日本体育大学の先生へのメール

日本体育大学の先生から、シャクティの映像を授業に使いたいというメールをいただきました。嬉しい限りです。

返信メールを書きました。

ありがとうございます。学生たちが、シャクティの風景から様々なことを感じてくれれば、それこそ作った甲斐があるというものです。

私もシャクティの踊り手たちから学ぶことがたくさんあります。

学校教育の中で考えますと、たとえば毎朝20分でいいから小学生中学生が輪になって踊る、というようなことが全国の学校で実践されれば、それだけで日本という国が変わるのではないかと思います。シスターがドキュメンタリーの中で言っている、人間が円になって踊ることの意味、心を一つにすること、そして平等を感じること、それがいま先進国社会の教育に一番大切なことではないかと思います。

日本全国すべての学校で毎朝、同時に輪になって踊るという実感が、時空を超えた人間の「絆」をつくるのではないかと思います。魂の次元の交流と言っていいかもしれません。こうした行動とその役割を、例えばイスラム教の人たちが一定の時刻に同じ動作をするという祈りの形と、文化人類学的に重ねあわせてみると、「祈り」を意識的に排除してしまった現在の学校に、それに代わるものとして「踊り」を取り入れることは、単純で、誰にでも出来て最も効果的なのではないでしょうか。イデオロギーを越えて、人間たちの「心を一つにしたい」「信じ合いたい」「頼り合いたい」という幸福に向けた遺伝子情報に沿った新しい形の教育を「創造」できるのでないか、と思ったりします。不登校やいじめもずいぶん減るのではないかと思います。先生たちも元気になるはずです。

いままで、教育はあまりにも経済論の中で語られてきました。これからは、もっと幸福論の中で語られるようにならなければいけないと思います。

スポーツも実は人間が心を一つにしたがっていることの現れです。オリンピックで遠いギリシャから「火」を運んで来て聖火台に灯す。それを世界中の人間が見ている。人間は不思議なことをやる、と感心します。それもすべて、いつか心を一つにしたい、という太古の遺伝子情報がそうさせるのでしょう。この心を一つにしたい、という思いが、競争して勝ちたいという思いよりもずっと古い幸福のものさしであったことを思い出さなければなりません。それを子どもたちに伝えなくてはなりません。

シャクティの映像の中にある、太古からの様々なメッセージが、いま、これからの教育を考える上で大切になってくるような気がします。太古の幸福論をいまの教育に取り戻し、「集まること」そして「わかちあうこと」この二つのメッセージが今の日本に生き返ってくれることを願っています。

映像の中に出てくる、第一回のサマーキャンプに向かう子どもたちの姿には、「ああ、こういう子どもたちに教えることが出来たら、先生は幸せだろうな」と感じさせる、学校の原点があるように思います。

教える事で先生たちが幸せを感じる、教える側の幸福感を基盤に、本来、伝承は成り立っていくのです。子どもたちが、教え手を育てる、幸せにする、それが親子関係の本質です。

シャクティセンターに向かうあの子たちのように、明るく、潔く、堂々とした表情が、そして草原を並んで歩く風景が、学校に命を吹き込むのです。

シャクティセンターの「先生たち」は、ついこの間村の子どもたちだった踊り手たちです。教職の免状もなければ教え方を教わった娘たちでもありません。それなのに、たった8日間のサマーキャンプから生まれる「美」。家族、村、そしてシャクティセンターを包み込む人間たちの「信頼関係」が、たった8日間のサマーキャンプに、「真の学校」を映し出すのだと思います。

そして、不思議なのは、シャクティセンターのサマーキャンプは、読み書きや人権の真ん中に「踊ること」があるのです。教えることの中心に「和」があるのです。

アメリカからの返信と、私の返信

松居 和様、

お忙しい中、こんなに早くお便りを送ってくださり、大変有難うございます。とても嬉しく読ませていただきました。

シャクティのビデオを送ってくださるということ、感謝します。来学期、学生に是非見せたいと思います。どういうディスカッションが出てくるか、とても楽しみです。又、先日の私のメールの中に何かあれば、もちろん、シャクティ日記に引用してくださってかまいません。

