新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。#1

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この国の「新しい経済政策パッケージ」と「高等教育」について。

政府が閣議決定した、

「新しい経済政策パッケージ:第2章 人づくり革命」1.幼児教育の無償化 2.待機児童の解消 3.高等教育の無償化 4.私立高等学校の授業料の実質無償化 。・・・。

をある園長先生に指摘され、読みました。

園長先生は電話の向こうで、「政府は、いつになっても幼児たちのことを考えない。保育界がこれほど混乱し、保育士がいなくてベテランの園長さえ右往左往しているのに、こんな馬鹿げた、保育に直接的に関わる施策がいまだに発表される。何がパッケージでしょうか。パッケージで子育てはできませんよね。いい加減にしてほしいし、保育団体の反応も甘過ぎです。現状をしっかり訴えなければいけない時に、いまだに利権獲得、利権誘導みたいなものが下心にあるから、厚労省の天下りに振り回されて、もう無理とわかっていながら気持ちが定まらない。マスコミも含め、誰も現場の保育士と、子どもたちの気持ちを考えていない」と憤るのです。

経済政策パッケージが示す、「人づくり革命」は、経済競争に参加する「人づくり」を政府の都合で進めること。それによって社会の「絆」、その土台となる「家族の絆」「親子の育ちあい」を希薄にしてゆく、この国の将来の「あり方」に影響する施策です。民主党政権が「子ども・子育て新システム」を提案したあたりから、それがはっきりと見え、その片棒を担ぐのが結局自分たち保育者になるから、園長先生は「いい加減にしてほしい、なぜ、わからないのか」と言うのです。

幼児期の子育てに関わる国の施策は、仕組みがある程度確立している学校教育と違い、壊れやすかった保育の現場に直接的に影響を及ぼす。それが身に染みるだけに、園長先生の語気が強くなる。

ここ数年「子ども・子育て支援新制度」で保育界が窮地に追い込まれ、親たちの子育てに対する意識を根本から変えようとしている経済政策の大元に、もう40万人乳幼児を保育園で預かれば「女性が輝く」、という首相の国会演説がある。本当に「輝く」と信じているのか、「経済」を良くするための方便なのかはわからない。

しかし、11時間保育を「標準」と名付け、乳幼児期の子育てを家庭からより長時間奪い、安易に、仕組み(保育)で肩代わりしようとしたら、結果的に取り返しのつかない「保育崩壊」を招くことになる。全体としては、すでに仕組みが成り立っていない。保育士が満足に見つからない。全ての保育所に立入検査をしたら3割近くに違反が出ることを以前から知っているから、それをしない。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1635)

園長は続けます。「最後に名前の出ている、これを決めた学者たちや政治家たちは一体何を考えているのでしょうか。幼児教育の無償化、待機児童の解消などで本当にこの国の経済が良くなるのでしょうか。無責任な親が増えるばかりじゃないでしょうか。親に助言をするのが本当に難しくなった。「家庭」が自転車操業を始めている感じです。経済が良くなっても格差社会が進むだけ。子どもたちが幸せでなければ意味がない」。

国としての「経済」が良くなっても、家族・家庭という形が徐々に崩れ、個々の人生を今以上に孤立化させ、生きる意欲、動機を、この先社会に保てるのだろうか。こんなことをして、人々が愛せる「国」になってゆくと本気で思っているのだろうか。

保育崩壊は家庭崩壊に似ています。保育園は幼稚園よりはるかに「家庭」という形に近いものでした。親より長い時間子どもたちと関わる仕組みは、そうでなければいけなかった。毎年涙で卒園児を送り出すことで、その形はそういう方向に自然に出来上がっていった。

私立保育園では、たとえ先代園長・理事長、二代目園長、主任、の意見や考え方がバラバラでも、一時食い違っても、「家庭」がそうであるように、「園児たちのために」という共通した意識で葛藤や困難を乗り越えることができた。人類の存続に関わる「優先順位」が、仕組みにおける人間関係をまとめてきたのです。その微妙な安定感・連帯感が政府の「子どもの気持ちが視野に入っていない保育政策」でまとまらなくなってきて、主任が辞めたり、保育理念でもめたりして、二代目三代目がビジネスに走って、初代の気持ちや「智」が役立たなくなったり、そこで働く保育士たちが納得しなくなるケースが全国で起こっています。こんなに簡単に崩れるものだったのか、と驚くような窮状が、まさかあの園で、と思うような保育園で起こっている。その崩れ方が「家庭崩壊」と重なって見えるのです。

「新しい経済政策パッケージ」http://www5.cao.go.jp/keizai1/package/20171208_package.pdf

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー

謹賀新年2018

 新年、明けましておめでとうございます。2018年も、どうぞよろしくお願いします。

いろいろ考え、文章にしたり、発言したりしていきたいと思います。
演奏も、もう少しできたらと思います。
講演の最後に演奏する形も状況が許せば、試してみようかと考えています。会話の幅が広がる気がします。

 0歳児との不思議なコミュニケーションがすべての会話の最初にあって、それをほとんどの人間が体験することで、何千年もの間、人間は言葉の向こうにある神秘性を感じ、自らの精神の安定を保ち、生きるために必要な絆を育んできたのだと思います。

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(講演依頼はmatsuikazu6@gmail.comまでお願いします。)

