たくさんいるような気がするんですよね。親になる前に、そういう勉強の機会があるといいなと思います。』とその方から返信。

『この種の、「大事なこと」を説明するには中学生くらいが良いと思うのです。感性がまだあって、不思議な次元を理解するのです。ブログに、

「中学生の保育士体験:http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=260 

「中学生は理解してくれる:http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=726 」を書きました。」と書きました。

このくらいの年齢で幼児との自然な体験を繰り返し味あわせてあげると、人間の遺伝子は、ちゃんとオンになってくる。そうした大自然の流れに沿った親心の耕し、人間性の耕しをしていけば、自然治癒力は必ず働く。

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国会で、海保の職員、警察官、自衛隊員に敬意を表しましょうと首相が議員に起立・拍手を呼びかけ、小泉進次郎氏も「不自然」と言っていました。たぶん、保育士、教師、育てている親たちに敬意を表しましょう、と言って拍手していればそんなに不自然ではなかったと思います。国の守り方にはいろんな次元があって、政治家はその優先順位を知っていてほしい。

保育の「受け皿」という言葉・社会進出を阻む壁

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「保育の受け皿」という言葉を耳にするのです。

こんな新聞記事がありました。

安倍晋三首相は6日、東京都内で講演し、保育所などに入れない待機児童の解消に向け、「50万人分の保育の受け皿を整備したい」と述べた。政府はこれまで、2017年度末までに40万人分の受け皿確保を目標としていたが、上積みをめざす。』

『首相は、政権が掲げる「1億総活躍社会」の目標「希望出生率1・8」について、「20年代半ばまでには実現せねばならない」と強調。その具体策として、保育の受け皿確保のほか、新婚夫婦や子育て世帯が公的賃貸住宅に優先的に入居できるようにしたり、家賃負担を軽くしたりする考えを示した。』

本来なら「子育ての受け皿」というべきかもしれません。でも、そう言ってしまうと、そこに危うい闇が見えてしまうから、みんな言わない。

その人の人生のあり方を決定づける「親子の関係」は、双方向へ重なる日々の体験の中で育ち、築かれてゆくものです。子育てを、親子という特別な関係が形造られる営みと考えた時に、「受け皿」という言葉自体がすでにおかしい。非人間的、非現実的なのです。それに、もう誰も気付かなくなってしまった。マスコミや教育を通しての情報の共有が、不自然を、すっかり当たり前に見せている・・・。

本当は、子育てに受け皿などありえない。一歳の時の一年は、その親子にとって一生に一度の、2度と体験できない特別な一年で、それはゆっくり流れるように見えて、あっという間に過ぎてしまう。人間社会の絆の土台となるその体験を犠牲に、国が経済のために、「希望出生率」を目標に、一日11時間親子を切り離すのであれば、できるかぎりその時間を価値あるものにしなければいけない。「受け皿」を用意する人たちには、その質に関して相当の責任がある。

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「新婚夫婦の家賃負担を軽くし」結婚しやすい環境をつくるという。子どもを産んでほしいから。

そして、こんな記事もありました。

 配偶者控除見直し検討・自民税調会長が表明:「伝統的な家族観や社会構造の変化にあわせ、女性の社会進出を阻む壁をなくしつつ、結婚を税制面で後押しする狙い」

社会進出を阻む壁は「子ども」とハッキリ言わずに、結婚して子ども(壁)を産めと言う。これがたくらみでないのなら、支離滅裂です。その根っこにある矛盾をごまかすために、「受け皿」という言葉が使われている。

ある保育園の園長先生が首を傾げていました。受け皿で育った子どもが、受け皿で育てることに躊躇しなくなったら、もちろんその逆の場合もありますが、全体的にそれが当たり前になっていったら、保育界は本当に受けきれるのか、誰が子どもの成長に責任を持つのか、社会としてそれでいいのか心配です、と。

政治家は、もう市場原理から子供たちを守ってはくれません

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「今、新たに開園しようという事業者を、私は信用しない」という端的なツイートがきました。(@kazu_matsuiに。)

ほぼ同感です。(自治体が募集し、サービス業的な保育業者が参入し開園するくらいなら、あの法人、あの理事長に手を上げてほしいな、と思うことがあります。しかし、最近の保育園増設は「いい法人」が手を上げても選ばれないことが多々ある。市区町村に任せているだけに、どういう基準なのか、とても不透明です。)

