幼児の姿・聖書から、そして仏教も・政府によって作られた保育新時代の悩み・就労支援か子育て支援か・一ヶ月遅れの謝恩会

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幼児と聖書、そして仏教も(人間は幼児をどう見るのか)

「幼な児(おさなご)のような心にならねば。天国には入れません」

「幼な児(おさなご)を受け入れることは、神を受け入れることです」

そして、「裕福なものが天国に入るのは、とても難しい」

どれもイエスの言葉だと言われています。

一つ目の言葉を、私は、子どものころに聖書カルタで覚えました。子ども用のカルタになるくらいですから、キリストの教えの中でも、重要なフレーズなのだと思います。

二つ目は、もっと率直に「幼児の存在意義」を表しています。この思いと認識で、人間社会は成り立つはず。そして人類は存続し、進化してきた。三つ目は「貧しきものは幸いなれ」という言葉でも表されます。

聖書に書かれているこうした言葉を2000年以上、人々は生きる指針にしてきた。今や世界中にくさんいる、経済競争への参加を薦め、豊かになることを目標とする種類の経済学者たちは、きっと「聖書は神話に過ぎない」と言うのかもしれない。三歳児神話は神話に過ぎないと、以前誰かが言ったみたいに。

しかし、神話であっても、ことわざであっても、そこに幸せになるための、人間たちが世代を越えて絆をつないで行ける「鍵」が存在するから、多くの人たちが、そうした言葉を生きるよりどころにしてきたのだと思います。

生きる指針が不透明になってきているこういう時代だからこそ、神話にこそ真実があるのではないか、と考え始めてほしい。

仏教の方は、もっと端的に教えの中で「欲を捨てること」を薦めます。そうすることで人間は執着から解放され、宇宙と一体になるというのです。「男はつらいよ」や「釣りバカ日誌」がシリーズになるくらいですから、日本という国は伝統的にこのやり方を愛し、信じてきた。そして、それが親心と重なっていた。親になることは、損得勘定を捨てること。そこに生きがいを感じること。「愛国心」を言う政治家たちは、まずそのことを思い出してほしい。この国の伝統文化や宗教的幸福論にもう一度丁寧に、慎重に耳を傾けてほしい。人類にとって、とても大切な「何か」がそこにあると思うのです。

お経を勉強するよりも子どもと遊ぶ時を大切にした良寛さま。幼児の中に仏性を見たのでしょう。人間が求める、生き生きとした美しい人間の姿が一番に顕れるのが幼児たちの遊ぶ姿なのです。

人は何のために生きるのか、それを考えさせ、幸せでいるために生きる、と教え続けるのが無心に遊んでいる幼児たちの姿なのでしょう。

 

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子どもと一緒にいるとイライラする、と言う親が時々います。(マスコミなどは、そう決めつけるような報道の仕方をします。)イライラしなければいいでしょう、と言うしかない。それが成長で、人間としての修行です。幸福を得るために自分を変えていけばいいのですが、こういう簡単なことを教えてもらっていない。修行が苦手ならば絆をつくればいいのです。自立なんて目指すよりよほど簡単で自然です。子育ては育てる人間たちの信頼と絆を生むためにある。子育てという最善の機会を与えられながら友達や相談相手をつくることをサボっていると、自分に嫌気がさし、イライラしてくる。子どもにイライラしているのではなく、自分にイライラしているのです。

そして、子どもがイライラしている、と親が私に言うのです。親のイライラが移ったのでしょう。まず、親側が落ち着いて、心を鎮めて、「イライラしちゃいけないよ」と言えばいいのです。言うことを聞いてもらえなければ、何か肝心なところが伝わっていないのですから、抱きしめて、可愛がって、甘やかせばいいのです。一緒に遊んでやればいい。話をすればいい。何でもかんでも要求を聞いてやればいいのです。一週間もそれをすれば何かが伝わります。時間がない、などと言っては、とても大切な機会を失うことになる。時間はあるのです。大切なものを伝える方法はいくらでもあります。その方法を考えることが人生の目的かもしれない。誰かが解決してくれると思うと、不平不満になって、それこそイライラの原因になる。社会制度や福祉などという仕組みで解決できることではない。それに頼っていると、いつか仕組みが壊れた時に自浄作用が働かなくなっている。子どもは、親がいれば大丈夫、それだけ思っていればいい。

