学童保育と児童館/自治体の財源と人材不足/それでも新制度は前倒しで進んでいる/教育再生

 

学童保育と児童館、量的拡張に追いつかない人材不足
 

 

 

 美術館や公共施設が次々と指定管理制度に移行し、平行して児童館や学童保育の民営化/民間委託が急速に進んでいる。公的機関も様々で、そうすることで来館者、入場者が増える場合もあった。児童館も民営化が必ずしも悪いわけではなかったのだが、保育士不足に象徴される慢性的な「子育て」に関わる人材不足で、いい指導員を定着させることが極めて難しくなってきた。企業が運営しながら利益を出そうとすれば、待遇面で今以上のことをするのはほぼ不可能だと思う。それが出来たとしても人材不足を解消するような根本的な解決にはならない。(政府の保育士の待遇改善が年に十万円のボーナス。月に十万円増加して、やっと全国の平均給与になるというのに。しかも、そのボーナスでさえ、消費税が上がらなければ飛んでしまう話かもしれないのです。)

 学童の現場では、待機児童解消の掛け声で進む「子育ての社会化」が急速に進むことによって、子どもに対する親の関心が薄れ、より親身な、より経験を積んだ指導員を必要とする不安定な子どもが日々増えている。しかし企業側は、子育てに関わる利権の争奪戦が激しさを増す昨今、指定管理を外されることを恐れ、そうした無理な現状を率直に行政に訴えることが出来なくなっている。市場原理の狭間で、親、指導員、企業の管理職、行政といった育てる側の意思疎通が希薄化し、組織の心がバラバラになり危険な孤立化が進んでいる。利益を出す継続的運営と指導の質の間に軋轢が起っている。

 保育を成長産業と位置づけた閣議決定は、子育ての様々な分野に営利を目的とした株式会社の参入を許した。そして、制度に食い込むビジネスにより、児童館員、学童の指導者の非正規雇用化が急速に進んでいる。閣議決定が主導する「質より量」の流れが、親たちの政治家や行政に対する要求にもそのまま重なり始めている。待機児童解消が目的で、目的を達した後の子どもたちの生活の質が二の次になっている。

 最近、なぜか児童館の職員や学童の指導員に講演することが増え、男性職員が結婚を考えて辞めてゆくのに出会う。真面目に結婚を考え、または結婚して子育てをしている、責任を果たそうとしている人たちにこそ指導員になってほしいのだが、そういう人ほど数年で辞めてゆく。学童の場合は勤務時間が押さえられているとはいえ、十五万円程度の収入では、ボランティア精神がない限り長くは続けられない。子育ての社会化で家庭崩壊が進むいま、小・中学生の放課後の過ごし方、その時誰と出会うかは将来の社会の安定にとても大切で、切実で、現場では学校の先生以上に心ある優秀な、相談相手として経験を重ねた指導員を必要としている。「誰か」との愛着関係を求めている子どもが集まってくるケースが増えてきている。

 ブラック企業や「名ばかり店長」という言葉で、若い労働力が酷使され始めている社会で、実は子どもと関わることに幸福感を求めようという若者は確実にいる。意欲の萎えていない、経験豊かな館長や指導員もまだまだ居る。しかし、認可外のブラック企業的な保育園でいま起っている「名ばかり園長」の現実が、児童館や学童保育の現場にも迫ってきている。一度失ったら二度と戻って来ない大切な人たちが辞めてゆく。

 子どもの放課後の大切さを理解し、親身に声を掛けられる人たちが次の世代の指導員を育てられなくなると、現場の良心を頼りに、いままで当たり前のように存在して来た「子育てに関わる」この国の不思議な仕組みが再生不能になっていく。社会の土台を作っていた信頼関係が根こそぎ消えてゆく。それがいかに大きな損失だったか、あとで気づいてももう取り返しがつかない。保育園も児童館も学童保育も、数値目標を達成する仕組みではなく、人間たちの日々の「営み」なのだということを絶対に忘れてはならない。

