共励保育園の長田安次先生が大学で教え始めました・様々な現実・日本の父親

共励保育園の長田安司先生が大学で教え始めました

長田先生を講師に迎えた和光大学は立派だと思います。

実際に子どもたちにどう接するかという保育の実践を除けば現場からの声をほどんど聴こうとしない、保育という仕組みを肯定するばかりで、それが親たちの意識をどう変えていったか、サービス産業化することによって子どもたちの人生に何が起こるか、誰も教えようとしないのがこれまでの保育科の授業でした。資格を与えて卒業させれば自分たちのビジネスは成り立つ、と考えている養成校が本当に多いのです。

11時間保育を「標準」と名付けた、今の政府の保育施策を肯定し、子供の最善の利益を優先する、という保育指針を否定するような考え方を教授たちに吹き込まれた学生たちに、保育界の現実と、乳幼児期の発達を支えることの大切さ、親が育つことの意味を15回の講義で「「便利な」保育園が奪う本当はもっと大切なもの」の著者長田先生が説明したのですから、効果はてき面でした。以下の学生たちの授業に対する感想文を読むと、保育者養成校で「大人の都合にあった保育」を学生たちに教えることの危うささえ感じます。現場の葛藤や矛盾を養成校で教えていない。だから、現場に出ても、現実とのギャップに気づいて簡単に辞めてしまう。

幼児たちの信じきった視線にさらされた時に、それに応えられるような考え方、生き方の指針を保育科で学生に教えていないのです。保育はただの仕事ではない。「子育て」だということを資格者に十分に教えていない。

いい保育士は「子どもたちの幸せを願う保育士」と、ある園長先生が私に言いました。そして、「保育士は、子どもの幸せは親子関係にある、と知っている」とつけ加えたのです。

この二点を考える原点とすれば、いまの急速な「保育崩壊」の原因が見えてくるはずです。

 

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様々な現実

全国に幼稚園が一つもない自治体が2割あって、そこでは当たり前のように昔からほとんどすべての子が保育園に通っていました。もちろん012歳を預ける親はごく少数でしたが、幼稚園という選択肢はなかった。保育園に行かせるか、小学校まで自分で育てるか。そして実際には仕組みとして、保育園に子どもを通わせるために「就労」が義務付けられていた時代が長く間続いていたのですから、いわば偽就労証明書を書くことが、役場で儀式化していたのです。もちろん4時くらいになれば保育園は空になる。そんな時代が長く続いていたのです。親たちの子育てに関する常識、出来るだけ子どもと一緒に居たい、という本能的な欲求が、保育園という仕組みしか選択肢がなくても、数年前まで当たり前のように存在していたのです。

地方、地域によって保育事情、保育に対する親の意識は様々でした。

 

保育園と幼稚園の違いさえ親にとっては不確かな現実がまだまだ散らばっている状況下で、いきなり、11時間保育を「標準」と名付けたりしたらどうなるか、「待機児童をなくせ、なくせ」というニュースは地方のテレビにも同じように流れてくるのです。012歳を預けることに躊躇しない親たちが一気に増えだした。その要求に役場が追いつかない。政府はそんなことさえ考えていない。11時間親と引き離されることを簡単に「標準」とされた乳幼児の人権はどうなるのか、などもう誰も考えていない。

先日、幼稚園が一つだけある自治体の課長さんが笑いながら言っていました。

「1歳になったのに、保育園の入園の通知が役場から来ないんですけど」という問い合わせが母親からあった、というのです。「保育園は義務教育ではないので、こちらから通知は行かないんですよ、とお答えました」。

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日本の父親

日本の父親が子育てに関わらない、みたいなことを言われることが多いのですが、先進国の中では「実の父親」がこれだけ奇跡的にまだ家庭に存在する(給料を入れたり、ということが主であっても)国はないのです。欧米ではすでに半数以上の家庭に「実の父親」は存在しない。物理的にも経済的にも。私はこの「実の父親」の「実の」という言葉はとても大切だと思っています。これを崩すと「遺伝子レベル」の矛盾と歪みが生じて、その他の遺伝子レベルの常識、たとえば「親の面倒を見る」とか、弱者に対する優しさとか、次の世代を育てる、といった行いが一斉に、連鎖的に崩れ始める。そして、性の問題が基準を失いモラル・秩序が社会から失われてゆく。

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