共励保育園、運動会4:4:2の法則/騎馬戦:運動会で社会が変わる

運動会四:四:二の法則

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 八王子の共励保育園の長田安司先生が編み出した「運動会四:四:二の法則」には感動しました。一緒に講演を聞いていた埼玉県庁福祉課の小峰さんも感心していました。保育展における先生の講演は、ビデオやスライドを使って、保育の実践とともに運動会の映像が出てきます。それを見せながら、「うちの園では、親たちがやる競技が四割、子どもたちがやる競技や演技が四割、親子が一緒にやるのが二割ですから」と、サラリと言ってのけたのです。エッと思って、私は小峰さんの方を見ました。オッという感じで、小峰さんも私を見返します。そして、二人でニコッと笑ってしまいました。何か、とても具体的に人類を救済する発言がなされたように思えたのです。。

 ビデオに出てくる親たちを見ていると、「子どもたちの運動会」という既成概念を飛び越え、「園長と保育士と親と子どもの運動会」です。家族のような、部族的信頼関係が育っていくことが運動会の意味なのです。参加する親の真剣な顔、真剣さの中にこぼれる笑顔を、子どもたちが観客席から眺める。応援する。もちろん、子どもたちの一喜一憂、自慢げな表情を、親も嬉しそうに眺めます。そして、また一緒にがんばる競技がある。

 親同士の絆は運動会の準備段階から強まっています。四割は自分たちが出る種目です。運動会に行こうと思ったら、参加しないわけにはいかない。子どもの成長を見に行く、なんていう教育っぽい絵空事ではない。親の心が成長するために行くのが「運動会」です。

 親が真剣に、楽しそうに「保育園の運動会」に参加してくれることが子どもには嬉しい。子どもたちは「自分たちの運動会」だと思っています。そこへ親がきて真剣に遊んでいるのです。嬉しいに決まっています。親だって真剣に遊べるのです。

 子どもが嬉しそうだと親はもっと嬉しくなる。幸せの歯車が廻りだす瞬間です。

 「役所に、日曜日にやってはだめだと言われました」と長田先生は怒ります。月曜日を代休にするのは法律上困る、と言うんです。そんなとき、子どもと一緒に有給休暇をとって休むか、誰に預かってもらうか悩んだり、奔走するのが親にいい。そんなことくらい対処できないようでは親として失格です。行政が福祉や権利といって親を甘やかすから、親がおかしくなるんです。いつかまた、日曜日にできるように、私は闘います」

 「がんばりすぎて、怪我する人が出ませんか?」

 「保険は三千円しか掛けてないから、それ以上は自己責任、と父母には最初から言ってあります。要は信頼関係ですよ。親たちと園との」



 

運動会は真剣です

 

 共励保育園へ運動会を見に行きました。

 前の晩から天気が心配です。時々カーテンを開けて夜空を見ました。こんなことは久しぶり。運動会はもう始まっているのです。空を見上げ、思うようにならない何か、を意識するときです。人間の位置を感じ、世界を感じ、みんなで祈る。心を一つにする助走が始まっています。晴れるといいな、と思いました。

 その晩、もっと真剣に全国で、小さな手が祈りながら、てるてる坊主を作っていたはず。だって、ずっと練習してきたんですから。予行演習だってやったんです。文化人類学的に分析すれば、てるてる坊主の数だけ神との対話がある。深夜二時ごろ激しい雨が降っていましたが、明け方にはやみました。なんとか持ちこたえて運動会が行われました。

 河川敷にある広場を借りて行われた運動会は、村の運動会という感じ。子どもが意外と目立ちません。おむすびの中のごま塩みたい。一人の子どもに二、三人の大人がついてきている計算です。園児はまだ小さいのです。運動会に占める体積が少ないから、どうしても大人の陰に隠れてしまうのです。競技だって、子どもだけでやる種目は全体の四割しかないのです。長田先生を探しました。やっと見つけた理事長は、四人一組で板の下駄を履いて走る競技の真っ最中。もう転んだのか、短パンに泥がついています。必死の形相で事務組の先頭をつとめています。