 家庭的保育事業、家庭保育室、小規模保育などで資格の規制緩和を進める手段として、「子育て支援員」制度を国は作ろうとしている。20時間程度の研修で保育や学童保育にも関われる資格を新たに設けるのだ。しかし、その主旨の根底には人材不足と財政削減があり、子どもたちの本当のニーズが後回しになっている。いま家庭まで踏み込んで行ける人材、それを許す信頼関係こそが社会に求められているのに、経済施策にのみ込まれ、付け焼き刃のごまかしで「子育て」に関わる施策が進められている。

 「子ども子育て支援新制度」のパンフレットの表紙にある「みんなが子育てしやすい国へ」という言葉が虚しい。税収を増やすために母と子をなるべく引き離し、実は、子育てを非正規雇用で補いそのつけを未来に先送りしている。子育て施策の最後の安全ネットであるべき児童養護施設でも待遇の問題もあって人材不足が著しい。善意で頑張って来た人たちの顔にあきらめの表情が浮かんでいる。民生員や保護司の後継者がいない。この国独特の利他の心、人間性で保たれていた希有の仕組みが急速に限界に近づいている。「みんなが子育てしやすい国へ」という掛け声で、共倒れ現象が始まっている。

cover.gif

首相の所信表明演説から
 
「子育ても、一つのキャリアです。保育サービスに携わる「子育て支援員」という新しい制度を設け、家庭に専念してきた皆さんも、その経験を生かすことができる社会づくりを進めます」
 
(私の考え:五歳までの子育ては一つのキャリアではなく、ほとんどの人間が「自分のいい人間性を体験し、男女がそれを確認しあう」、遺伝子に組込まれた、人類にとって不可欠の作業です。ほとんどの人間が体験することによって人間性の偏りに自然治癒力が働き、集団としての自浄作用が生まれる。幼児との対話で繰り返し次元を越える体験をすることで、社会という仕組みのバランスが保たれてきた。社会は想念から生まれるものであって、政府が作るものではない。)
ーーーーーーーーー関係資料
 

「子育て支援員」資格新設、主婦も20時間で保育従事者に 2015年度から

政府は2015年度から「子育て支援員(仮称)」資格を新たに設ける方針を固めた。育児経験がある主婦などが対象で、20時間程度の研修を受ければ、小規模保育を行う施設などで保育士のサポートにあたることができる。528日、女性の社会進出などを議論している政府の産業競争力会議で、厚生労働省などが提案した。時事ドットコムなどが報じている。

背景に不足する労働力

政府がこのような制度を設置する方針の背景には、保育人材の不足がある。政府が2015年年度から施行する「子ども・子育て支援新制度」では、保育所や小規模な保育施設、学童保育施設を増やすとしている。事業の拡充に伴い人材の確保が必要となるが、保育士不足は現状でも深刻な状態が続いている。

このため政府は、子育て支援員資格を整備することで、担い手を確保する仕組みを整えると同時に、子育て中の女性や、子育てが一段落した主婦の社会進出を後押ししたい考え。

ーーーーーーーーーーーーーー

6.jpg

 

 

園長たちの人生の道筋
 

 

 

 保育士という仕事はどういう気持ちで人生を生き抜くかということで、それだけにある種の覚悟を要求される。最初の覚悟は、高校時代の進路選択の時にされるのかもしれない。お金持ちになれるわけではない。子どもが好き、という資質は利他の精神を持って生まれて来たということ。そして現場に出て、毎日のように、他人の人生に親身にならざるを得ない場面に遭遇する。見ぬふりをするとやがて幼児の目線に立ちすくむ瞬間が来きてしまう。だから続けていればその葛藤の中で人間が育っていった。

 最近保育士の人生が馴染んでいない園に出会うことがある。ちょっとした絵本のコーナーや生き物の飼い方に、子どもと重なった目線の年月を感じる機会が減ってきた。園における保育士たちの人生の伝承が行われなくなってきたのだろうか。親たちが、子どもを誰かに預けてゆく、その誰かの人生の重なり合いが感じられなくなってきた。鏡となる親の人生と交わらなくなってきたのだろう。一緒に子を育てながら、意識、心のやりとりが減ってきたのだと思う。

 子どもを預けてゆく親たちの日々の繰り返しが、競争に巻き込まれた世間の早い流れに埋もれ、取り残され、誰の目にも留まらなくなると、子どもたちの日々が社会のどこにも積み重ならなくなってくる。幼児の未來の道筋が見えないのは親たちの育ちを感じられないからで、園長たちに、自分の人生の道筋が見えなくなってくる。

 



「保育園開業・集客完全マニュアル」をお読みになった方は、そのほとんどが興味を持たれ、開業されたオーナー様も多くいらっしゃいます。勇気をもって新たな一歩を踏み出すお手伝いをさせていただければ本望です!