親の意識の急激な変化が原因なのか、1歳児で噛みつく、3、4、5歳でもいわゆるグレーゾーンの子が急に増えています。いい保育をしようとしても加配が追いつかない。おいつかない加配を、0、1歳に回さないと市民の要求においつかない。地方に講演に行っても、状況はほぼ同じです。それは、保育関係者ならみなが知っていることです。

それでも、政府が経済活性化の対策費として出す予算で、とりあえず儲けようという人たちが、「待機児童をなくせ」「一億総活躍」「保育は成長産業」という掛け声に便乗しなり振り構わず参入してきます。

ほんの一例ですが、以下のような「保育園が誰にでもできるマニュアル」がネットで宣伝され、起業家予備軍を誘っているのです。

ーーーーーー以下ネット上の文章ですーーーーーーーー

『独立起業を誰にでも』

 

〜独立起業を支えるマニュアルです。保育園開業は今ビッグチャンスを迎えています。少ない資本で安定した利益をもたらす保育園開業マニュアルです。コンサルティング会社の100分の1以下の費用でノウハウが全て手に入ります。〜

「保育園開業・集客完全マニュアル」

*独立・起業を考えているが、何から、どう始めたらよいかわからない。

*自己資金がなくてもできる起業を探したい。

*自分ひとりで始めるのは不安がいっぱいだ。

*安定した収入が入るビジネスにはどんなものがあるのかわからない。

*フランチャイズは失敗してもFC料金を払わなくてはならないのが不安だ。

起業をしたいと思ったときがチャンスです。ネットビジネスも儲かるのでしょうが、やはり安定した収入は確保したいものです。しかし、単に「起業」と言っても、何をどう始めたらよいのか、どんな手順を踏んで、どんな書類を用意しなければならないのか、わからない方がほとんどです。

そこで、「保育園開業・集客完全マニュアル」をあたなにお届けいたします!

ーーーーーーーーーーー(ここから私の文章です)

政府による保育士資格取得の規制緩和もひどい話ですが、数万円の「集客マニュアル」を買えば保育園が「開業」できると宣伝されるような制度にしてしまった規制緩和はもっと乱暴です。

しかも「自己資金がなくてもできる起業を探している人、何から、どう始めたらよいかわからない人、自分ひとりで始めるのは不安がいっぱいの人」には、保育園経営がお薦め、安定した収入になる、というのです。

「フランチャイズは失敗してもFC料金を払わなくてはならないのが不安」という指摘は、よく考えれば、それだけで政府や行政が問題にしなければいけない発言です。保育園経営に失敗して痛い思いをした人、自己資金を無くした人が、すでにたくさん居るということ。こういうことが起きないように、ルールを作ったり規制をかけたりしなければいけない。幼児という絶対的弱者を守るために。

本来子どもを守らなければいけない政府が進めている急速な規制緩和と市場原理、それらが創り出したコンサルビジネスやマニュアル販売ビジネスの先に、園児たち、幼児たち、保育士たちが必ずいる。経営に失敗した保育園にも通っていた子どもたち、保育士たちがいた。

政治家は、もう市場原理から子供たちを守ってはくれない。親たちが意識をしっかり持って、いま子どもと自分の人生に何が大切か、何が危ないのか、感性を働かせ考えてほしいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そして、現場からこんなツイートが来ました。

『トイレから出てこなくなってしまった実習生を引き取りに来た母親の「保育士だったらなんとかなると思ってたのに」という一言は忘れられないけれど、一緒に来た担当講師の「なんとか二週間頑張れば資格とれたんですけどね」という言い草には腹立ちより呆れ。その講師はその養成校の卒業生と聞いて納得。』

養成校がすでに市場原理に取り込まれている。「資格」を与えることがビジネスになり、それが「養成」の中心になっている。「保育」を教えるはずの担当講師の意識の中に、「幼児の日々」が存在しなくなっている。

教える人たちの意識が麻痺しているから、育てる人たちの意識も麻痺してくる。教育界がその魂を市場原理に売ってしまえば、それは、政治家やマスコミの思考にも確実に影響していると思います。