 2017年は忘れられない年でした。

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 2017年は忘れられない年でした。
 全国で120回講演、新制度による混乱の影響で保育士さんたちに話す機会が多かったのですが、行政の人や市長さんにも一緒に話せる機会が幾度かありました。
 いま保育にできること(してはいけないこと)、保護者の意識の変化がどう保育者を悩ませ、それがどう学校に影響してくるか、など説明します。
 市長が理解してくれるとずいぶん施策に影響します。子育てはなるべく親がやるもの、その意識が薄れると福祉と教育では財源的にも人材的にも社会のモラルや秩序を支えきれなくなる。そう説明する横で、福祉部長と教育長が頷いてくれれば、ずいぶんいいのです。
 保育者体験も少しずつ広がり香川県でも始まりました。
 県単位で取り組むのは埼玉県、福井県、高知県に続き4県目です。いつか一気に広まってくれることに期待しつつ、精一杯説明します。
 幼稚園や学校での講演も増えた気がします。幼稚園で講演すると、0、1、2歳児とゆっくり時間を過ごし、乳幼児の不思議な役割を肌で感じ理解した親たちが多くいて、間違っていなかったんだ、と自分の決断に頷いてくれます。高等教育が普及したいま、幼児と過ごす時間を正真正銘の「学びの時間」と認識することが難しくなってきている。大学を出ると、そこで得た知識も使わずに「子育て」をしていることに「迷い」や「躊躇」を感じる人もいます。そういう人たちが、私の説明に、笑顔になってくれる。私の講演を聞いて、三日間くらい子どもが神様に見えました、という感想もあって、三日間でもそれが見えればいい。それは自分自身を「見た」ことでもある。その感覚は何度も蘇ってくるはずです、そこに人生の目的があります、と励まします。
 
 幼稚園が一つもない市もありました。そうかと思えば、8割の子どもが公立幼稚園を卒園する市もありました。公立幼稚園は経費がかかりますから全国的には絶滅危惧種と言ってもいいのに、その市での講演会には千人くらい公立幼稚園の保護者たちが来てくれて、一ヶ月後に熱い感想文を送ってきてくれました。公立幼稚園という形は、様々ある保育の形の中では親にあまりサービスをしないので、親子の絆がよく育つ。親同士の絆も助け合うことによってよく育つ。本来の人間社会の姿が見えて来る。
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 既存の園をほとんどこども園にしてしまった市がありました。小規模保育は作らないという市もあれば、増やそうとする市もありました。
 お金がかかっても保育の質は落とさないと頑張る市もあれば、財政削減の手段として公立園の民営化や保育士の非正規雇用化を積極的に進めている市もありました。
 それほど全国的に(子ども子育て支援)新制度に対する解釈が違います。それほど市長さんたちの「保育」に対する理解度に大きな差があるということでもあるのです。
 現場を知らない政府や御用学者の保育(経済)施策によって各地で混乱がますます進んでいます。
 市長さんや保育課長さん、時には議員たちの意識の差で、保育の質の地域格差がどんどん広がっていきます。「保育」の定義や目的さえバラバラになってきて、その結果、義務教育が混乱し、小一プロブレムや学級崩壊、いじめや不登校という子どもの人生を左右する現実に教師たちが追い込まれてゆく。
 
 いまさら保幼小連携などと言っても遅い。
 小一プロブレムに対応するために「壁」を低くし連携をスムーズにしようなどというのは、子育ての意味を知らない人が考える、その場限りの姑息な手段です。子どもの成長に「壁」は必要。転ぶからと言って道をなだらかにしては駄目なのです。
 
 親子関係が安定していれば、「壁」が子どもを育て、親を育てる。家族の絆は遊園地で育つのではない。「壁」や困難でより一層育つのです。
 「オロオロしない親は育たない親」と以前園長先生に言われたのを思い出します。
 そのオロオロを見て、子どもたちの中に何か大切なものが育ってゆく。そう信じればいいのです。
 伝統的に存在した「小一の壁」を仕組み上低くしたら、やがて高校や大学を卒業した時、もっと大きな壁にぶつかってひっくり返るかもしれない。その傾向はすでに現れています。その時の挫折は、人生において取り返しのつかないものになる可能性が高い。
 保幼小連携を、まるでサービス産業のように「親に楽させるために」進めるのはもうやめるべきです。
 手をつないで壁を乗り越えていける「親子関係」を就学前に育てること、就学に備えることは親の責任だということをどのように親に自覚させるかを考えるべきです。
 子育てにおける親へのサービスが、親であることの力を弱め、親子の信頼関係を崩していることにいい加減に気づいてほしいと思います。
 
 共通して、役場の人たちが言うのです。0歳児を預けるのを躊躇しない親が急に増えました、と。それを心配そうに言うのです。怖そうに言う人も居る。その親たちが5年後義務教育をさらに追い詰めるかもしれない。「子ども・子育て支援新制度」、馬鹿なことをしたものです。これに様々な「無償化」が加わったら、親の自覚も育たなければ、子どもたちの感謝の気持ちも育たない。
 そして、保育所保育指針の改定で、保育界に「教育」もやれと言う。しかし、いまそれを押し付けられても、それを受け入れるだけの仕組みにはもうなっていない。
 ここ数年の間に、保育士不足によって安定した保育の姿は壊されてしまった。子育て・保育の原則「子どもの最善の利益を優先する」という人間性の根幹さえ、政府の「経済優先」の雇用労働施策によって見えなくなってきている。募集しても倍率が出ない状況で、仕方なく雇われた質の悪い保育士が、「教育」(実はしつけ)を他人の子どもたちにやろうとしたら、虐待につながってゆく可能性だってある。小規模保育ではすでにそれに似た風景が現れている。
 未満児に話しかけない保育のことを耳にします。保育士にとって都合のいい保育が、親の気づかないところに現れている。「子どもが活き活きしたら、事故が起きる確率が高くなるでしょ」そんなことを平気で言う人が園長をしていたりする。
 そんなことを絶対に許さない仕組みを作ること、それが政府がしなければいけないことの第一。
 親子の将来、子どもの長い人生を考えたら、絶対にあってはならないことなのです。話しかけられなかった子ども、抱っこされなかった子どもも、ずっとこの社会の一員でありつづけるのです。「子どもを丁寧に、育てる。みんなで心を一つにして育てる」。それは難しいことではない。むしろ、みんなが安心することなのです。

教育と子育ての両立

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教育と子育ての両立

「教育」と「子育て」が混同され、義務教育の普及によってそれがますます進んでいる。学校教育に「子育て」を任せようとする依存度が増してきているのです。これが加速すると学校教育自体が維持できなくなる。アメリカという国が50年前に通った道です。(それに関しては参考資料ブログを後述)