  無責任な宣伝文句がネット上に踊る。これを書いた人たちは、三歳未満児の子育てを経験した人たちなのだろうか。単純にビジネスチャンスと捉えているだけで、体験の伝承をしようとしている人たちではない。保育は、宣伝文句にあるような、「何から、どう始めていいかわからない」人、「今まで保育園経営などにまったく興味のなかった方」、「不安でいっぱい」の人、がマニュアルを読みながら始める仕事ではない。子どもの将来にある程度の責任を持つこと、日々子どもの命を守ること。それが単純に、政府の新制度を利用して「オーナー様」に「開業」が薦められる。保育士がいないのに。

 こんなことが市場原理として政府によって推し進められている。閣議決定で40万人子どもを保育園で預かる施策を役人に進めさせることは、政府が40万人の子どもの子育てに責任を持つということという意識がない。成長産業と位置づけ、ビジネスコンサルティング会社に火をつければ財政削減になる、ぐらいにしか考えていない。。

 

振り込め詐欺の被害額が過去最高

 振り込め詐欺という犯罪が成り立つ国は、今のところ世界中で日本だけかも知れない。欧米先進国社会では、自立という名で、通常とっくに親は子との、子は親との関係を見限っているし、成人していれば自分の子どもが窮地に陥っても助けることを躊躇するか、すでに不信に満ちた社会で育っているからひっかからない。発展途上国では仕組み的に「振り込み」が出来ない場合が多い。振り込め詐欺は、日本で、信頼関係で成り立つ社会と欧米型競争社会(不信で成り立つ社会)が最後のせめぎ合いを起こしている現象だと思う。振り込め詐欺は犯罪だし、道徳観の欠如という意味では最悪の行為なのだが、アメリカの競争社会を30年間体験した視点から見ると、それがまったく成り立たない社会がどれほど不幸か、ということも同時に考えてしまう。「最後のせめぎ合い」があらゆる分野で起っている。

images-12.jpegのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像



 

(考察)

  幼児と過ごす時間は胎児との時間も含めて、進化の時間、宇宙とのやりとりを体験すること。それが「善的」で自然で、理にかなっていたことを見つめる時間なのでしょう。貧しさの中で、人間は調和しなければ生きていけなかった。それを憶い出す。そのことを感じる。

 産業革命以降かもしれない、義務教育が普及し豊かさの中で人間はかなり偏った自分を体験し続けることになる。経済とい言葉で表される何かが幸福論にすり替わり、本来の部族的つながりを離れ、人間性を必要とする、人間性を耕す営みから道筋が外れ始める。

 先進国社会における大人同士の駆け引きや裏表を偏って体験することは、豊かさ後の人間同士の欲望によって発達した罠を知ること。振り返るための体験。

 六歳で線引きされる学校教育以前と以後を、例えば「義務教育の普及+産業革命」以前と以後と考え、そこまでの進化を宇宙の理にかなった進化、それ以後を人間の意図をベースにした進化と捉えるとわかりやすいと思う。4歳でほぼ完成する人間性(一人では生きられないが、頼り切り、信じ切り、幸せそうな人類が集団として進化する形を司る性質)は、家庭という宇宙の理の中で育まれる。故に「善」なのだ、と私は定義し、それ以降の教育と経済優先の志向を「悪」とは言いませんが、かなり「危険な」道と位置づけているのだと思う。

 豊かさを体験したあとの老人たちの孤独と不安を考えてみればいい。育てない人間が見える不安、理にかなった、宇宙に守られた進化の部分を繰り返そうとしない人間を見ることで、自分の中の「善」が壊れてゆく感じがするのだと思う。「孤独と孤立」が広がってくる。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2611-1p01 のコピー
 
に文章を書かせていただきました。
 

 

