小野省子さんの詩「お母さん、どこ」と解説

小野省子さんの詩

 お母さん、どこ

 

「ヒカリちゃんのお母さん、どこかしら」

「ここにいるじゃない」

「それはコウちゃんのお母さんでしょ」

弟を抱いた私に、娘は言った

長いまつげの小さな目は

悲しげにも見えたし、

何かをためしているようにも見えた

「じゃあ、ヒカリちゃんのお母さんは

どこにいると思うの?」

「病院に寝ているんだと思う。

ばあばが言っていたよ。

ヒカリちゃんのお母さんは病院に行ったよって」

 

娘は、私が弟を出産した日のことを言っているのだ

「お母さんをむかえに行かなくちゃ」

玄関でくつをはこうとする娘の

小さな背中を見ていたら

私は

夕闇の中で

大切な人に置き去りにされたように

心細くてたまらなくなった

同時になぜか

動揺している自分が

くやしくもあるのだった

 

娘はふり返って

私が泣いているのを見て

「あっ、ひかりちゃんのお母さん、

やっぱりここにいた」と

無邪気な風に言うのだった


http://www.h4.dion.ne.jp/~shoko_o/newpage8.htm (省子さんのホームページ)

(解説)

 三歳の娘が、そこにいる母親に向かって、「おかあさんどこ?」と言ったとき、娘は魂の次元のコミュニケーションに入っている。

 「ここにいるじゃない」では、答えにならない問いかけに、母親は応えなければならない。父親なんて、普通、こんな質問さえしてもらえない。

 泣くしかなかったお母さん。

 言葉のない会話を、0歳からずっと娘と続けてきた母親は、「泣く」というやり方で、ヒカリちゃんに答えることができた。それは、娘の魂に寄り添うこと。

 自分が病院に居た時に、玄関で何ども靴をはこうとした娘の姿をイメージし、そのイメージと心を合わせることが可能だったから、言葉で答えることの無意味さを知っていた。言葉ではないコミュニケーションの次元が存在することを母親は知っていた。それを学ぼうと、人間たちは幼児とつきあい続ける。母は何も悪いことはしていない。いくらでも言い訳ができたのです。しかし、娘の悲しみは、その言い訳が通じる次元のものではないことをすでに娘から教わっていた。

 子育てだけではなく、人間関係は育てあう時、悲しみや絶望感を必要とすることが多いのではないでしょうか。子どもたちは、そのことを正直に私たちに告げる。魂を感じあうしかない絆の確認で人間は生きてゆくのです。悲しみを避けていては、絆は育たない。こうしたコミュニケーションの先に、前回紹介した「愛すること」の詩があるのだと思います。

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 0歳児が初めて笑った時、見ていた人間たちは嬉しくなり、命を眺めるひとたちの心が一つになる。それが、人間社会の原点だと思います。

 産むことは育てること。人間が「自分自身を体験したい」と宣言すること。0歳児と言葉のない会話を繰り返し、人間は年をとって、お地蔵様や盆栽、海や山とも会話出来るまでになる。こうしたコミュニケーションが、人間の精神の健康を保ち、生きる力である絆を生む。

 幼児は「頼りきって、信じきって、幸せそう」、宗教の求める完成された人間像を私はそこに見るのです。
 完成している人間が一人では生きられない。ここが、素晴らしい。真の絆が生まれます。
 集団で遊ぶ幼児をながめ、人間は、自分がいつでも幸せになれることに気づき、幸せは、「ものさしの持ち方」だと学びます。「自分も昔、完成していた」と気づいた時、一体感が生まれます。

小野省子さんの詩『愛し続けていること』

『愛し続けていること』 詩/小野省子

いつかあなたも
母親にいえないことを
考えたり、したりするでしょう

その時は思い出してください
あなたの母親も
子供にはいえないことを
ずいぶんしました

作ったばかりの離乳食をひっくり返されて
何も分からないあなたの細い腕を
思わず叩いたこともありました
あなたは驚いた目で私を見つめ
小さな手を不安そうにもぞもぞさせていました

夜中、泣き止まないあなたを
布団の上にほったらかして
ため息をつきながらながめていたこともありました
あなたは温もりを求め
いつまでも涙を流していました

わたしは母親として
自分を恥ずかしいと思いました
だけど苦しみにつぶされることはなかった
それは小さなあなたが
私を愛し続けてくれたからです

だからもしいつか 
あなたが母親にいえないことを
考えたり、したりして
つらい思いをすることがあったら
思い出してください

あなたに愛され続けて救われた私が
いつまでもあなたを
愛し続けていることを

http://www.h4.dion.ne.jp/~shoko_o/newpage8.htm (省子さんのホームページ)

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 出会うことの不思議は、人それぞれが自立出来ないといことを証明しているようです。去年、私の講演を聴いた一人の母親が、手紙と詩を送ってくれました。

 「話が進むに従って、私の中で不思議に思っていた問題が少しずつ解かれていきました」と書いてありました。

 自分が子育てをしながら書いた詩の解説に、私の講演がなったのです。私は、最近講演でこの方の書いた詩を一つ朗読します。短い詩が、私の2時間の講演の全てを説明してくれる。詩という芸術の素晴らしさを実感します。余韻、余白、で表現する、これは、言葉の喋れない0才児が私たちから「人間性」を引き出そうとする人間の進化の仕組みに似ています。感性の世界で全体的につながることを要求する。詩人の感性は、子どもの感性とよく響きあう。この余韻、余白から生まれる時空を超えた感性の絆が、人間社会には大切なのだと思います。人が育てあうことの背景には「信頼」が存在する。信頼を確認するために人は永遠に育てあう。
 人間が育てあい、支えあう行為が、人間対システムになってはいけないと思います。人間対自然であればいいけれど、システムは人間の思考から出来上がっていることが多いので、偏りが出て来てしまう。社会全体で子育て、と政治家は言うけれど、それでは、社会から本来の人間性が失われてしまう。システムが人間を支配するようになってしまう。

 幼児は信頼することで私たちに人間であることの幸せを教え、ときどき許し、絆を育てる。それが初めにある。それが社会。そして私たちは、詩人がそう言うように、幼児によって「救われる」。そうやって人間性は潰されずに回り続けてきた。絶対的弱者が運動の始まりに存在して、動機、意思を生み出す。
 講演でこの詩を声に出して朗読すると、時々、最後のところで泣きそうになってしまいます。

(小野さんの子育て詩集「おかあさんどこ」がhttp://kazumatsui.com/genkou.htmlからダウンロードできます。)