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先日、2歳の子どもに何か一生懸命説明している母親を見ました。「2歳の子どもに説明する」、こんな素晴らしい瞬間があるんだ、と思いました。

真剣で、なにかとても広い、宇宙のようなものを説明している感じがしたのです。こういう時間をもう一度持てるのだろうかと考え、遠くを眺めました。

幼児といると、自分が「風景」の中にいることが感じられて、自分の「立場」がよくわかります。その絶対的「立場」に安心して、暮らせばいいのだと思います。(インドでの風景) http://kazumatsui.com/sakthi.html

待機児童対策で「質」置き去り

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『待機児童対策で「質」置き去り: 小規模保育3歳以上も 都知事が規制緩和要望』

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201609/CK2016091002000114.html

新聞もやっと指摘し始めましたが、政治家たちによる、幼児たちの生活や願いを考えようとしない規制緩和施策が次々と続きます。

役場の人が、私に言うのです。

最近、自分の子どもを行かせる保育園を、前もって見学にも行かない親が増えている。0、1歳児を預けることに躊躇しない親が増えている。そして、園に要望や不満があると、園に直接言わずに、すぐ役場に言いに来る親が増えている。

これが、待機児童がたくさんいて、どこでもいいから保育園に入れたいという地域の話だけではない。地方の、待機児童もいない市でも、同じことが起こっている。数的に言えば一部なのでしょうが、政治家たちの経済主体の仕組みが親たちの意識を変え、こうした親たちの意識の変化が、政治家たちの施策を後押ししているような気がします。

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以下は、現場で矢面に立っている役場の人からのメールですが、状況は切実です。新制度元年、去年いただいたメールですが、今年は一層、全国で問題が広がっているので、再掲します。こんなことをしているから、児童虐待や家庭崩壊が増えるのです。早く方向転換をしないと、児相も養護施設も、保育も学校も対応できなくなります。すでに、1年目でそうなっている。

 

役場の人からのメール

今週の水曜日から、来年度の入園受付が始まりました。連日、長蛇の列です。昨年よりまた一段とお母さん達が殺気だってるような気がします。なぜか?皆さん、必死なのです。待機児童になったら、どうするの?!会社を辞めろというの?!と、こんな調子です。

また、年々乳児の申込みが急増しています。待機児童になる確率を下げるため、少しでも早く入園申込みをする傾向が加速しているのです。受付をするあいだ、こどもを預かっているのですが、(その子の発達をみることが目的でもある)、生まれてはじめて母親から引き離される時の乳飲み子の泣き声、受付会場は凄まじい状態になります。

気になるのは、こどもに無関心な親が増えていること。親心の喪失も加速化し、養育の主体性も欠落しています。入園を希望する保育園選びをしていて、受付の最中に夫婦喧嘩さながらの光景もあります。(夫婦の絆も喪失?)

こどもを慈しむという人間本来の感情でさえ、失ってしまったのでしょうか。

1日10時間の入園受付をしていても、まだ終わりません。土日も受付をします。結局のところ、保育園を新設すればするほど、待機児童の掘り起こしになることが、新年度の入園受付で確証できたのですが、誰も増設に異論を唱える人はいません。

認可園増設=待機児童減少

愚策です。

いままで拒んでいた株式会社も公募対象として決まりました。この国の子育て政策に危惧する者は、行政の中にも官僚の中にも、皆無なのかもしれません。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーここから私です

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マスコミや教育という仲介者が加わり、親の意識の変化と政治家の経済優先の施策は相互に連鎖し、保育の質、子育ての質に影響を及ぼしています。しかし、質の低下を止めるとしたら、やはり親の意識が出発点になるしかない。

最近、子どもが言うことを聞かないと、保育士のせいにする親がいます。反対に、それを親との愛着関係のせいにする保育士がいます。たぶんどちらも正しいのです。逃げられないのはどちらですか、ということなのです。保育士は嫌になったら辞めてしまえばいい。親はそうは行かない。預けた方の意識がまず最初に幼児優先に変わっていかないかぎり、保育崩壊の流れは、変わっていかない。

