シャクティの風景から

 今年に入って、シャムラ、カレイスワリ、ロージーの三人が結婚しました。ロージーの婚約式に出たのが去年の9月でした。シャムラは来日したとき、最後のお別れパーティーで「来年結婚しようかと思う」と私を連れ出して言いました。誰が決まっているの?と聴くと、伯父さんに頼めばすぐに決めてくれるから、と笑っていました。それが、あっという間に現実になりました。15歳でシャクティセンターに来た時から目立っていた娘でした。私の作ったドキュメンタリーの映像にも登場します。15歳まで苦労した娘だからこそ、結婚を急いだのでしょうかか。

 この三ヶ月の間にシャクティセンターでは様々なことがありました。その場に居なかった私には、支えになることが出来なかったことを心に刻み、思い、祈り続けるしかありません。
 貧しさの中で、親や親戚たちに守られているから美しい大地の箱入り娘たちが、外の空気に触れた時に起こる事件は、純粋だから苦しく激しい。
 美しさを放棄しないと強くなれないのだろうか。
 そんなことさえ感じさせます。
 日本で私が直面している現実が、シャクティの風景と重なります。
 親による虐待が主な原因で児童養護施設がいっぱいになり、児童相談所は手一杯、危ないケースを、親子を引き離す目的で黙って保育所に措置してきます。保育園が子育てをしなければ子どもを守れない状況が増えているのです。そこで働く保育士たちが、良心捨てるか保育士辞めるか、という自らの人間性にかかわる選択を迫られています。
 子育ての社会化は人間たちから人間性を奪う、と私が「日本の論点」2004年版に書いてから5年になろうとしています。
 待機児童なんていない。待機させられている児童がいるだけ。幼児たちが親を育て、人間たちから良い人間性を引き出し、人間たちの心を一つにする、という天命を果たせなくなって来ているのです。
 10年前に書いたものに最近の数字を足して書き直した文章ですが、近著の「なぜ私たちは0才児を授かるのか」(国書刊行会)にも載せた文章です。シャクティの風景と重なりあって来ます。

 田園地帯に位置するその町には保育園が九つあって、幼稚園はありませんでした。子どもたちはみな保育園に行きます。

 田舎へ行くと、時々こういう街があります。それがその街の保育の歴史です。子育ての習慣が、地域の事情、保育の普及の仕方で左右されるのです。こういう街で家庭崩壊は急速に進みます。子育てという地域の絆の中心になっていたものが、そこに保育園がある、というだけで簡単に他人の手に渡されます。新入園児の二割から三割が父親のいない家庭からきます。卒園するときにはそれが三割から四割になるのです。待機児童の問題が争点になる都会では見えにくいのですが、すでに保育の問題は、経済の問題でも人権の問題でもありません。あきらかに、子どもを見つめる視点、子育てに対する意識が変わってきているのです。夫婦でする子育てが崩れているのです。

 外では雪が降っていました。田んぼの中の保育所に保育士が11〇〇人くらい集まっていました。町の保育課長さんもいらしていたので、少子化対策は、経済論がその裏にあります、とても危険です、という話をしました。

 保育士さんが座っている席の斜め前、講演をする壇上から見ると斜め右に来賓席のようにイスを並べて、保育課長さんは座っていたのですが、皆そちらを見ないようにして、一所懸命うなずいてくれます。なかなか面白い緊張感でした。

 税収がどうであれ、政府の将来の予算組みがどうであれ、年金制度が崩壊しようが、福祉の予算が減ろうが、いま、日本の女性が欧米なみに仕事を持ち子育てから離れることによって社会から失われてゆく価値観やものさしの方が、この国にとってはるかに重要で根本的な問題だと、私は思います。このまま進めば、欧米と同じように家庭内暴力が増え、離婚が増え、母子家庭が増え、子育てをするために母親の就労は不可欠になるでしょう。そうなってしまってから、男女雇用機会均等法や女性の社会進出という言葉が、アダム・スミスが『国富論』の中で言っていた資本主義のトリックだったと気づいても、もう遅い。欧米が進め日本もその後を追った「平等」はあくまで「機会の平等」であって、格差を正当化するための強者の免罪符でしかない。ある程度の無理は承知でも、やはり経済論に勝てるのは幸福論しかないと、この国は主張しなければいけない。GDPの1・8%を就学前の子どもに使っているフランスは、たしかに予算配分的には魅力ですが、毎月10人以上の女性が配偶者または同居人に殺される、といいます。出生率が上がったといっても、それは子育て代行を福祉でやることと移民の多さが原因です。未婚の母から生まれる子どもは50%を越えています。経済が悪くなって税収が減ったらどうするのでしょう。子どもは突然減らない。父親も帰ってはこないのです。しかし、〇歳から五歳までの子育てに使われる予算がGDPの0・6%という日本は、あまりにもお粗末。親心が奇跡的に残っているとはいえ、保育者の人間性に頼りすぎ。限界にきています。いまの倍、一・二%を確保し保育を充実させ、あとはしっかり親心で補うくらいが理想でしょう。