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私は、キリスト教徒の家に生まれましたが、親鸞上人が好きです。祖母は毎日念仏を唱えていましたから、ご先祖様まで入れれば、真宗の家なのかもしれません。

幼児たちの「信じきって、頼り切って、幸せそう」、その姿に他力本願そのもの、目指すべき「安心」があると思うのです。人間の完成形、理想の姿が幼児、4歳児くらいにあると考えます。だから、常に幼児を眺めていないと人間はしくじるのだと思うのです。「社会で子育て」などと言って保育園を増やそうとする人たちは、なぜか忘れている。「子育て」が「社会」をつくってきたということを。

幼な児(おさなご)をたたえ、幼な児に信じてもらって、人間は自分に納得する。宗教はだいたいそんなことを言ってきたのです。

いま、「幼児を40万人保育園であずかれば、女性が輝く。みんなが活躍できる」と指導的立場にある総理大臣が国会で言うことに、もう少し、真面目に宗教者は異論を唱えないといけない。この国に、信仰を持つ政治家はいないのでしょうか。少しは、いるはずです。こういう時に声を上げないで、いつ発言するのでしょうか。

40万人の3歳未満児を親から引き離そうとする。そして、それをあたかも幸福論と結びつけようとする。こんなことは人類の歴史の中でありえなかったやりかたです。みんなで声を上げる時がきています。

 

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政府によって作られた保育界、新時代の悩み

私立の保育園は、保育士が一人辞めたり病気になったら、最近では、派遣会社に電話するしかない。そういう状況になってきました。すると派遣会社に「フルタイムの人はあまりお薦めできるひとがいないのですが、6時間、午後2時までのひとならいいひとがいます」と言われたりする。「子どもが学校へ行っている間なら」とか、「どうせ時給なのだから、疲れない程度に」とか、理由は様々ですが、短時間ならいいという人の中に「いい保育士」が意外といる。子どもを親から離して6時間以上預かると、預かっている方も幸せにはなれない、という種類の人類の法則が動いているのかもしれません。

6時間でいいから『いい保育士』にお願いするか、フルタイムで『お薦めでない』人にするか、こんな悩みは保育界にとってはまったく新しいものなのです。よく考えれば、様々な要素を含む、難しい決断です。それについて一冊の本とは言いませんが、本の一章、論文が一本が書けるかもしれない。

「いい保育士」の定義は非常に曖昧で、千差万別。その園の保育の仕方によっても、保育室の雰囲気によっても、保育士の組み合わせによっても基準は違ってくる。ある園で「いい保育士」が、他の園では「やりにくい保育士」だったりする時代です。だから最近、保育士たちが職場を転々として、「自分に合った」園を探そうとするのです。自然な動きに見えますが、一方で、選択肢があると迷いが生じ、育つべきものが育たなくなる。保育が伝承である限り、やがてこの「選択肢があること」が保育を異質なものに変えてゆく。

(親子という関係には元々選択肢がなかった。そこで人間社会の基本になる絆が子育てを通して作られた。)

そして、0、1歳児を預けることに躊躇しない親が増えた時に、先進国社会で、保育士は生きる指針を失い、学校教育が崩れてゆく。

(いまほど、保育の仕組みが多様化し、同時に保育(子育て)の定義が揺らぎ、園の方針に違いが出てきてしまったことはない。それが「保育士の当たり外れ」が余計頻繁に起こる原因になり、保育士不足の一因にもなっている。)

 

いい保育士とは

「しっかりしている」「任せられる」「子どもと居て、活き活きしている」「やさしい」「あたたかい」「きびしい」「他の保育士とうまくやれる」、色々ありますが、いい保育士の定義は実は子どもとの相性によっても変わる。