どうしたらいいのだろう、と考えます。最近は状況が進みすぎて、中々いいアイデアが浮かびません。親の一日保育士体験も効き目がありますが、通過点での気づきであって出発点にはならない。やはり、中学生くらいから、もし将来子どもを授かったら祝いましょう、誰かに預かってもらうことになったら、感謝しましょう、と説明し、保育士体験で幼児と過ごす時間の素晴らしさ、自分自身の心の仕組みに気づかせてゆくしかないのかもしれません。

(以前、書いた文章ですが、中学生は中々すごい人たちなのです。彼らの感想文に希望が見えます。これは、出発点となりうる。ここから新たな流れは生まれる。そんな未来を感じ、少し嬉しくなるのです。以下のリンクで彼らの感性が読めます。)

 

『中学生は理解してくれる』

 http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=726

『中学生の保育士体験/「あの人変」/役場の人からのメール』

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=260

 

 

 

政府主導の「子ども・子育て会議」が11時間保育を「標準」と名付けた時、義務教育の崩壊が始まったことにみんな気づいていない。

政府主導の「子ども・子育て会議」が11時間保育を「標準」と名付けた時、義務教育の崩壊が始まったことにみんな気づいていない。

 

保育士が昔「保母」と呼ばれていたように、保育は、主に母親の代わりをしようとすることで、そうした理解が、以前は社会の中にありました。「代わり」はできなくても、そう努力してみること、幼児と、心を合わせようとすること。それで、まあまあ良かった。なんとかなった。

8時間勤務の保育士たちに、11時間保育を「標準」と言って押し付けることは、その努力を捨てなさい、ということなのです。「仕事」なのだから、さあ、保母という言葉を完全に忘れなさい、ということなのです。

中心が8時間勤務でなりたっている保育界にこれを言うことは、保育(子育て)は「人間対人間」ではなく、「人間対仕組み」だと宣言することになる。加配相当の障害児の母親が「私も、標準、11時間でお願いします」と言った時に、現場はそれに対応できない。子どもの育ちに責任を持てなくなる、ということなのです。誰が、子どもの育ちに責任を感じるのか、という人間社会を支える柱が「子ども・子育て支援新制度」で一気に見えなくなってきている。義務教育を支えてきた堰が崩れ始めている。

 

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幼児を囲む静寂・風景・約束ごと

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幼児を囲む静寂・風景

 

「地下で保育所可能に:区長会・公設民営で問われる質・心の傷」をhttp://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1060に書きました。雇用労働施策が発想が原点があるから、「保育の受け皿」という言葉が先走り、認知され、量の確保が最優先されている。保育の本質や意味が理解されていない。子どもの日常的環境、日々の生活の喜びに対する無感覚さ、無神経さが「地下で保育所可能に」という区長たちの発想につながるのだと思います。

親子関係というのは積み重なる体験の中で育ってゆくもの、築かれるものなのです。子育てを、親子という特別な関係が培われる営みと考えた時に、「受け皿」という言葉自体がすでに非人間的です。それに、もう誰も気付かなくなったようです。マスコミによる情報の共有が、不自然を当たり前に見せてゆく・・・。本当は、子育てに受け皿などありえないし、一歳の時の一年は、その親子にとって一生に一度の、2度と体験できない一年。そして、それはあっという間に過ぎていってしまう。もし、その双方向の人類不可欠の体験を、国の経済のために、一日11時間切り離すのであれば、できるかぎりその時間を価値あるものにしなければいけない。

「受け皿」を用意する人たちには、その質に関して相応の責任がある。

 

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音楽もする私が、ふと自分の子どもを幼児期に毎日十時間どこかに預けざるを得なくなったとしたら、と考えてみました。その時、どうしても欲しいものを考えてみました。そして強く思ったのが「静寂」です。昔から幼児期の子どもを囲んでいた静寂が、いま仕組みの規制緩和によって忘れられている気がしてならないのです。

背後に静寂がなければ、言葉さえも騒音になっていく。風景が見えなくなってゆく。

 

新しい園舎と広い園庭が完成したら噛みつきがなくなった、と言っていた園長先生の言葉を思い出します。ゆとりのある空間と景色に、保育士たちが落ち着き、無愛想だった親たちが自然に朝、挨拶するようになったというのです。不思議です。風景から挨拶が生まれる。今の時代、保育園は人間たちの重要な出会いの場。そこは、信頼関係が育まれる場でなくてはならない。

