#11 保育と教育は違う。「子育て」と「教育」はもっと違う。

ーーーーーーーーー(前回からの続き)ーーーーーーーー

#11

教育という視点:

講演依頼を受けた保育士会から質問が来ました。講演の中で私の意見を聞きたいというのです。

「保育指針改定で、教育という視点がより重要視されていますが、保育士が気をつけるポイントはなんでしょうか」

うーん、またか、という感じです。

小一プロブレムや学級崩壊の問題に加えて、大学を卒業後、就職した若者たちの半数が会社に入って三年も続かない、そんな話を耳にします。確かに中学生くらいでも、特に男の子が幼い。私も時々中学校で全校生徒に講演するのでそれを肌で感じます。いい子たちに見えるのですが、何かが欠けている。いじめの問題も陰湿化している。

そして、3割近くの男性が一生に一度も結婚しない。実はこれが少子化の一番の原因でしょう。男たちが、どう生きていいかわからなくなってきているのです。前に進む意欲や忍耐力、責任を負うことに幸せを感じる力、誰かの幸せを願うという幼児と接していれば自然に湧き上がってくる「生きる力」が欠けてきている。引きこもりや暴力、犯罪の原因の多くがそこにあるのではないか、と想像します。だから、いま中学生たちを繰り返し幼児の集団と出会わさなければいけません。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=260

でも、学者たちは幼児たちの存在が人間社会にモラル・秩序を生み出し、生きる動機になっていたことにさえ気づいていない。

大学教育が駄目なんだ、それ以前の高校教育が悪い、中学生活が鍵を握っている、小学校が混乱している、と順番にいろいろ言われ、仕組みの中での責任転嫁を重ね、いよいよ「保育の問題だ」となったのでしょう。

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「保育」をさっさと飛び越して「親子の問題」と言えばいいのです。しかし、学者やマスコミはその現実を指摘するのに躊躇する。

「親の問題」ということはすなわち、保育をサービス産業化しようとして保育界の意識崩壊、それに続く家庭崩壊を進めている政府が悪い、それを政府に勧めた経済学者や保育の専門家と呼ばれる学者が悪い、子どもたちの気持ちを考えずに親の都合、大人の都合を優先して報道するマスコミの姿勢の問題、ということに行き着きそうで、みな踏み込まないのです。総理大臣が3歳未満児をさらに40万人親から引き離せ、そうすれば女性が輝くと言い、すべての政党が「待機児童をなくせ」と親子を不自然に引き離す施策を公約に掲げているのです。いまさら「親の問題だ」「親子関係の問題だ」「愛着障害だ」とは言いにくい。「女性が輝く」という錦の御旗の陰に隠れようとして、「輝く」という言葉の意味、実態さえ考えようとしない。

 

NHKのクローズアップ現代では言っていました。(「クローズアップ現代(NHK)~「愛着障害」と子供たち~(少年犯罪・加害者の心に何が)」)

当時も書きましたが、子ども・子育て支援新制度が始まる少し前の放送でした。

発育過程で、家庭で主に親との愛着関係が作れなかった子どもたちが増えていて、それが社会問題となりつつある。殺人事件を起こした少女の裁判で、幼少期の愛着関係の不足により「愛着障害」が減刑の理由として認められたという内容でした。(詳しくはNHKのアーカイブ:http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3613/1.htmlをお読みください。)

番組からの抜粋です。

 関東医療少年院 教育部門 斎藤幸彦法務教官「職員にベタベタと甘えてくる。逆にささいなことで牙をむいてきます。何が不満なのか分からないんですけども、すごいエネルギーで爆発してくる子がいます。なかなか予測ができない中で教育していかなければいけないというのが、非常に難しいと思っています。」(中略)

 愛着障害特有の難しさに加え、さまざまな事情が複雑に絡むので、更生といっても従来の対処法だけでは困難な面があるといいます。(中略)

 愛着形成の期間、何歳までが大事?