そこを辞めてきた人に聞いたのですが、サービス産業を自認する保育園では、「接客態度」「要領がいい」みたいな項目さえ「いい保育士」の条件として入れているようです。(この場合、「接客態度」の「客」は親たちです。これは非常に問題で、いい保育士というよりいい従業員というべきでしょう。)

6時間のいい保育士がいいのか、8時間のお薦めでない保育士がいいのか考える時、最低でも8時間、最長では国が標準と名付けて目標にしている11時間以上保育園で過ごす子どもたちにとって、担当の保育士が途中で替わる頻度が、どの程度心の安定や発達に影響を及ぼすのか、ということをまず考えてしまいます。

(最近では13時間開所が当たり前になっていますが、十数年前まで保育園は8時間開所だったのです。それを厚労省が長時間保育といい、白書で子どもに良くない、と言っていた。そして、朝、預かった人が夕方親に子どもを返していた。保育所、この場所に預けるというより、この人に預ける、という感覚が親側にもあったのです。)

早番、遅番、正規、パート、今では一日三人に担当される場合も少なくない。保育士の当たり外れだけではなく、交代する人との引き継ぎ、保育士同士のコミュニケーションの問題も重要になっている。引き継ぐ人が毎日替わる状況もある。保育園における「引き継ぎ」は、すでに子どもの一日をつなげない状況になってきている。そういう状況の中で、保育士が「いい保育」をあきらめている。親身になることをあきらめ始めている。そこが一番あぶない。

保育という仕組みを「子どもが育ってゆく環境」と考えれば悩みは尽きません。子育てと同じで、それが保育です。悩みが尽きなくて当たり前、それが親心というもの。だからこそ、「親身さ」だけは保てるような仕組みでなければいけない。

こういう今までありえなかった奇妙な悩みを、園長先生たちに与えないようにするのが、国が施策を考える時に最優先されるべきだと思うのですが、いま政府の進める新制度は、保育の根元に関わる解決しようのない「悩み」をどんどん増やしている。

「仕事」と割り切ることが絶対にできないのが、保育なのです。

大手の株式会社保育園の離職率を見れば、それがわかります。保育士やめるか、良心捨てるか、保育士は追い込まれている。

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就労支援か子育て支援か

病み上がりの子どもを連れてきた親に、もう少し一緒に居てあげてくださいと園長が言う。保育指針に「子どもの最善の利益を優先する。親を指導する」とあるのですから当然のことなのです。加えて、病気の時にこそ親子の関係は普段よりもっと深まる、と園長は思っているのです。自分が楽しようなどとは、絶対に思っていません。

すると、親が役場に文句を言いに行ったのです。そして、役場の保育担当が園長に「保育園は就労支援なのだから、そういうことを言ってもらっては困る」と言うのです。保育担当の役人が、保育所のあり方を法律で規定した保育指針を読んでいないということです。

埼玉県は、園と保護者の信頼関係を築くために「一日保育士体験」を奨励しているのですが、ある市でそれを進めようとした保育園が役場から「保育は就労支援なのだから、こういうことはしないでくれ」と言われた。保育所保育指針という法律に「保育参加」という言葉が入り、一日保育士体験が厚労省の解説DVDに入っていて、県がそれを奨励しているにもかかわらず、「就労支援」という言葉の方が役人の意識の中では勝っている。

保育は子育てであって、就労支援が第一義ではない、という意識を取り戻さないかぎり、いまの混乱は治らない。

 

一ヶ月後の謝恩会

最近、若手園長から聞いたのです。一生懸命やっている男性園長です。

卒園すると、親は本当によく保育園に感謝する、と嬉しそうに言います。学校に入ると、保育園のありがたさがわかる、今までどれほど親身にやってもらったかが見えてくる。なるほど。いい指摘です。(学校と保育園はその趣旨が違う。教育と子育てでは、その深さが違う。もちろん子育ての方がはるかに深く、面白い。)