風景が生み出す「心のゆとり」が集団としての人間を支えていた。言葉でも理屈でもない。まさに、幼児の居る風景が整ってゆく。そして、幼児の居る風景が、人間社会を整えてゆく。その風景が人間たちの安心を支えるのだと思います。

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この文章をfacebookに載せたら、所沢市長からメッセージが来ました。facebookのありがたいところ。

藤本 正人 例えば、抱っこして眠る幼な児のおむつのおしりをとんとんとたたきながら、例えば、広場でベンチに座って抱っこしながら同じ風景を見ているとき、たとえば「・・・だねぇ」といわれて、「・・・だねぇ」とこたえたり、その逆に、子どもが親の言葉づかいをまねてくれる時、そして、もちろん子守唄を謳いながら寝顔を眺めているとき、安心感とともに静寂があるような気がします。

私の返信:

言葉の喋れない人たちとの会話が、人間に静寂を感じさせたり、その感覚が「祈り」というコミュニケーション能力を教えてくれたりするのですね。子守唄という、一方的に見えるけれども、親は自分の子どもだけではなく、まわりの風景や神々と交流しているような音楽のかたちが、人間社会に戻ってきてほしいと思います。

 

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「地下で保育所可能に」 http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1060 というニュースを受けて、

「保育室の窓から眺める外の風景は、保育士にとっても、子どもたちにとっても人生の大切な一部であって、生きてゆくには重要な体験です」とツイートしました。雨の日に、「外で遊びたいね、雨、やまないかな」と無言で心を重ねてくれる保育士がそばにいるかどうかで、幼児たちの人生が変わってくる、それが保育です。

このように、ある日静けさの中で、無言で心を重ねてくれる人が身近にいるかどうか、で幼児期の体験はその価値が決まってくる。いい保育士は、それを生まれながらのように理解している。その静かな心の重なり合いが少ないと、幸福感が相対的なものであって、自分の想像力の中にあることがわからなくなってくる。すると必然的に、数年後に始まる学校生活での人間関係の質が粗くなってくる。わかりやすく言うと、いじめの質が粗くなってくる。その積み重ねの結果と言ってもいいかもしれない、学校を卒業し競争社会に入って行った時の体験が、年々、殺伐としたものになってきている。それが、最近わかります。

社会全体を見える範囲で見渡すと、信頼関係の薄さにアップアップして、みんなでもがいている感じがするのです。競争社会は、誰かと競争するだけではなく、一緒に闘う人間との信頼関係に安心する、ということでもありました。もし、心の重なり合いが薄ければ、闘ったとしても、勝ったとしても、それは虚しい体験でしかない。体験を、お金で計ろうとしても、虚しさは必ず残ってしまう。

損得勘定とは離れた、「忠誠心」みたいなもの、約束ごとに、人生は支えられている。

 

私が一人で公園に座っていたら変なおじさん。でも、2歳児と座っていたら「いいおじさん」。

そんな宇宙の法則、遺伝子の働きみたいな約束ごとを実際に感じると、そこに居るというだけでこれだけの働きをする幼児たちに、すでに存在する法則のようなものが見えて、もっと楽に生きられると思うのです。こういう流れの中に居ることに感謝すると、流れ全体にいい感じの責任を感じる。こういう種類の責任というものは、良いものだな、と理解する。

 

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ツイッターは不思議な次元で会話が成立します。(@kazu_matsui)
 
『土曜日に、親たちはスキーを車に積んで出かける。
「お兄ちゃん、お父さん、お母さんはお休みなんだけど、僕は保育園があるの」と園児が言う。そんな話を岩手で保育士から聞きました。土曜日も就労証明なしでも預かれという施策が広がっています。』と私がツイートに書くと、
 
『子どもは夏休みがないんだってさ。私たち保育士は交代で休みを取れるけれど、一日も夏休みがない保育園だから(休んじゃダメだから)子どもは休みなし。「夏休める日」の希望保育日などの手紙もダメで「お子さんと一緒に休める日はありますか?」と聞くのもダメ。親が休みでも全部来る子どもが殆ど。』
 