 まだ、日本では〇歳児を保育園に預ける親は一割に満たない。多くの母親が、幼児との体験を就労による充実感より優先してくれている。ありがたい、と思います。経済論だけでは動かない日本人の個性と歴史を感じます。幸福論にもとづいた秩序やモラルは、一度失われると取り戻すのがとてもむつかしい。それを欧米社会に見てしまった私には、現場で働く保育者の良心が最後の頼みの綱です。

 田んぼの中の保育所で、1〇〇人ほどの保育士さんと保育課長。雪もやみ、月明かりに照らされた、いい会合でした。

 講演のあとで保育課長さんが、「でも、議員や町長が……」と言うので、「そういう人たちは上手に無視して、正しいと思ったことをやってみてください。保育士が、本気で親子の幸せを願うことができるように、楯になってくれるだけでいいのです」とお願いしました。その会話を、先生たちが食い入るような目で見つめています。

 子どもを風呂にも入れない、服も着替えさせない、おしっこのにおいがプンプンしているわが子を平気で保育園に預け、昼働き、夜遊んでいる母親を毎日見ていて、子どもが不憫です、といってポロポロ涙を流す三年目の若い保育士が、「どうしたらいいでしょう」と質問しました。この保育士は毎日子どもに着替えをさせ、体を洗ってやり、ご飯を食べさせているのです。

 私は泣きたくもあり、嬉しくもあり、「これから先、なるべく子どもたちがそういう目にあわないように、毎日、毎日、明日を考え、子育て放棄をする親が増えないように、親に語りかけながら、土壌を耕して直してゆくしかないんです」と言いました。

 「子育てをなるべく親に返すような保育。親の関心を引き出すような保育。親に親らしさを取り戻させる保育。親子を出会わせればなんとかなる。少なくとも、引き離すようなことだけはやめましょう」

 幼稚園の預かり保育も、まだかなりの数の幼稚園が「こんなことをやってはいけない。幼稚園の良心が許さない」と、文科省の予算攻撃と、一部の親たちの「預かり保育をしないならほかの園にします」という競争原理の重圧に耐えて反対しているのです。少子化の折、土俵を割り白旗を掲げる幼稚園が増えてきました。生き残りのための保育のサービス産業化が、子どもの幸せを願う保育の心を、親の顔色を見てサービスする、という方向へ変え始めているのです。

 保育園が厚労省に負けてエンゼルプランを積極的に推進し、幼稚園が少子化による園児の定員割れを恐れ、積極的に預かり保育をはじめたら、いずれ、若い保育者が涙を流すことをやめ、生きるために親身になることを避け、仕事として保育をやるしかない状況になるのではないかと思います。そうなったら打つ手はありません。刑務所をつくる予算で福祉が崩壊するのを待つばかりです。 

 家庭崩壊の周辺で起こる一つひとつのケースに心を込めて対応するには、家庭の事情にまで入り込んで関わらないかぎりできるものではありません。そこまで踏み込んでくださる園長先生もいらっしゃいます。その園長先生がいたために夫の暴力が止まったり、離婚しなかったり、人々の人生が変わるのを何度も見ました。勇気のいることです。いま、子育て放棄や家庭内暴力、幼児虐待の増加を保育や学童の現場で目の当たりにして、強いて答えがあるとすれば、もうこの若い保育者の涙しかないのでしょう。国の政策が経済競争の論理から離れるまで、保育者が良心を持ちつづける、ということでしょう。私はそう答えました。

 私たちにできることは、遠くを見つめながら、毎日の保育の中で、一人ひとりの親に、少しずつ子育てを返してゆく。親子を引き離さないように、悩みを聞いてあげる。手を貸してあげる。それが、二〇年後、三〇年後の親子関係に実るかもしれません。人類を無益な闘いから救う道かもしれません。そんな話をしながら、私は政治家とか役人、その背後にいる学者たちにひどく腹を立てていました。

 「保育園にいる間はなんとか、みんなでできるかぎりのことをして、精一杯の愛情をそそぎます。でも、学校へ行くようになったらと思うと悲しくなります」と園長先生がおっしゃいます。ああ、こんな発言がまだ出る国です、日本は。

 「学校へ行くようになっても、月に一度は訪ねてください、毎週でもいいんです」と私が言うと、園長先生の顔がパッと明るくなりました。

 「そうですね、そうだ、そうだ、そうすればいいんだ」とおっしゃるのです。「その子の家は、ちょうど私が朝晩犬の散歩をする途中にあるんです」

 私は、そのとき、システムや立場に縛られていた人間が、一人の人間に還ったときの嬉しそうな顔を見ました。子育ては仕事ではないのです。学問でもないのです。祈りの領域にあるのです。こんな園長先生や保育者がまだいてくれる日本の素晴らしさ。プロの保育者なんていらない。職業の枠を飛び越えて、子どもを心配して下さる本当の保育者が日本にはまだまだいっぱいいるのです。だからこそ、なんとかしたい。

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