先進国社会ということで思うのは、アジアではありませんが、最近行っていたポーランドのことです。そこの学生と仕事をする機会があったのですが、このポンコツの車に乗っている(車のある人は少ない)貧乏学生達の口からは「soul」という言葉がさらっと出てきて、この言葉はアメリカの自分の教えている学生からはでてこないなと思いました。しかし、やはり先進国社会の影響は押し寄せてきていて、失われていくものを間のあたりにしながら複雑な思いでした。(古い工場が、経済を支える為のに大きなモールに建て変えられたり。。。しかし製品の値段はポーランド人の収入に見合うものではなく、誰が買うのだろう?と聞くと、西ヨーロッパから来るリッチな人ということでした)グローバリゼーションすなわちアメリカナイゼーションが進んでいく中で、世界はどうなっていくのだろう?と不安です。又、こういう状況下で、アメリカに居る日本人の私にできることはどういうことなんだろう?という大きな疑問にも面しています。

踊りはどう呼んだらいいかわからない踊りなのですが(小笑)、師と仰いでいる人は田中泯さんです。

ピナバウシュも「人がどう動くかではなく、何が人を動かすか」と言っていましたが、「どうして踊るのか」ということを最近ずっと考えています。

シャクティ日記の中に、踊り手達が浦和の幼稚園に行って、園児達と踊った時、感動していたとありました。踊るのは、芸術や意味のある目的というものを超えて、もっと深いところで、最も身近なところで、つながりを感じていたいからかもしれません。

お便り、本当に有難うございました。ビデオを楽しみに待っています。

敬具

N.M

私の返信

ポーランド人の口からこぼれた「Soul」という言葉、新鮮だったでしょうね。この言葉、アメリカでは、もう、なんて空虚に響くのでしょう。アメリカの「Soul」はすっかり商業主義の手垢がついてしまいましたね。経済論とは対局にある言葉ですからね。

本物を追い求めたら、たぶん南アフリカあたりまで行かないと、Streetで生きているジャズもソウルも見つからないかもしれませんね。

『ピナバウシュも「人がどう動くかではなく、何が人を動かすか」と言っていましたが、「どうして踊るのか」ということを最近ずっと考えています。』

良い言葉ですね。バウシュは私もむかし東京で見ました。稀代のプロデューサーでしょうね。この感覚、あの空間を見るとわかります。頭が先行せずに結果を意識せず、場を提供すれば自然に事は成る、という演出の原点ですね。

この言葉、教育局の人たち喜ぶかもしれない。学校教育は演出ですよね。場を作る、すると、ちゃんと子どもたちが先生を育て、幸せにしてくれる、というわけです。

大鹿保育園から野菜

埼玉県の教育関係者の功労者の表彰式で、偶然大鹿保育園の大鹿園長先生にお会いしました。

「先生のところは地主さんですか?」ときくと、「はい、そうです」

「ひょっとして野菜とか、お米はありませんか?」

「実りの秋ですから、たくさんあります」

「ひょっとして、シャクティに寄付してもらえませんか?」

というわけで、朝早く起きて、保育園に野菜とお米をいただきに行きました。

シャクティのメンバーは、長ネギを見たことがありませんでした。でも、カレーに入ったはずです。

日本の玉ねぎはインドに比べると巨大で、種を持って帰りたいと言っていました。

お米も、阿蘇牧師先生からのと、近所の石郷岡さんのご主人のお友達からのと、会わせて80キロになりました。これで何日もつのかな。

最初に、千葉の明和輝保育園から5キロいただいた時、黒川さんと、これで何日もつのだろう、と考え込みました。16人が自炊して5キロのお米が何日もつか、こういう質問に答えられない自分に気づきました。でも、生きるには屋根とふとんと、お米ですね。

日記遅れていてすみません。

シャクティ来日してから、毎日忙しかったのと、コンピュータが調子悪かったのが重なって、一番大切なときに、書き込みできませんでした。すみません。

八日に、八王子の共励保育園の55周年記念式典で踊りました。久しぶりに見る、生シャクティはやはり感動でした。長田理事長一家の合奏も良かったし、埼玉から同志の園長先生たちもかけつけてくれました。

私は午前の部でシンポジウムもしたのですが、横浜の道祖神、瀬谷愛児園の尾崎千代先生が客席にいらしたので嬉しく、緊張しました。尾崎先生は87歳になられます。シャクティを撮った時は考えていなかったのですが、賞をいくつかいただくと「次の作品は?」と聴かれます。そんなときにふと思うのは、尾崎先生のドキュメンタリーを撮らなければ、という願いです。

尾崎先生は、宮崎アニメに出てきそうな、地面から湧き出たような、守り神のような先生です。私は携帯に、園長先生・道祖神の写真コレクションをしているのですが、その第一守り神です。