教育と子育ては、時に表裏一体ですが、本来その動機において著しく異なります。欲と無欲、教育は欲を動機とする道を薦め、子育ては欲を捨てる「利他」の幸せを追求する、幸福論としては正反対のところに位置する。暴力(パワーゲーム)と非暴力(サティアグラハー)ほどにも異なります。

政府が進める待機児童対策の裏に、経済論を背景にした「社会で子育て」(仕組みで子育て)という考え方があります。乳幼児期から親子を保育園を使って引き放せば、女性が輝く、とまで首相が国会で言い、マスコミもほとんどそれに異論を唱えない。このまま、子育ては誰かがやってくれるものという意識が広がると、その結果、保育や学校、福祉という仕組みが一気に疲弊してくる。

学校という形でする「教育」は100年ほどの歴史しかありません。人類未体験の新しい実験で、欧米先進国では「家庭崩壊」というモラル・秩序の崩壊につながる現象を生んでしまいました。一方、「子育て」は古代からの進化の過程に属するもの。人間性の原点が、双方向に、そこで培われる。その違いを思い出してほしい。

学校と家庭の両立、教育と子育ての両立が社会の調和には不可欠です。日本なら、まだ間に合うと思うのです。

 

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(以前、以下のような文章を書きました。現場を知らない文化人や学者によって政府の保育施策が進められることに苛立っていた頃です。言葉が乱暴ですみません。あれから、すでに十数年が経ち、現場はますます追い込まれています。)

(拙著:「21世紀の子育て」から)

教育改革国民会議という政府の諮問機関の座長に、江崎玲於奈というノーベル賞をとった学者がいて、この人が先日テレビ朝日のニュースステーションに出演して言うのです。(2012年当時)

「子どもの個性をのばさなければいけない。200人に一人は数学や物理に才能のある子どもがいるそうで、そういう子どもがのびるような教育をしなければならない。アメリカではちゃんとそれをやっている」

こんな発言をする人を座長にしている政府が作った「国民会議」。文化人や学者が首相官邸に集まってする会議だそうです。座長さん自体は人間的に、いい人だと思います。それは直感的にわかるのですが……、本当に問題の本質が見えているのでしょうか。

 「アメリカではちゃんとそれをやっている」と言うなら、その前に、アメリカの高校教育が200人のうち40人の、社会で通用するだけの読み書きのできない卒業生を生むこと、200人のうち3人の親がすでに学校を見離しホームスクールで子どもを家庭で教育していること、音楽や美術の授業はほとんどの学校で廃止されているということをどう考えるのか言ってほしいのです。高校の国語(英語)の先生の国語力が問われ、カリフォルニア州の司法長官が義務教育を指して「政府には子どもを強制的に危険な環境に送り込む権利はない」と言わしめ、大統領自ら率先して公立学校に制服を取り入れようと発言している現状をどう考えるのか……。

生番組の短い時間内で、アメリカの現状を語るのは無理だとは思いますが、理数系の学校教育が今、実際にはどうなっているか。

元宇宙飛行士のジョン・グレン上院議員が座長をつとめるアメリカ政府の教育諮問機関が、つい先日、数学と科学に関しては、先進国41カ国中アメリカの子どもたちの学力はほぼ最下位、しかも、学校で理数系を教える教師の20%が、理数系を教える教員資格を持っていない、理数系を教えることができる教員を増やすことが、アメリカにとっては死活問題、という報告をしていました。これが実態です。

なぜ実態を隠すようなことを日本の全国ネットのテレビで言うのでしょうか。その意図が私にはわからない。

ノーベル賞ももらったことだし、いまさら、自分の欧米体験を自慢して稼ぐ必要はないはずです。日本は確かに研究者には不利な国ですから、それに苛立って少々欧米かぶれの発言をする学者がいても仕方がないとは思います。私が言いたいのは、なぜ、国民会議の座長にしなければいけないのか。なぜマスコミで「アメリカを見習ったほうがいい」という宣伝をしなければならないのか、ということです。

この人は、音楽や美術の才能は「個性」と認めていないのでしょうか、数学とか物理とか、世の中で企業のお金儲けや競争に役に立つものだけが個性だと思っているのでしょうか。それは、とてもアメリカ的考え方かもしれません。

芸術は役に立たない、そうした片寄った考え方によって、アメリカの公立学校から音楽と美術の授業が消えていったのです。

 私は音楽家でもあるので、こういう発言には腹が立ちます。

音楽という「祈り」と重なる不思議なものが、こういう時代だからこそ必要なはず。

昨年アメリカでヒットし日本にも来たハリウッド映画「ミュージック・オブ・ザ・ハート」を見ていただければ、アメリカの学校教育の中で音楽がどれくらい軽んじられているか、その中で、音楽を愛する教師と子どもたちが苦しみ、絶望感を感じ、また損をしているかがわかると思います。数年前に上映された「陽のあたる教室」という映画も、オレゴン州で公教育から音楽の授業が廃止された時の話でした。

こういう映画をアメリカ信仰の日本人が見ると、情熱を持った素晴らしい教師の話になってしまうのでしょう。たしかに素晴らしい教師の話ですが、その背景に、音楽の授業が消えるというだけではなく、アメリカの学校教育システムの崩壊、教師の堕落、子どもたちの心の荒廃、画一教育ができなくなってしまった現実、そうしたものがたくさん映し出されているのです。

《ハリウッド映画のヒット作に「Pay it forward」(日本ではペイ・フォワード)というのがあります。是非見て下さい。本当のアメリカ社会が理解できます。主人公の少年を取り囲む環境、人間関係、家族関係、DV、児童虐待は、もはやこの国ではけっして特殊なものではないのです。》

 「学問」の対極にあるのが「芸術」なら、システマチックな幸福論と祈りの幸福論のせめぎ合いがそこにあるのかもしれない。しかしアインシュタインの写真をじっと見ていると、この人が「祈る人」であったことは間違いない。回り道をせずにシステムと祈りを直結できる人が「会議」には必要です。

The high school dropout rate in the United States is 27% – in Japan the rate is 5% and in the former Soviet Union the rate was 2%.