 父母四人と担任が出場するこの競技は、五人一組の障害物競走になっていて、午前中に予選、午後に決勝戦があり、運動会のメーンイベント。昼休みに、決勝に残ったどの組が優勝するか、投票があります。本部席の前に箱が設置してあり、お弁当を食べ終わるころ、三々五々、子どもも大人も投票にやってきます。馬券の予想屋のように理事長がマイクで今年の本命などを解説し、票が偏らないようにしています。当てた人の中から抽選で、米一〇キロが賞品として贈呈されます。運動会を盛り上げるのは、真剣な競いあいと、真剣な応援。真剣だから心底笑い、一喜一憂するのです。そうして、心が一つになってゆく。

 「真剣に応援するには、やっぱり馬券と賞品です」先生が笑いながら私に説明します。

 障害物競走の途中に棒登りがあって、五本のうち一本が太くて登りにくくなっています。二位できた組がその棒を登ります。その組は「運」が悪いのです。「競争には運が必要ですから」と、先生がニヤニヤしながら説明します。「人生とはそういうものなんだから」

 そういう不公平を、園長の独断としてみなが受け入れています。

 昼休みが終わると卒園児の徒競走。

 一〇〇人は参加しています。歳の若い順に六人ずつ徒競走をするのですが、最前列は一年生、最後列はどう見ても二〇歳を過ぎています。でも、みんな卒園児です。

 司会が差し出すワイアレスマイクに向かって、走る前に、一人ひとりが自分の名前を大きな声で言って「ヨーイ、ドン」。

 ああ、あの子だ、大きくなったね、あの子は変わらないね、などと保育士から懐かしそうな歓声が上がります。保育士が自分の仕事の結果に幸せを感じる瞬間です。こういう瞬間が保育士の明日のエネルギーになります。卒園児の走る姿を見て、「いま」の保育にいっそう心がこもるのです。保育園は、卒園したらそれで終わりの生産工場ではありません。その先に長い道のりがあるのです。その長い道のりを立派に幸せに歩んでいってほしいという祈りが、保育なのです。

 保育園の運動会はまっすぐで本気です。ふだん駆け引きや裏表の世界で生きなければならない親の精神には、とくにいいのです。必死に走って、転んだり、泣いたり、悔しがったり、そうやって久しぶりに血の通った人間社会らしい一日が過ぎます。幼稚園や保育園の運動会は親の精神の浄化と絆の確認のためにあります。日本独特の魂の行事です。

 一人並ぶのが遅れてしまった小学一年生が、最後に大人と一緒に走ることになってしまいました。大人だって卒園児です。容赦しません。みんな必死に走りますから、一年生は二〇メートルも離されて最下位です。悔しくて、悲しくて大泣きです。それでもいいのです。みんな笑顔で同情し、拍手します。泣いて笑って悔しがって、成長し、思い出ができて、絆が育まれるのです。

 ハーモニカ合奏のとき、「ビデオを撮りやすい場所を本部の横にもうけました」とアナウンスがあります。二度と見ないビデオだっていい。せっかく芸を仕込んでもらったのです。撮っておかないと損です。撮ってもらうだけで、子どもは嬉しいのです。いい場所を確保し、ファインダーを覗くことで、また親心が育ってゆくのです。高価なカメラを買った言いわけにもなります。ちなみに運動会の準備を手伝った親には、朝、場所取り優先権が与えられています。親を「場所取り権」という餌で釣って、保育園も準備段階から助かるし、親も納得するのです。どんな理由でもいい。親を少しでも長く保育園にいさせることが親心の耕しになるのです。



 

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騎馬戦

 

 普段は出会わない職種の父親たち(母親も幾人か、一人祖母もいました)が出会って三人で騎馬を作ります。先頭になった親の子どもを一人乗せます。親三人で一騎組みです。子どもは一人ずつ順番に乗るので、都合三回騎馬を組み戦わなければなりません。