という呟きが返ってくる。
 
自分の子どもを日々育てている保育士たちの気持ちを、親たちが考えない。その現実、そしてそれを言おうにも本音の会話を制してしまう仕組みが見えてくる。
「福祉だから、仕事だから、私たちの権利だから、税金払ってるんだから」で、「子どもの成長」とか、「保育園での保育士と子どもの日常」について考えたり想像するのをやめてしまった親が、ここ数年の間に急に増えている。
 
10数年前、地方では、お盆に「希望保育」(園の要望に応えて、親たちが自主的に、できる限り子どもを休園させる)で保育士たちが交代で数日休みをとれた。「保育士だって墓参りはするんだ」という園長の一言で、親たちが納得していた。そんな、互いの立場を慮る、助け合う日本がつい最近まであったのです。そろそろ地理的な「地域」では保てなくなってきていた「一緒に育てる」という信頼関係が、まだ保育園という場所で根強く育っていたのです。保育園とは、そういうものだったのです。
 
そんな人間同士の育ちあいや、気遣いが、「保育は成長産業」、そして「11時間保育が標準」とした閣議決定や施策でどんどん消えてゆく。失ってはいけないはずの、この国の気質や、存在意義が消えてゆく。そのスピードに驚きます。
 
別の保育士から、
 
『お姉ちゃんたちだけUSJ連れてって、一番下は保育園って子いたよ。ほんとに、馬鹿だよね。子どもをなんだと思ってるの?土曜保育、安易に使うなや( ´・ω・` )』
 
というツイート。
 
土曜保育、長時間保育、病児保育、預かり保育、ひととき保育、子どものショートステイ、学童保育、「安易に使うなや!」というのが保育士たちの本音だと思う。「安易に」という言葉の陰に、子どもたちと保育士の「無理を承知の」時間があることに、誰も気を留めなくなっているのです。福祉が権利ではなく「利権」になっている。
 
そして、
 
『台風の日に大雨の中赤ちゃんを連れてくる育休中のお母さんもいる、と公立園の園長が切ない顔をしてました。育休とっても、保育園をやめたら育休明けに行き場がなくなるとかで。何のための育休?』
 
これでは、育児をするための育休ではなく、育児から逃れるための育休になっていく。待機児童がたくさんいる地域では起こりにくい現象ですが、もともと「Needs:ニーズ:必要」ではなく「Wants:そうしたい」で保育園に預ける親が相当数いたのが現状。幼稚園という選択肢が一つも存在しない自治体が2割以上あったのですから、無理もないことだったのです。
 
三人目は就労証明なし、保育料無料という施策もそうですが、現場が「おかしいな」と思われる施策は、だいたい親たちの子育てに関する意識を、保育が成り立たなくなる方向へ導いてゆく。
 
土曜日は保育園に子どもを預け、親が休む日。リフレッシュして日曜日に子どもとしっかり遊びますと保育士に堂々という親もいる。政府が作った仕組みを利用して、何がベストか計画を立て、合理的といえばそうなのですが、幼児と一緒にいる時間が「重荷」「負担」という認識に近づいていくのを感じます。
 
人類が進化するための幸せの原点であった負担、幼児の存在意義が、薄れてゆくのです。この方向へ進んで、はたして学校教育が成り立つのか。そこを考えなければいけない。
 
そして一方で、こんな切羽詰まった呟きが届きます。
 
『乳児クラスでは、其々が休憩時間など取っていたら何も出来ません。個別のお便りを書く、0歳児が多い中(勿論、午睡リズムもそそれぞれですし)就寝中は呼吸確認、寝返り出来る子をうつ伏せから仰向けにさせる等(そして動かすから泣いてしまう)何人保育士がいても休憩なし』
 
『SIDSも不安で、皆、乳児クラスを離れて休憩などできません。何か事故があると「保育士何してた?」と批判されている。でも、皆いっぱいいっぱい。「休憩とってました!保育士一人で見てました」って言ったら?暗に保育士は(特に乳児)休憩なんかないぞ!と言われている』
 
政治家たちは、有権者の利便性だけではなく、今は選挙権がないけれど将来国を支えるはずの子どもたちの日々、家庭を基盤とした約束ごと、国全体の行く末をしっかり見据えてほしい。特に学校教育が健全に行われることを念頭に、いま施策を考えないと、市場原理に巻き込まれた保育界が限界に来ています。

 

 