卒園して、一ヶ月後に謝恩会をするそうです。そろそろ親たちが保育園の価値に気づき、あの頃を懐かしく思い始めている。しかも学校へ行くようになって新たな悩みを抱えている、相談相手がまだいない。

そんな時に、これまで子どもを育ててくれた人たちに再会すれば、きっと一生の相談相手に気づくかもしれません。親同士も、もう一度お互いの存在に気付き合う。お互いに相談し始める。お互いの子どもの小さい頃を知っているということは、親身になれるということ。人類はそういう人間関係に囲まれて何万年もの間、人生を過ごしてきた。子育ては、親身な相談相手がいるかいないかが重要で、相談相手からいい答えが返ってくるかどうか、ではないのです。

一ヶ月後の謝恩会が、保育園の存在を永遠にしてくれます。

 

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国会での討論。

25歳から44歳の働く女性の数の推移は、2010年から2015年にかけてほぼ横ばい。25歳から44歳の働く女性の数は2014年から15年にかけて減っている。女性の就業者数は待機児童の増減とは原因と結果の関係にならない。

この国会での質問に、首相がすぐに答えられないことが一番問題だと思うのです。就労支援、少子化対策と待機児童の問題は政治家や学者のイメージの中で進められた施策で、現実はそのように動いていない。現在の急激な待機児童の増加は、就労していなくても預けられるという規制緩和が主な原因だと思います。11時間保育を標準とし、就労証明なしで土曜日も預けられるようにしたり、三人目は保育料無料としたり。子育てに対する意識の変化が待機児童という現象に現れている。そして、それによる保育士不足が止まらない。

政治家が、保育士が去ってゆく姿から、幼児たちの主張を読み取らなければ、これからますます世の中が荒れてゆく。

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ツイッター(@kazu_matsui)の会話から

「保育園で親子遠足にいくと、お父さんの参加が多くなってきた。クラスの3割以上が参加してくれる。会社も「遠足か!」「行ってこい!」と休みをくれるようになった。」(園長)

「父親の保育参加、鍵ですね。調布の私立保育園で一日保育士体験を始めた一年目、父親の方が多かったと言われました。男たちも気づいている。競争社会よりも保育園の方がよほど自分のいい人間性を体験できる。それを体験しないと幸せになれない。」(私)

「所沢での1日保育士体験でも、だいぶん父親の参加が増えてきたように思います。少なくとも私の子供の通っている園では。他もそうだと期待したい。」(父親)

「嬉しいです。各地で園長たちが、父親の参加が増えたと言います。入園式や卒園式も含め、父親の行事参加が増えたのは10年くらい前からでしょうか。幼児期に実の父親が家庭に居ない率が3割を超えた欧米に比べ、日本の父親たちは何か気づいている。」(私)

(解説)所沢市では、すべて公立幼稚園・保育園で「一日保育者体験」が始まっています。市長さんから保育園に預ける家庭に、こういうのをやります、という手紙が行ったそうです。板橋区などもそうですが、市がバックアップしてくれると現場もとてもやりやすい。

茅野市の一日保育士体験:http://www.city.chino.lg.jp/www/contents/1360914331329/index.html …

板橋区の一日保育士体験:http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_categories/index04004012.html …

福井県:http://www.pref.fukui.jp/doc/gimu/youjikyouiku/youjikyouikukatei_d/fil/023.pdf …

高知県:http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/311601/files/2014033100475/2014033100475_www_pref_kochi_lg_jp_uploaded_attachment_113264.pdf …

(ツイッターから)

ブログhttp://kazu-matsui.jp/diary2/ に『保育園・幼稚園における「一日保育者体験」について』を書きました。やはりここが分岐点になる。保育は就労支援なのか子育て支援なのか。サービスなのか一緒に子育てなのか。子ども優先、と保育指針には書いてある。そこが保育の質そのもの。

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「幼子が来るのを止めてはいけません。天国はこのようなものたちのためにある」