 長田先生が言います。「見ててください。先頭に立つ親によって戦い方が違うんです。親心が出るんですねー」

 簡単に説明します。頭にねじり鉢巻をした肉体労働者風ランニングシャツの父親と、一見ひ弱なサラリーマン風の父親、ちょっとニヒルな大学教授風の父親が一緒に騎馬を組んだところを想像してみてください。自分の子どもを乗せるとき、その子の父親が先頭に立ちます。子どもは、まさしく父親の背中に乗っています。肉体派の父親は、敵の騎馬隊を目指して勇猛果敢に突っ込んで行きます。それが性分ですから。相手の子どもが頭につけているかぶりものを取りあうのが目的です。その父親の背後に二人の父親が足となってついています。

 次は、ひ弱な優しそうな父親が自分の子どもを乗せて先頭になります。こんどは、はじめから逃げ回ります。かぶりものを取られなければいいわけです。年長組の父親には三度目四度目の運動会。騎馬戦の闘い方を知っています。ここで面白いのは、肉体派の父親が後ろで支え、げらげら笑いながら一緒に逃げ回る姿です。つまりいろんな奴がいて、いろんな親がいて、いろんな子育てがあって、でもみんな育てているんだよ、という風景がそこにあるのです。「みんなで育てる」などという政府のキャンペーン的な言葉は、この場には似合いません。「みんなが育てている」、それでいいのです。

 肉体派父親も、たまには逃げ回る経験をするといいのです。他人の子どもを乗せて逃げ回るのは、もっといいのです。

 こういう風景を生み出す仕組みは、名君といわれた大名が思いつくタイプのものでしょう。長田先生の頭の上にちょんまげが見えたような気がしました。

 

 誘われて反省会に出席しました。役員の親二〇名くらいと保育士二〇名くらいが向かいあって、給食室で作った夕食を食べながら飲みます。だれも反省などしません。楽しかったこと、嬉しかったこと、感動したことが、親たちから順番に語られます。おもわず涙を流す親がいます。もらい泣きする保育士がいます。泣き笑いです。日本人以外の親もいます。日本の運動会に感激しています。

 園児を子どもとして持つ保育士が一人いました。母親に違いないんだから一言述べよ、ということになりました。

 いきなり、「うちの子、ほんとにかわいいんです」と自慢です。「いつも受け持ちの子たちにそう言っているんで、今日はうちの子を応援するように頼んでおいたんです。一所懸命応援してくれたんです。それが、嬉しかったんです」

 みんな、その話をニコニコして聞いています。

 ほかの親の前で、保育士がこういうことを自然に言える絆。それが人間社会だと思います。システムにだって心が入れば、こうした風景が生まれる。保育士は自分の子どもはほかの保育園に入れる、という慣例を作っている人にこういう風景を見せてやりたい、人間を信じなさい、と言ってあげたい。「子育て」を「親心が育ってゆく過程」と見れば、こうした人間関係の絆、信頼が生まれることこそが、子育ての目的なのです。それをもう一歩進めて「部族の信頼」=「保育の目的」としたところに長田先生の運動会の神髄があるのです。

 システムの中で皆が摩擦をさけることが、人間社会から絆を失わせているのです。

 

 長田先生は成人式のときに、保育園に二〇歳になった卒園児を呼んでお泊まり保育のときのビデオを見せるそうです。みんなで、自分が五歳だったときのことを思い出す。一人では生きられなかったことを思い出す。大人を信頼し、頼りきって生きている自分がいかに幸せそうだったか思い出す。「自立」なんて概念はインチキで、本当はみんなで頼りあって生きていくのが幸せなんだと気づくのです。そうして、家族、家庭を大切にするようになるのです。

 そのあと理事長が駅まで園バスで送るそうです。小さな座席に座った成人たちがとても嬉しそうなのだそうです

 こんなことを日本中の保育園がやってくれたら、と願います。成人式を幼稚園や保育園でやることで、日本が変わると思います。


(「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」国書刊行会より)


運動会の映像が見れます。http://www.kyorei.ed.jp/Hoiku/Event/Undokai.html