学童の支援員が投稿した、「親との会話」

 

ツイッター上に、学童の支援員が投稿した、「親との会話」がありました。

 

支援員:「お宅のお子さんがお友達を殴って泣かせてしまって…」

親:「殴らないように指導するのがそちらの役目ですよね?」(謝罪なし)

とか

支援員:「宿題を家ですると言って聞かなくて…」

親:「何で学童でさせてくれないんですか!習慣づけるのは学童の仕事でしょ!」

とか普通にあるから怖いよね。

 

 

この会話から受ける「印象」が、私を怯えさせる。

学校という新たな役割分担が普及した国で、こうした会話が日常になっている。考えれば考えるほど、修復の困難な、人類の存在を脅かす、末期的な現象がそこに現れている。

戦後、敗戦の苦しみや悲しみの中で、貧しくても人々の心がずっと豊かで、小さな命にも敬意が払われ、そこそこ助け合い、それが幸せだと感じ、苦労はあったけれど、同時に「子どもを育てること」が喜びや希望、生きる動機と直結していた時代、「Always 三丁目の夕日」に描かれたあの時代には考えられなかった会話だと思うのです。

親たちが「常識」や「作法」を知っていた。

私が幼稚園、小学校と過ごした、あの時代には、考えられなかった会話がネット上に溢れ、それに慣れ、「子育て」の価値が下がっていく。

「保育園落ちた、日本死ね!」も、そうでした。

「資格」とか「専門家」という言葉が生んだ役割分担の中で、「教育」と「子育て」の混同が始まって、人々は、こうもたやすく無感覚になっていく。国が三歳未満児の十一時間保育を奨励することによって、ここ五、六年、それが、一気に進められた。

「ここ五、六年」という言葉を、最近、保育関係者から頻繁に聞きます。

乳幼児と過ごす一瞬、一瞬の「印象」が人生から剥ぎ取られ、「絆」が急速に弱くなっている。すると、子育てが苦痛になり、より一層長時間預ける人の割合いが増えていく。

それ自体が生きる喜びとなる「親身な絆」、「利他のつながり」をつくるためにあった「子育て」が、「仕組み」によって、分断され、継続が難しくなっているのです。現在、世界中で起こっている「分断」の根っこに、この、親子の分断、男女の分断がある気がしてなりません。

 

「持続性(サステイナビリティ)」という言葉がよく使われます。

「子育て」が媒介する「親心」の継続性は、「人間性」の伝承と言い換えてもいいのですが、社会を整えるために不可欠な要素だった。その「伝承の流れ」を、政府や経済学者が母子分離に基づく施策で壊しておいて、(マスコミもそれをここまで許しておいて)いったい、いまさら何を言ってるんだ、という感じがするのです。家庭における人間性の伝承、特に乳幼児が親たちの遺伝子をオンにし、絆を育てるという働きを、短絡的な経済論で希薄にしておいて、SDGsなどと言っても、机上の空論、夢のまた夢のように思えてならない。

これでは、欲の資本主義に太刀打ちできない。

大人たちの権利や都合の陰で、幼児たちの安心が後回しにされ、人類全体から、利他の心、相互的「持続性(サステイナビリティ)」が著しく欠けてきているのです。この流れを変えない限り、人類は「自ら選択し、弱者を顧みない、争いの時代に入っていく。もう、その入り口に立っている。

流れを変えるためには、幼児たちの願いに耳を傾けるしかない、と思い、「ママがいい!」を書いたのです。先進国の中で、それができるとしたら、この国しかない、と自分に言い聞かせながら。

冒頭の会話に対し、人々がどういう「印象」を持つか、それが、子どもたちが生きていく「環境」をつくります。

しかし、いま、「愛されていると思う子どもに育ってほしい」という願いに照らした時に、聞き流してはいけない会話に疑問を抱かない人、回避できないはずの責任を、「そちらの役目」と、「仕組み」に任せることで回避しようとする人が増えている。

給食が出るというだけで、仕事は休みなのに八時間子どもを預ける人が増えているという。その人たちが、一緒に子育てをしている人たちを、「そちら」と呼び始めている。

いつどのようにしてこの感覚は、生まれたのか。致命的な「分断」は、どのように進んだのか。

 

イエスは弟子たちに、言いました。

「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

 

赤ん坊を抱くということは、流されないための錘(おもり)を抱くようなもの。幸せになるお守り札を握りしめるようなもの。

「そちらの役目でしょ」「学童の仕事でしょ」と、親たちが、躊躇せずに言うことで、人生の錘(おもり)が外れ、生きるためのバランスが失われていく。子どもたちの安心感が失われ、老人の安心感も失われていく。

元厚労大臣が、「子育ては、専門家に任せておけばいいのよ」と言った子育てにおける「責任回避の流れ」、雇用労働施策で「子育て」を考える政府の愚策によって、大切なものが社会から奪われようとしています。

「出産退職年20万人、経済損失は1.2兆円:民間研究所試算」とエビデンスを挙げて試算した専門家たち。母親が、生まれたばかりの子どもと一緒にいたいと思う気持ち、子どもたちの「ママがいい!」という願いを、「損失」と計算する。

この試算は、まさに学問がたどり着いた「愚かさ」の金字塔です。

それを真実のように報道してしまうマスコミも、また問題なのです。

経済学者が言う「貨幣によって得られる選択肢と、自由」は、欲の資本主義が仕掛けた「罠」のようなもの。

 

 

繰り返すしかありません。

自分の子どもの寝顔を眺めているだけで、人間は、しあわせになれる。

子どもを可愛がってさえいれば、いい人生が送れる。

そういう簡単なことに気づけば、いいのです。

義務教育が存在する限り、子どもたちにとって大切なのは、それに早く気づく人の割り合いなんですね。

詩人の声に、耳を傾ける時なのでしょう。衆議院の「税と社会保障一体化特別委員会」で公述人を頼まれた時に、議員たちに、この詩を読みました。

 

 

「愛し続けていること」 詩/小野省子

いつかあなたも

母親に言えないことを

考えたり、したりするでしょう

 

その時は思い出してください

あなたの母親も

子どもには言えないことを

ずいぶんしました

 

作ったばかりの離乳食をひっくり返されて

何もわからないあなたの細い腕を

思わず叩いたこともありました

 

あなたは驚いた目で私をみつめ

小さな手を

不安そうにもぞもぞさせていました

 

夜中、泣きやまないあなたを

布団の上にほったらかして

ため息をつきながら

ながめていたこともありました

 

あなたはぬくもりを求め

いつまでも涙を流していました

 

私は母親として 自分をはずかしいと思いました

だけど、苦しみにつぶされることはなかった

それは、小さなあなたが

私を愛し続けてくれたからです

 

だからもしいつか

あなたが母親に言えないことを

考えたり、したりして

つらい思いをすることがあったら

思い出してください

 

あなたに愛され続けて救われた私が

いつまでもあなたを

愛し続けていることを