-U.S. Department of Education

Illiteracy is not a problem for just a select group of people. According to the National Education Association, 41% of illiterates are white, 22% are English-speaking African Americans, 22% are Spanish speaking, and 15% are other non-English speaking peoples.

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アメリカにおける学校教育やそれに伴う家庭崩壊について。ブログにいくつか書きました。

「ホームスクール(学校教育システムの否定)・第三世界型学校教育・ベトナム難民の子どもたち」

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1064

「米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊」

:http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1428

「より良い生活(Better Life)の幻想」

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1079

「プジェクト2000」国が用意するシステムと家庭の境界線

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1062

「“行方不明児20万人”の衝撃 「中国 多発する誘拐」/アメリカの現実」

:http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=276

帰って来れる場所

子どもにとって母親の仕事は母親の時間を争うライバルでしかありえません。それがどんなに素晴らしい、その母親にしかできない、社会的に意味のある仕事であっても関係ありません。そこで母親が輝けば輝くほどますます腹を立てるのが普通です。

母親が働くことが一家の生活に不可欠であることを繰り返し説明し理解させる。そして、働きながらも母親の心の中で優先順位はまぎれもなく子どもであることを感じさせるしか、子どもとの良い関係を保つ方法はありません。「あなたが優先なの」と子どもに感じさせようと思ったら、本気でそう思うしかありません。本気で悩む、本気で後ろめたさを噛みしめる、逃げずに本気で思えば結構通じるものです。

 時間がかかるかもしれません。伝わるのが、子どもが親になった時になるかもしれません。親が死んでしまってからかもしれません。しかし、通じるのです。親子関係というのはやり方でも成果でもなく、ましてやタイムリミットがあるものでもありません。心のあり方とコミュニケーションだということを忘れてはいけません。

(親として悩んだ時、いい親でいたいと思った時、子どもの幸せを願う時、優しい顔をしていない人のアドバイスや意見には絶対に耳を傾けないこと。強者の意見は子育てには向きません。)

(子どもに幸せになってほしければ野心を抱かせないことです。どうしても夢を追求する子に育てたいのなら、夢破れた時に帰って来れる場所、家庭という異なった幸福のものさしを用意しておいてやることが大切です。帰って来れる場所を作れる子どもに育てることです。)

 

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「夢」が奨励されればされるほど、不安やイライラが社会全体に蓄積し、子育てをしている母親たちに少しずつ伝染していく。

子育ては、まさに「現実」。

「自己表現」も「自己主張」も通用しない、思うようにならない「生活」そのものです。それを宇宙は私たちに与えたのです。そこから真の幸福論をつかみとれ、と。

 

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「一度しかない人生、自分らしい生き方」

「人生輝いていなくてはいけない」

「一人の女にかえれ」

こんな言葉が頭に浮かんでくると自分の人生が色褪せたものに見えてくる。

そして自分の「夢」(本当は「欲」の場合が多いのですが)をさまたげているのが子どものように思えてくる。

「欲」は持たないほうがいい、と言えばうなずく人が多いのに、「夢」は持たないようがいい、と言われれば納得できない。それで良いのですが、最近、「夢」のほとんどが社会的成功、経済的成功や有名になることになってきていることに気づきませんか?

「夢」は、もっと幸福論に近いものでなければいけないはず。

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「夢」と「欲」

「夢」と「欲」の区別はつきにくい。それはたぶん表裏一体のものでしょう。夢を持てば不安になって当然です。「夢を持って生きる」という言葉の響きは美しいけれど、「不安を手に入れよう」と言っていることと大差ない。その不安を克服しつつ、夢に向かって進み続ける強い人間もいるでしょう。しかし、よほどの強さか運を持ち合わせていないかぎり、現実はそんなに甘いものではない。

(アメリカでは5%の人が90%以上の富を握っている。競争社会で成功する、「勝つ」ことを目標にしてもその「夢」は、ほとんどかなわない。それが現実です。失敗する人が多いから、一部の人が儲かる。経済論というのはネズミ講のネズミをいかに増やすか、みたいなものなのです。)

学校教育は子どもたちに与える目標として、何かを達成する、成し遂げる幸福感ではなく、それに取り組む過程における「人間関係」に幸福感を見い出すように子どもたちを導かなければなりません。目標はあくまで目標であって懸命に努力さえすれば、たとえそこに到達しなくても、場合によっては共に失敗したからこそ、より一層親密な人間関係がまわりに生まれるのだということを体験させるべきなのです。(子育ての幸福感と重なります。)

学校を使って、親密な人間関係に幸福感の土台があるのだということを子どもたちに教えることが出来たらと思います。

夢破れた時に、帰るところがあればいいだけのことなのです。

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 夢を追いつつ人間関係を作ってゆけばいいのです。夢を追い競争する中で、逆に、競争に勝つことではない、人間どうしの助け合い、優しさに目覚めていけばいいのです。

 でも、それと同時に、わらしべ長者や三年寝太郎のような人たちの存在感、その意味、みたいなものを教えていく。それは、幼児と接するということでできます。誰が一番幸せそうか、と考えたときに、3、4歳児が一番幸せそう、幸せに簡単になれる人たち、ということを学校教育の中で、保育体験などをさせて、体験的に学ばせてゆくといい。

未就学児の施設入所を原則停止(返信)

(未就学児の施設入所を原則停止について書いた文章にコメントをいただき、それに対する返信です。)

ありがとうございます。乳児院の子どもたちに興味を持たれていること、嬉しいですね。以前、ブログに「愛されることへの飢餓感・荒れる児童」
http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1676 を書きました。とても難しい問題で、社会全体の流れの中で起こっていること、と捉えないと、個々の状況があまりにも違いすぎて解決策などありえないのですが、いきなり原則停止みたいなことが行われてしまう現状に、当事者たちは何も言えない。それを実行しなければいけない行政の人たちも何も言えない。