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社会の常識が、崩れてゆく

日本でも変な事件が増えています。今まで暮らしていた社会の常識が、崩れてゆくような事件が、最近、繰り返し報道で流されています。

こんな事件が今の十倍になって欧米並み。欧米社会は、すでにそれに慣れ、その営みを続けている。そして、時々この国を批判するのです。平等ではない国だと言って。

欧米と日本の違いは、日本では「自分で育てられるのなら、子どもは自分で育てたい」という母親が、15年間まで9割居たこと。それがいま、7割にまで減っている。政府主導で減らされている、と言ってもよい。誰かが育ててくれて当たり前、と思う親が現れ、「社会で子育て」などと言って保育園に子どもを入れることを薦める学者さえ出てきました。

去年から今年にかけて、あちこちの役場の子育て支援課の人たちが言うのです。「0歳児を預けることに躊躇しない親たちが、急に増えてきた」と。

その先にあるのが、学校という仕組みなのです。義務教育が「義務」である限り、すべての親たちの子育てが、互いの子育てに影響する、そして、学校教育は「親が親らしい、という前提に元に作られている」。

アメリカの小学生の十人に一人が、学校のカウンセラー(専門家)に勧められて薬物(向精神薬)を飲んでいます。その薬物でかろうじて保つ画一教育で、義務教育に不可欠な教師の精神的健康を維持しようとしている。しかし、最近の「学問」が作った「専門家」が薦める薬物や保育・教育で、人間社会を維持することはもうできない。

幼児たちを眺めること、守ろうとすること、愛でること、祝うこと、そこから人間社会が始まるという、そのあたりの約束事を政治家たちが思い出してほしい。理解してほしい。この国もいま、とても危ないところに来ているのです。

 

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変な事件のニュースを聞くと思い出すのです。野生のゾウの群れが、突然サイを殺し始めたドキュメンタリーと、チンパンジーのカニバリズムについて。

 

ゾウがサイを殺すとき

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=290

サイを殺し始めたゾウのドキュメンタリーを以前、NHKのテレビで見ました。アフリカの野性のゾウの群れが、突然サイを殺し始めた、というのです。もちろん殺して食べるわけではありません。ただ、殺す。

巨大なトラックがなければゾウは運べなかった。それが可能になり、人間の都合で、その方がいいと思って、若いゾウを選んで移送し、別の場所に群れをつくらせたのです。すると、ゾウがサイ殺しを始めた。

考えたすえ、試しに、年老いた一頭のゾウを移送し、その群れに入れてやったのです。すると若いゾウのサイ殺しが止まった。

 

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チンパンジーとバナナ 

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=234

文化人類学者ジェーン・グドールのチンパンジーのカニバリズム(共食い)について研究は、その後新たな展開を見せ、餌付けという人為的な不自然な行為に問題があったのではないか、という推測を生むのです。仲間同士の殺しあい、群れの中で起こる子殺しを含む非常に残酷な仕打ち、その原因が、何十万年にわたって大自然が育ててきた遺伝子が、「平等に餌を与えられる」という突然の環境の変化によって、いままでの常識から外れた行動を誘発していったのではないか、というのです。理解に苦しむ事件が増えてきた時に、考えなければいけない考察がそのあたりにあります。

そして、もっと具体的な報道もすでにされているのです。

 

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クローズアップ現代(NHK)~「愛着障害」と子供たち~(少年犯罪・加害者の心に何が)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=267

クローズアップ現代は有名ですし、私は質の高い報道番組だと思って見ています。ここまではっきりと報道されている三歳までの愛着関係と「応答性」の大切さの指摘を、子ども・子育て支援新制度でもう40万人三歳未満児を親から引き離そうとしている首相はなぜ理解しようとしないのか、と思います。

十年以上前、厚労省が「長時間保育は子どもによくない」と保育界に向けて研究発表した時の長時間が8時間だった。それをいま13時間開所を保育所に要求し、11時間を「標準」保育、8時間を「短時間」保育と名付けて進める新制度の意図が、子育ての現場を追い込んでゆく。

政府が、この国の親子間の愛着関係を土台から壊し始めている。繰り返しますが、薬物や学問で子育てはできない。学校や保育という仕組みでもそれはできない。人間が、「育てること」から自らの人間性を学び、遺伝子の働きを理解すること、それが生きる力です。