関わること/教えること

一昨日の「親心をはぐくむ会」で、園長先生たちから教わったこと。もう一つ。

保育とは、子どもに関わること、という話になった時、関わるとはどういう意味か、なでしこ保育園の門倉先生が説明しようとして、なかなかうまくできず、「とにかく子どもと関わること。関わることなんだよ」(門倉先生は女性です)と歯がゆそうに繰り返したのです。
すると、朝霞の大島園長先生が言いました。

「1歳児、2歳児で噛みつく子がいます。そういう時、私は、保育士を一人決めて、あなたは今日一日この子に関わりなさい、と言います。朝から夜まで10時間、その子につきっきりにさせるのです。他の子のことは考えなくていい、その子だけに集中させるのです。子どもが嫌がっても、させます。それを一週間、時には二週間、一人の保育士が張り付くのです。すると、その子が噛みつかなくなるのです」
「そうなんだよ。それが関わりなんだ!」びっくりするほど大きな声で言った門倉先生の目が燃えています。
大島先生と門倉先生の間に、同志の火花が散るのが見えました。
「四歳、五歳じゃ、遅いんだ。一歳,二歳でそれをやんなきゃもうだめなんだよ。昔はこんなことはなかったんだ」
1歳児は、保育士一人で4人の子どもを見ます。一人が「関わったら」負担がまわりに確実に及びます。それでも、その時、その時期に関わらないと、その子は不幸になる。その時の「関わり」がその子の一生に影響を及ぼす。その子の幸せを遠くまで直感的に見透す門倉先生と大島先生は、だから保育士に「関わらせる」。
保育界に、もう少し余裕があったら、と思います。こうした日本の将来を見透す同志たちが、まだ生きているうちに、社会が気づいてくれたら、と思います。
シャクティのドキュメンタリーの中ほどに、貧困の中で暮らす村の女の子たちがシャクティセンターに向かって行進するシーンがあります。胸を張って歩く子どもたちの勇姿、はじけるような笑顔、そして、その子たちを教えるシャクティの少女たちの真剣な顔を見ていると、しっかり「関わって」もらった子たちなのがわかるのです。こんな子たちに「教えること」は、それ自体がすでに「関わること」。
信じあう幸せです。
教えることが、教える側の幸せになっている。だから、教えられる側がいつか幸せな教える人に育ってゆく。そんな当たり前の風景が、シャクティの世界にあって、私に考える基準を教えてくれます。先進国社会でどんどん希薄になってゆく、幼児との関わりが、いかに自然で大切なものだったか、シャクティの風景を思い出すと、より一層はっきりするのです。

「はぐくむ会」が終わって、まだ若い花園第二保育園の高木園長に、
「凄いものを見ましたね、今日は」と言うと、「門倉先生があそこまではじけるのを見たのは、久しぶりです」と高木先生も、ちょっと神妙な顔で言います。
「あの瞬間をフュージョンと呼ぶんでしょうね。あの風景は見たものでないとわからないな。凄い気が、二人から出ていました。あの二人をセットにして、舞台に乗せる機会をつくらないと」私は、考え始めます。一日保育士体験、しっかり布教を続けなければなりません。
日本という国が、欧米社会を追って崩れてゆく、否、人間社会が幼児を見放し壊れてゆくことへの地球の叫びを聴いた気がした不思議な体験でした。
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学校で教える教師たちは、卒業して行った子どもたちに、感謝される日が来るかもしれない。親たちに感謝の宴を催してもらえることさえある。
しかし、一歳児に一週間関わった保育士に、誰が感謝するのか。そのこと覚えている卒園児はいない。親たちは、その関わりのもつ意味にさえ気づかないでしょう。
大島先生は、私たちは天国に貯金をしているんです、と言いました。