だからこそ福祉という仕組みに関しては安易な改革は危険だと思います。幼保一体化、無償化、保育の規制緩和、安易な待機児童施策、最近あまりにも早い速度で、学者と政治家(主にそう思われる)による無責任な改革が進んでいて、保育・教育の現場が混乱し疲弊しています。0歳児がしゃべれないからこそ、大人たちの想像力が大切です。保育・教育は「感謝」でなりたっていたことを思い出さないと、いい保育士、いい教師が去ってゆく。そこに気づいてほしいと思います。

教育という視点 (保育園の背負う重荷が増えています。)

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(都市部の役場の人から。)

なぜ、ここまで保護者は怒り憤るのでしょう…

世の中が、世知辛くなってしまったからでしょうか…

そのイライラを、こどもを叩いたり、私にぶつけてくるのであれば、時間を惜しまず全身全霊で受け止めた甲斐があるというものなんですが。

それだけ、孤育になっているということなのかもしれません…

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講演する保育士会から前もって質問が来ました。講演の中で私の意見を聞きたいというのです。

「保育指針改定で、教育という視点がより重要視されていますが、保育士が気をつけるポイントはなんでしょうか」

うーん、またか、という感じです。

学者や政府は小一プロブレム、学級崩壊の問題をいよいよ保育園・幼稚園に押し付けようとしている。

大学を卒業、就職した若者たちが会社に入って三年もたない、続かない、そんな話をよく聞きます。確かに中学生くらいで、特に男の子が幼い、私もそれを感じます。そして、3割近くの男性が一生に一度も結婚しない。それが少子化の大きな原因でしょう。

男たちに、意欲、忍耐力、責任を負うことに幸せを感じる力、生きる力が欠けてきている。引きこもりや暴力、犯罪の原因の多くがそこにある。

大学教育が問題だ、いや、それ以前の高校教育の問題だ、中学校が問題だ、小学校の問題だ、と順番に言われ、仕組みがお互いに責任転嫁をして、いよいよ「保育の問題だ」となったのです。

「保育」をさっさと飛び越して「親の問題だ」とはっきり言えばいいのに、学者やマスコミはその現実を指摘するのをいまだに避けている。自分たちが干渉・操作できる教育という「仕組み」の問題を越えてしまうようで踏み込めないのかもしれない。しかも、総理大臣が3歳未満児をもう40万人親から引き離せ、と言い、すべての政党が「待機児童をなくせ」と親子を異常に早期に引き離す施策を公約などに掲げているのですから、いまさら「親の問題だ」「親子関係の問題だ」とは言いにくい。

NHKのクローズアップ現代は、実は言っていた。(「クローズアップ現代(NHK)〜「愛着障害」と子供たち〜(少年犯罪・加害者の心に何が)」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=267)国連の子どもの権利条約や、ユネスコの子ども白書などでも、この親子関係の問題、特定の人との愛着関係の重要性についてはずっと言っていた。解釈はいろいろですが、「三つ子の魂百まで」ということわざは、様々な国、様々な宗教、文化圏で「常識」「知恵」として言われてきた。学校教育、学問などというごく最近のものが現れるずっと前から言われていた。

「教育」という言葉を保育所保育指針に入れれば、それで何とかなるのではないか、と思っていることがおかしい。本気かどうか知りませんが、姑息です。問題の本質がわかっていない。学校教育が成り立たなくなっている、だから、もっと早く保育園で「教育」すればいいという学者の無知と傲慢さが腹立たしい。

それなら、非正規の保育士の時給を教員並み(時給2700円)にしろよ、と言いたいくらいですが、それで本当に学校教育が成り立つようになるとも思えない。でも心情的には、非正規の時給が教員の三分の一という待遇で二十年も黙ってやってきた保育士たちに、これ以上もう要求するな、とは言いたい。

教育が成り立たなくなってきたのは、「教育」の問題ではありません。就学前に親が育たなくなってきたからです。義務教育が存在する以前の「子育てが親を育てる」という本来の法則が、ここ百年くらいの間に、「システムとしての教育」「システムとしての福祉」の出現により成り立たなくなってきているところに問題はあるのです。

教師の質の低下も確かにある。しかし、本当に教師たちが言いたいのは、子育てを当たり前のように保育や学校に依存しようとする親が増え、家庭や家族の中で感じるべき安心感、安定感を欠いた子どもたちによってクラスがまとまらなくなってきた、ということでしょう。一人の担任に30人の子どもの子育てはできない。学校教育は、親たちがそこそこ子どもをしつけ、学校の先生にそこそこ感謝して成り立つもの。

「子育て」は育てる側を育て、育てる側の心を一つにする、それが人類としての基本です。

今回の保育指針の改定は、結局、「教育」という言葉で誤魔化し保育園に「しつけ」をさせようとしているのです。

しかし、それは家庭の協力なしにはできないし、保育をサービス、成長産業と政府が定義付けたら、そのことをはっきり親たちに言うこともできなくなっている。この矛盾が保育界を追い詰める。

(規制緩和され、無資格者の存在が当たり前になってきている)小規模保育や障害児デイサービスなどで、親に、「家庭でも、もっと規則ただしい生活をさせてください」と言おうものなら、親が息巻いて役場に駆け込む、プライバシーの侵害だ、と訴えるような状況がすでに始まっている。

政府の無理な(無知な)労働施策と規制緩和で、ただでさえ質が下がってきている保育士たちに、他人の4、5歳児を30人しつけろと要求したら、虐待まがいの風景が現れる。(以前にも書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1400)

たとえそこで子どもたちが一時的に座っているようになっても、保育士にしつけられ、笑顔が消えた子どもたち、特に親との愛着関係ができていない子どもは、小学校4年生5年生くらいでキレるという。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=233

しつけた人がもうそこにいないのだから仕方ない。親も育っていない。(しつけというのは、しつける側がどう育つか、というのがその行動の本質。)土台や継続性のないしつけは数年しかもたない。小一プロブレムが、小四プロブレムになってゆくだけのこと。子どもの「しつけ」は、本来「みんなで可愛がる」という子育ての土台があってされるものです。