 高岡健さん(岐阜大学医学部准教授):これはあくまで目安という意味ですけれども、大体3歳ぐらいを過ぎますと、自然にその港から外に行く時間が長くなってきます。(中略) 

 養護施設の職員「養護施設に来る子供たちっていうのはマイナスからの出会いなので、赤ちゃんを抱いているような感覚でずっと接してきました。ここ11年間、それは大変でした。」

放送のあと、ある行政の方から電話がありました。「この番組を見て、政府は4月から始める『子ども・子育て支援新制度』をすぐにストップしてもいいくらいだと思います。幼児期の大切さをまるでわかっていない」。(あれから3年。小一プロブレムはますます広がり、社会全体が荒れてきている。)

国連の子どもの権利条約やユネスコの子ども白書でも、親子関係、特定の人と乳幼児期に愛着関係が育つことの重要性については言っています。解釈や説明の仕方はいろいろですが、「三つ子の魂百まで」という諺は、様々な国や宗教、文化圏で「常識」「知恵」として言われ続けてきました。学校教育や学問という最近のものが現れるずっと前から、人間が生きていくために必要なこと大切なこととして理解されてきました。

「三歳児神話は神話に過ぎない」と言った学者がいました。発言の経緯からすれば、三歳未満児を保育園に預けても問題ないと言いたかったのかもしれません。でも、学者の言葉をその背景にある文脈を無視して喧伝されると、「そうなんだ」「問題ないんだ」「じゃあ預けよう」という人たちが確かに増えてきました。役場の窓口の人や、現場の保育士たちに聴くと、楽だからと、オムツもとってくれるし、と乳児を預けることにまったく躊躇しない親も現れているのです。100歩譲って、そうした動きに対応するだけの保育の量的質的充実が同時に図られていたのならまだしも、量的充実を進めるあまり幼児たちの日常の質はますます悪くなっています。保育士不足や親対応で右往左往する園長主任たち、毎日公園に集まってくる園庭もない保育園の子どもたちの表情、保育士の表情を見れば、全部とはいいませんが、だいたいわかります。

「三歳児神話は神話に過ぎない」という学者の発言は、神社の前で「これは神社に過ぎない」と言っているようなもの。文化人類学的に考えれば、神話や伝説の中にこそ過去の人類が積み重ねてきた生きるための真理はある。法華経や聖書は言うに及ばず、「長くつ下のピッピ」「ムーミン谷」「ドラゴンボール」や「アンパンマン」も含めて、一見現実を離れて見える話の中に、学ぶべきこと、自ら考えるヒントがたくさんあるのです。

しかも、厚労省が言ったのは、三歳児神話には「少なくとも、合理的根拠は認められない」ということであって間違っていると言ったわけではない。

(一昨年、母犬から子犬を早く引き離すと「噛み付き癖」がつくから、子犬は一定期間母犬から離さないように、という法律が国会を通りました。人間だって同じこと。哺乳類なら当たり前。子犬の8週間は、人間の2歳くらいかもしれません。)

それでもなぜ、こういうおかしな発言がまかり通ってしまうのか。神話に過ぎないと学者がいうことによって、親が幼児から毎日繰り返し(政府が「標準」と名付けた)11時間も離れるという、進化の優先順位を書き換えるような一線を飛び越えられると思ったからでしょう。そうしたいという意識を持つ親が、過半数とは言わないまでも常識を脅かすくらい増えてきたからでしょう。マスコミと民主主義と選挙、そして市場原理が、幼児たちの願いを置き去りにして、人気取り(金儲け)に動いたからでしょうか。

しかし、やがて幼児たちの寝顔や笑顔が、「教育」があおる「欲」を打ち負かす日が必ずくる。「子どもの最善の利益を優先する」という保育所保育指針を盾に、保育者たちが本気で立ち上がれば、それは意外とすぐにくると思います。幼児と人間の接点を増やすことによって、社会全体に「感性」と「想像力」が戻って来る。

保育士たち(または人類)の意思表示でもある「保育士不足」によって、学者や政治家、マスコミも実はかなり追い込まれています。無理なものは無理、できないことはできない、と現場の保育者たちが子どもたちのために言ってほしい。

学校教育が成り立たなくなっている、だから、もっと早く保育園で「教育」すればいいという短絡さには本当に腹が立ちます。保育と教育は違う。「子育て」と「教育」はもっと違う。

それなら、さっさと非正規の保育士の時給を教員並み(時給2700円)にしろ、と言いたいくらいですが、それで学校教育が成り立つようになるとも思えません。保育の質が突然回復するとも思えません。心情的には、非正規の時給が教員の三分の一という待遇で二十年も黙ってやってきた保育士たちに、もうこれ以上無理な要求、変な要求、新人保育士が保育を勘違いするような指導はするな、とは言いたい。でも、待遇改善とは別の次元で意識の変革は進んでいる。

幼児たちの存在意義が揺らいでいる。

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー