0・1・2歳児の存在価値

 経済論の中で人間の存在価値が決められてゆく。だから、0・1・2歳児は預かれば、親を経済活動に専念させることが出来る、と考えられてしまう。以前、経済財政諮問会議の座長だった八代教授が「0歳児は寝たきり」と発言したのを思い出す。

 一見生産性を見いだせない存在が、実は人間社会にとって重要な役割りを果たしていることがある。0歳児は初めて笑うことによって、それを見ていた人間たちを幸せにする。自分がいい人間だということに気づかせる。そして、それを見ていた人間たちの心を一つにする。
 先日、児童生徒60人の小学校の運動会に招かれた。一学年10人しかいないから、学校だけでは運動会が成り立たない。村の運動会と一緒にして、地区別対抗の協議をやっていた。大人たちも子どもたちの前ではそこそこ真剣にやらざるを得ない。大人を応援する子どもの姿tに、自然を感じた。その小学校には知的障害を持っている子どもが二人居て、その子たちが入学してから、子どもたちや先生の心がずいぶん一つになった、と以前校長先生が話してくれた。障害を持っている子どもが、その子の役割りを果たせている。
 一学年10人しかいないと、避けるわけには行かない。飽きてしまうことも出来ない。運命共同体、すべての時間と体験をわかちあうしか無い。
 「わかちあうことで人間は幸せになる」シスター・チャンドラの言葉を思い出す瞬間。
 
 生産性が無いようにみえる乳幼児たちを、介護保険そっくりの制度にあてはめようとしているのが、今度の子ども・子育て新システム。弱者、という点では老人と似ているかもしれない。しかし、幼児たちは学校へ行く。このシステムが導入されたら、学校が成り立たない。
 今の時代、3歳4歳5歳の保育は学校教育に準ずるものと定義するくらい質の向上を目指さなければいけないのに、母親を労働力と見なし、乳幼児を社会のお荷物扱いするような法律が来年早々の国会に提出される。

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