みんなで可愛がる、という土壌があれば、しつけさえ必要なくなってくる。欧米人が日本の伝統を見てそのことを書き残しています。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=205

こうした欧米人が書いた日本の子育てについての記述を読んで思い出すことがあります。以前、ある学者が私に「可愛がると、甘やかすは違いますよね」と言ったのです。「そんなもの、同じでしょう」と私は答えました。厳密に言えば、言葉が違うのですから違うのでしょう。でも、そんなことを考えながら「子育て」はできない。

保育士の3割を派遣に頼る園が現れ、ますます保育室が荒れてきている現状で、「教育」(しつけ)という言葉を保育に持ち込める状況ではすでにない。いや、持ち込んではいけない。もっと先に整えなければいけない問題がある。

 

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保育所に仮児童養護施設の役割を押し付けてくる

2017年11月

親に守られなかった子どもたち。自分を守れない年齢の子どもたち。家庭という生きる場所を失った子どもたち。だからこそ、福祉が心を込めて助けなければいけないひとたち。どうしても、この子たちのことが気にかかるのです。この子たちを大事にしなければ福祉という仕組み全体が壊れて行く気がする。

政府の言う「福祉の歳出削減」の最初の犠牲者になってはいけない人たち。

「厚生労働省は7月31日、虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する方針を明らかにした。施設以外の受け入れ先を増やすため、里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とするなどの目標を掲げた。家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い。」毎日新聞

この記事に載っている「家庭に近い環境」という言葉は、政府の財政のつじつま合わせを実行するための厚労省の誤魔化しに過ぎない。本当にそれがいいと信じるなら、子ども・子育て支援新制度で11時間保育を「標準」とは名付けない。働いていない親も保育園に乳児を預けられるような規制緩和もしないはず。

講演先で、「未就学児の(児童養護施設、乳児院)施設入所原則停止」について、現場で関わる役人たちに、「こんなことして大丈夫ですか?」と聞いてみました。すでに地区の児童相談所から説明を受けた課長もいますし、まだ知らない人もいる。

「親元へ帰る道、還す道を安易に閉ざしていいのでしょうか」、という声があがりました。

施設入所がいいか、里親を探すのがいいのか、危うくなっていても何とか家庭を維持し実の親子関係を細心の注意を払いつつ見守るのがいいのか、一つ一つのケースに異なった事情と複雑な状況があります。何よりも、子どもたちの未来があります。一概には何も言えない。それが子育てに関わる福祉の現場なのです。

こうした施策を国からの指示で進めることで、施設に居る間に親に立ち直ってもらう可能性を追求する努力が弱まり、なるべく実の親が育てるように行政が指導する姿勢が薄れるのではないか、という危惧の声があがります。この辺りが、実は「これからの福祉」全体の「姿勢」が問われる、重要な問題なのです。

政府やマスコミ、政治家は簡単に、それが正論のように、みな「待機児童をなくせ」と言いますが、それは同時に乳幼児を家庭から保育園に移すこと。子どもたちから長時間「親と過ごす時間」「親を体験する時間」を奪うことでもあります。親子の絆、就学前に親子が過ごす時間の質は、いまや学校教育が成り立つか成り立たないかを左右する問題です。肉親とか家庭という言葉の意味を真剣に考え、その存在意義や価値を大切にしておかないと、やがて福祉は重荷を背負いきれなくなる。それが役場の課長たちには見えているのです。

親に虐待される、家庭が崩壊するなどして、身勝手な大人たちに追い詰められた就学前の弱者たちにとって、人生の岐路ともなる選択を、「施設入所原則停止」という決定で政府が決めてしまっていいのか。親身になるほど現場で、神の役割にも似た、重要な判断を迫られる人たちの悲鳴、葛藤が聞こえてきます。

何気なく進められる国の施策の陰で、現場でその子たちと関わり、懸命にその子たちの幸せを考えようとする行政の人や指導員が追い詰められている、そして、やる気を失ってゆく。11時間保育を標準と名付けた施策もそうですが、こんな乱暴なやり方をしているから、行政や福祉という仕組みに「心」がなくなってくる。いい人材が去ってゆくのです。

児童養護施設や乳児院はお金がかかる。今の状況ではよほどの待遇改善が行われない限り有能な指導員は確保できないし仕組みとしてはすでに限界を超えている。たぶん、その辺りがこの施設入所原則停止の主な理由でしょう。表向きには「家庭に近い環境」と言い、欧米では里親制度が主流だから、と言う学者たちの受け売りの研究や意見を政府が渡りに船とばかり利用しているのではないか。この施策を説明する厚労省の文書に出てくる横文字の多さには辟易とします。英単語を知らなければ理解できないような文章から、施策の向こうに欧米かぶれの、日本の状況を知らない学者たちの存在を感じます。こういう問題で政府が数値目標を出してくるとき、その裏に「欧米の数字しか見ていない」御用係のような「専門家」たちがいる。保育新制度の議論の時もそうでした。

「福祉という仕組みの一部としての里親制度」は、実の両親に育てられる子どもが半数を切ったような国々で定着し、常態化し、里親先進国アメリカにおいてはネット上で子どもをやりとりするような、大人たちの身勝手な市場原理、人身売買に近い異常な状況を生み出しているのです。

ドキュメンタリー「捨てられる養子たち」https://www.facebook.com/watch/?v=1820006938239263

(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1413)

 

このフランスのテレビ局が作ったドキュメンタリーで語られるのは、「家庭に近い環境」というより、市場原理に頼らざるを得なくなった「福祉」の成れの果ての風景なのです。

欧米に比べて奇跡的にまだ家庭が崩壊していない日本で、欧米並みにこの国も、という考え方はあまりにも短絡的で無責任。

欧米など、まったく真似する必要はない、価値もない。

以前フログに、「幸福度1位と51位・国連のものさし、この国のものさし」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1990を書きました。