■育てること、育つこと


 松居和(元埼玉県教育委員長)

kazu Matsui2松居和氏

松居:最近「愛国心」という言葉がよく聴こえてくるようになりました。国とは、幼児という宝を一緒に見つめ守ることで生まれる調和だったはずです。その幼児を蔑ろにしながら、「愛国心」という言葉でまとまってもやがて限界がくるでしょう。

 

 

 (抜粋)来年4月から、「子ども・子育て支援新制度」が始まります。内閣府のパンフレットの表紙に「みんなが子育てしやすい国へ」とあります。私はこの制度と、今の日本の保育をめぐる流れに強い危機感をいだいています。「待機児童」対策において、そのほとんどである三歳未満児の願いが反映されていない。乳幼児が保育園に入りたがっているのか、その次元での想像力が働かなくなってきたことが先進国社会特有の道徳心の欠如を招いているのではないのか。
 
 保育が雇用労働施策として繰り返し語られるうちに「子供は国や社会が育ててくれる」という考え方が広まってきた。「地域の子育て力」が人々の絆を意味するものではなく、保育や教育という仕組みの整備と見なされ、親子関係(社会の土台となるべき家族の連帯意識)が薄れてゆく。それは子供にとって不幸なだけでなく、社会全体から一体感が失われモラル・秩序が消えてゆくこと。誰がどのように子どもを育てるかという問題は、国家のあり方の問題なのです。
 
 実は、子はかすがいではなく、子育てが社会のかすがいだった。いま子育ての社会化で家庭崩壊はますます進み、DVや児童虐待が増え児童養護施設も乳児院も限界を越えています。

 

 十数年前に「サービス」という言葉が民間保育園の定款に入れられた時から親の意識が変わり始め、「子供の最善の利益を考え」と明記する保育所保育指針と矛盾し、摩擦を起こしているのです。「保育は成長産業」と位置づけ市場原理を導入し、その中核をなす新制度における「小規模保育の促進」で保育士の質はこれからますます落ちてゆくでしょう。保育で儲けようとする人たちが客を増やそうとするほど、本当に保育を必要とする子供たちの安全さえ守れなくなってきているのです。

 先日、知人の議員が株式会社の運営する保育園に視察に行き、「お金さえ払えば24時間あずかるのですか」と尋ねると、「もちろんです」と説明に当たった社員が自慢げに言ったそうです。悲しげに言うならまだ分かりますが、社員がすでに人間性を失っている。市場競争において、保育「サービス」は幼児に対してのものではなく「親に対するサービス」と躊躇なく解釈されている。  

 

 厳密に言えば、幼児の口に食べ物を運ぶスプーンの速度が幼児の願いを超えたとき保育はその良心を失う。親の知らない密室でその対象とされた子供たちが、この国を支えていくことができるのでしょうか。待機児童が増えようと、親たちから文句が出ようと、市長が選挙で何を公約しようと、良くない保育士はすぐに排除するという決意を社会全体が持たないかぎり、子供たちの安全を優先する保育界の心を立て直すことはできません。この国の未来である子供たちを守ることはできないのです。

 



 01歳児をみることは、数人の絆と信頼関係があれば、人々の心を一つにする喜びであり拠り所だったはず。子育ては目的や目標というより、人間が自分のいい人間性を知る、人類としての体験だった。一緒に子どもの幸せを願い、損得勘定を離れることに幸せを感じる、社会の安定に欠かせない学びだったはずです。その「大変な」子育てを社会化・システム化すれば、「絆」は薄れ、生きる力が失われ、学校教育や経済にまで影響し始める。この国の少子化の原因は現在二割、十年後三割の男が一生に一度も結婚しない、生きる力、意欲を失っていることなのです。人間を進化させてきた親としての幸福感が崩れつつある。男女共同参画の本質だった「子育て」が欧米並みに崩されつつある。このままでは男女間の信頼関係さえ育たなくなる。

 「子育ての外注化」が欧米先進国社会の仲間入りであるかのように喧伝され、一方で、知らないうちに親に見せられない保育が広がっている。半数近くの子どもが未婚の母から生れ、犯罪率が日本に比べ異常に高く、経済的にもうまく行っていない欧米型社会は、けっして真似るべき社会ではない。