「国連の幸福度1位のノルウェーでは、女性がレイプにあう確率が日本の20倍。殺人事件の被害者になる確率が2倍、泥棒に入られる確率が4倍。14ヶ月の徴兵もある。」「そして、13歳から始まる低年齢のシングルマザーが問題になり、傷害事件の被害者になる確率が日本の15倍、ドラッグ汚染率が5倍というデンマークが、この幸福度調査では第2位になっているのです。」

政府は、こういう強者の幸福度でしか見れない国連が決めた「日本に女性の地位の低さ」を気にしているようです。

「政治家になる女性が少ないこと」でその「地位」を決めるような愚かなものさしをなぜ真に受けるのか。最近の政治家たちの醜いドタバタを見れば、よほど「欲」を持たない限り、そんなものに成りたくないという判断の方が賢明なように思えます。

経済的に成功すれば「幸福」という欧米的なものさしから、幼児たちが「女性が輝く」ための障害になっているという考え方が生まれるのでしょう。こういうひとたちは、砂場で遊んでいる三歳児四歳児が一番幸せそうなひとたちだ、ということにさえ気づかない。

政府が主導する「仕組みとしての里親制度」は、実の親、血のつながりという言葉にまだ価値を見出している日本では制度として定着しない。(たぶん、役場や保育園に里親募集のポスターを貼っておしまい。「虐待ダイヤル189」と同じ。)誤解を恐れずに言えば、この定着していないことを、「いいこと」と考える人がなぜ政府にいないのか。40万人保育所で預かれば女性が輝く、ヒラリー・クリントンもエールを送ってくれました、と国会で首相が言ったことにも表れているのですが、欧米ではこうだから、(こうしないと国連の幸福度調査が上がらないから、)という馬鹿げた欧米コンプレックスが未だに日本の福祉施策(雇用労働施策)の土台にあるような気がしてなりません。

最近常套句のように言われる、「生活スタイルの変化や価値観、多様化するニーズに応えること」より、いまこそ、将来福祉が成り立つために、「変えてはいけない価値観」がある。そう考える政治家が現れて欲しい。

現在、制度としてまだ定着していない日本の里親制度は、実は欧米よりも心がこもった、子どもたちの安全に細心の注意を払おうとした、より真剣な人たちによって支えられている制度ではないのか。だからこそ、広がらない。高いハードルをクリアできない。希望者が少数しか見つからない。そう考えるほうが自然です。

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保育士不足対策として行われている「資格者半数でいい小規模保育」「基準を下げた地域限定保育士資格」「家庭的保育事業」「保育補助員制度」などを見ればわかるのですが、今の子育てに関わる施策は、子どもの安心安全を二の次にした、大人の都合と労働施策主体の危険な規制緩和です。

学童の指導員、ファミサポ、民生委員や保護士もそうですが、半分ボランティアのような仕組みに頼れる時代はもう終わりかけている。真心が、福祉という仕組みの中で裏切られる状況に拍車がかかっている。善意が裏切られると、一番福祉に向いている「その人たち」はもうなかなか返ってこない。

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そして、私が現実的問題として最も危惧するのは、「未就学児の施設入所を原則停止」が、すでに疲弊してきている保育所に、仮児童養護施設的な役割をさらに押し付けてくることです。

その傾向はすでに7、8年前からありました。

「認可保育園を増やせと言っても、いま保育園は、最前線の児童相談所、仮児童養護施設の役割さえ果している。児童虐待やDVを一つでも止めようとすれば、園長は家庭に踏み込んで行くだけの気力と決意を必要とされる。それをしないと他の児童とその人生に直接影響が出てしまうのが保育園。規制緩和で保育園が崩れたら児童福祉全体が危ない。」と以前ブログに書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=211

「保育の質の低下」は単に幼児が過ごす時間の質、保育士の質の問題だけではありません。最近特に著しいのは、園と家庭、保育士と保護者の信頼関係の質の低下です。私立保育園の定款に「サービス」という言葉が入れられたころから、親が役場に保育園に対する苦情を言うと、役場が保育園に「文句が出ないようにしてくれ」と言い、親身な園長たちが次第に口を閉ざしていった。役場と現場の保育者の信頼関係さえも危うくなっている。

十年ほど前までは、問題のある親子を長時間引き離すために保育園を使う場合、行政から園の方にそれなりの説明がありました。でも、ここ数年、行政が問題のある親子を黙って「措置」(昔の言い方ですが)してくる。4月の親との面談で、園側は初めてその状況を知る。様々な問題のたらい回し、先送りの終着点が保育園になりつつあるのです。

5歳までの子育て・親育てが人間社会の土台をつくってきたのですから、役割としては当然かもしれない。しかし、「保育界」は、それを受け入れる、引き受けるだけの仕組みにはもうなっていない。

「未就学児の(児童養護施設、乳児院)施設入所原則停止」。この言葉がいかに恐ろしいか。政府の施策がいかに現場を知らない、浅はかで付け焼き刃の愚策か。こうした決定が、この国からどれほど優しさを奪っていくか。マスコミは真剣に取り上げ、みなで考えてほしいと思います。

「虐待ダイヤル189(イチハヤク)」

あちこちでポスターを見ます。でもこれが進められた時、ダイヤルした先の仕組みの改善はほとんど行われていなかった。いわゆるやったふり施策で、イチハヤク連絡しても、イチハヤク対応できるようにはなっていなかった。子どもの生死に関わるキャンペーンを国が真面目に本気でやるなら、電話を受ける人員を増やし、そこで相談にのる人、児童相談所の仕組みを充実させ、虐待の疑いがあった場合に子どもたちを受け入れる施設、乳児院や児童養護施設の量的質的改善、人材の確保を同時にしなければならなかった。それをせずに、いきなりその1年後に「未就学児の施設入所を原則停止」なのです。政府のビジョンのない福祉施策の典型だと思います。

こんなこと無理だとわかっている児相は、各市町村の課長に「里親を見つけてください」と指示し、そんなものどうやって探せばいいかわからない課長(数年の任期で移動する、元土木課長だったりする人?)は、送られてきたポスターを保育園や公民館に貼って、おしまい。

そして、「未就学児の施設入所を原則停止」という非情な現実だけが残るのです。

 

 

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(この文章をフェイスブックでシェアしてくれた音楽家の友人に、)

塩入さん、シェアありがとうございます。もう三十年も前に米国の里親の問題とドラッグの関係について書いたことがあります。里親制度が先進国社会特有の家庭崩壊をその原因としてある一定の定義、範囲を超えてしまうと必ず起こってくるのが、妊娠中のアルコール摂取、麻薬使用の問題です。(ブログに載っています。)http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1428 こうした家庭崩壊に関する問題で、日本の状況は、まだ欧米の50年前くらいの数字ですが、それがいま急速に進んでいる、政府、政治家によって進められている。経済優先、で。そんな時、ふと音楽の出番を感じることがあります。子守唄とか祈りとか。優先順位を思い出させてくれるもの。いにしえの法則を感じさせてくれるものの復活が待たれます。

「未就学児の施設入所を原則停止」についてのやりとり。

(私のメール)

お元気ですか?

いつも、突然ですみません。質問があります。

ブログ、http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2363 に「未就学児の施設入所を原則停止」を書きました。(児童養護施設、乳児院への施設入所原則停止です。)この原則停止を「家庭的養育」への一歩という、それは責任逃れで、実は人材的にも財政的にも一番の弱者、家庭を失った幼児たちを、多くの人たちが知らないうちに、切り捨てるということ。「家庭的養育」の第一歩は、11時間保育を「標準」と名づけた経済優先施策を変えることです、

という内容です。

元になっているのは、毎日新聞の報道です。

 「厚生労働省は7月31日、虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する方針を明らかにした。施設以外の受け入れ先を増やすため、里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とするなどの目標を掲げた。家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い。(中略)

 『家庭的養育』へ一歩:

 厚労省の「施設入所停止」の方針は、「家庭的な環境での養育」という理念と、大半が施設で暮らす現実の隔たりの解消に取り組む強い意志を示したものだ。

 子どもの健全な成長には特定の大人との愛着関係が重要とされ、愛着形成が不十分だと将来的に人間関係を築くのが苦手になるケースもある。だが、現状では8割以上の子どもが乳児院や児童養護施設で職員と集団生活を送る。」

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こんなこと可能なのでしょうか。福祉の残酷さの象徴のような気がします。

もちろん、虐待された子どもたちのために、家庭的な居場所をしっかり、細心の注意を払って確保できるのなら、その方がいい。しかし、日本に福祉としての里親制度の土壌はまだ育っていない。たとえ育ったとしても、里親先進国のアメリカを見ているとその先にあるのは、ネットで子どもをやりとりする、子どもを商品やペットのようにあつかう身勝手な社会です。

(「捨てられる養子たち」https://www.facebook.com/watch/?v=1820006938239263 ぜひ見てください。)

ご意見を聞かせてください。

お願いします。

松居

 

(返事)

メールありがとうございます。

和さんの一語一語に、思わずウンうんと頷きながら、もうひとりのわたくしは、国の政策に加担している一人なのかと思うと愕然とした失望感を否めません。

先日も幹部の職員と新年度予算の子育て政策について話し合いの際、それは子育て支援ならぬ、子育て放棄支援策です、と発言してしまいました。(低年齢児の預りも、病児保育も)

(施設入所について)

虐待やネグレストによって保護された児童は、養護できる安全な環境と安心できる大人の環境において、慈しみ愛されることを享受できるようにしなくてはなりません。

「家庭的」とはなんでしょうか。

国の稚拙で短絡的な考えの中には、ただ建物が屋根がある家屋でみることが家庭的と思っているようにしか見えません。

このまま進めば、里親法の悪用も邁進するでしょう。

要保護児童の対応にあたる度に思うのは、悪知恵の働く大人は目に見える虐待はしません。アザもなく傷害を負わなければ、児相も警察も動きません。

大切なのは、心の中で出血し、傷付き、心が死んでしまうことです。

そこに気付くケースワーカーも保育士も保健師もそこにはいません。

「家庭的」という偽善なカーテンの向こうにあるものを政治家が、行政が、親たちが、心の眼を見開いて見なければなりません。

(どうか、傷付いたこども達よ、目に見えるアザがなくても、心から叫んでほしい。愛情がない生活をしていると…。ぼくは、わたしは、もっと愛されていい存在なのだ!と)

(次の厚労省のやり方について)

これまで病児保育について、推進してきた国の政策は、おそろしい一手に出ました。

医療的支援が必要な児童を預るモデル保育施設を募りはじめたのです。

県から通知がきました。

補助金は年間約700万円。現在の病児保育のうち体調不良型保育をやった場合の約2倍で手を打とうというもの。

そもそも人口呼吸器を必要とする児童を預かってはいけない。

命を預けるということ、命を預かるということを軽んじ過ぎています。

国がこどもの命を考えないで、なにが住みやすい国だと公言できるのでしょうか。

徒然なるままに、書いてしまいました。

この続きはまた

きょうも諦めずに、これから戦場へ行ってまいります。

こども達が笑顔になるために

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(私の返信)

ありがとうございます。

そうですよね。
施策の進む方向が根本から間違っているから、ますます現場が追い込まれる。
でも、福祉として行う里親制度は「行き止まり」で、それ以上逃げるところがない。だからこそ、最後の手段でなければいけない。
政府が、子育て放棄支援策を経済優先(長い目で見て、本当にこれで経済が良くなるとは思わないですが)で家庭崩壊を進めておきながら、行き詰まると「あとは家庭的に」というのは無責任。施設入所を余儀なくされた未就学の子どもたちは、自分で自分を守れない上に、守ってくれる家族がいない。こうした一番の弱者に、いきなり「施設入所原則停止」と国が決めて、誰も表立って反対しない。そういうことが起こっていることさえ多くの人たちが知らない。
マスコミ、政治家、学者が怠慢なのです。
熱い言葉、ありがとうございます。
頑張ってください。
松居