#10「幼児を眺めることによって生まれる信頼関係」は、福祉や義務教育という最近の仕組みでは補えないもの。子育ての市場原理化。

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#10「幼児を眺めることによって生まれる信頼関係」は、福祉や義務教育という最近の仕組みでは補えないものです。

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政府が示した「新しい経済政策パッケージ」の一部でもある、保育の質より量を優先する経済学者+社会学者主導(または経済界+政治家主導?)の福祉施策や学校教育に関わる施策を読んでいると、経済競争を促し労働力を確保するための短絡的な方向性ばかりが目について、国の施策の中心となるべき人間性に根ざした幸福論がまったく見えてこない

長期的に見れば、こんなやり方で経済がはたして良くなるのか、少子化に歯止めがかかるのかさえ疑わしい。

経済政策だから、と言えばそれまでなのですが、人間の幸福感に「子育て」が直結している、そこで生まれる幸福感が「経済」に直結しているという意識がほとんどないのです。現在の「子育て」に関わる「子ども・子育て支援新制度」は雇用労働施策の一部として進められていて、子どもを優先した施策ではなくなっている。それにもっと多くの人たち、マスコミや親たちが気づいてほしい。この経済政策に国の「子育てに関わる仕組み」保育とか学校という仕組みがどれほど追い詰められているか気づいてほしい。

なぜ、こういうことになってしまうのか。

社会全体に想像力とそれを支える「感性」が急速に薄れてきている。感性の喪失に関しては、やはり学校教育のあり方、その目指す方向性に問題があるのだと思います。

高等教育を受け、そこで能力を発揮している人たち、マスコミの情報や国の政策を左右する位置まで登りつめた人たちの多くが、「幼児は親(特に乳幼児期は母親)と一緒に居たいと思っているはず、心情的にも本能的にも」という人類の進化に関わる大事な、決定的と言ってもいい視点をほとんど持たないか、忘れてしまっている。幼児がそう願うことによって、人間たちの生きる動機が決定づけられるという想像力さえない。

遺伝子に種の存続の条件として組み込まれている「弱者優先」の視点を忘れているから、社会で起こっている人間性を覆すような現象や問題に対する読解力・理解力がないのです。人口の減少とか経済上の数字は見え、慌てても、その後ろにある人類学的な方程式や図式が見えていない。

それにもかかわらず、政府や学者は、政策パッケージの中で、「高等教育は、国民の知の基盤であり、イノベーションを創出し、国の競争力を 高める原動力でもある。大学改革、アクセスの機会均等、教育研究の質の向上を 一体的に推進し、高等教育の充実を進める必要がある。 」と言い続ける。

(高等教育が「人格」とは無関係だということを宣言した上で、これを言うならまだしも、「知の基盤」の「知」に道徳観念が含まれないことは、東大卒の文科省のナンバー2が子どもの裏口入学を画策したり、財務省のトップが女性記者に向けて「オッパイ発言」をしたりする報道を見ればすでに明らかです。教育と人格形成は重ならない、という確認があった上で「子育て」が論じられるべきなのです。)

 

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保育を「子育て」の「受け皿」と見なすこと自体が相当偏った、想像力に欠ける視点です。子どもがどう育つかよりも、子育てによって親がどう育つか、社会が子育てによってどう心を一つにするか、絆を深めるか、の方が大切だったということにまったく考えが及んでいない。社会の成り立ちを支えてきた「幼児を眺めることによって生まれる信頼関係」は、福祉や義務教育という最近の仕組みでは補えないもの。宇宙が何千年もそうしてきたように、これからは社会の仕組みとして、人間たちと幼児たちをしっかり出会わせることを「義務」とするしかないと思う。

政府は、「保育の受け皿を増やす」という言い方で「子育ての受け皿を増やす」という事実を誤魔化そうとしたわけですが、こういう意図的な誤魔化しや誘導、視点の操作をしているうちに、彼ら自身の感性がなくなってゆく。体験を伴わない「学問」や「情報」に依存することによって、直感的に本質を見抜いたり、心の動きを想像したりする力が弱まってゆく。だから、預けられる0、1、2歳児の「願い」や、預かる保育士たちの子どもに対する「思い」が意識されない施策が「国の子育て支援策」としてまかり通ってしまう。そして、それにマスコミがほとんど反応しないのです。

「みんなが子育てしやすい国へ」と銘打った内閣府のパンフレット「すくすくジャパン・子ども・子育て支援新制度」を読み、それを実施する立場の現場の保育士たちが、「子育て支援策」ではなく「子育て放棄支援策」ではないのかと言って顔をしかめている。自分たちの仕事が子どもたちの幸せにつながっていないどころか、不幸につながっているのではないか、と日々、ますます不安になっている。

先日もマスコミを通して京都大学の家庭社会学の教授という人が、日本は世界で一番子育てが難しい国、と批判していました。子育て環境、安心して子どもが育つ環境としては、確かに悪くなってきているとはいえ、日本は先進国の中では抜群にいい状況だと、私は思っています。実の両親に育てられる子どもが半数を切ろうとしている欧米先進国に比べ、はるかに親たちが親らしい。まだ、子どもに関心がある。だから治安が決定的にいい。

政府もそうですが、こういう学者がいう「子育てが難しい」の反対側にある「子育てしやすい」が、育てる側の利便性を高めること、「子育てを簡単にする」になっている。親子を引き離し子育てから親を「解放?」する方向を向いている。その向こうにある目論見は、親の幸せというより低賃金の労働力の確保なのですが、あまりそれははっきり言わない。

この「子育てを簡単にすればいい」という発想が私には理解できないのです。学級崩壊の広がり、親による虐待、DVの急激な増加を見れば、その危険性にそろそろ気づいてもいい頃だと思うのです。ここまで進めて来たのだから気づきたくないのかもしれない。しかし、欧米の犯罪率や麻薬の汚染率を見ても明らかなように、子育てを簡単にすれば、社会から優しさや忍耐力、幸福感が薄れてゆく。その現実から目を反らすわけにはいかない。

子育ては、親や親戚たち(その他の人たち)が喜びはもちろん、迷いや不安の中で自分の人間性に気づき、それを磨き、自分の善性に感動する体験であって、仕組みの利便性で補い簡単にするものであってはならない。たぶん、この家庭社会学者のいうところの「社会」は保育施設や学校、福祉といった最近できた仕組みや市場原理のことで、家族の絆とか、ともに祈り、祝う、一緒に幼児を愛でるという次元の「社会」ではないのだと思う。

(欧米は、福祉の充実を進歩的社会と勘違いし、保育が市場原理(経済活動)に組み込まれ、4割以上の子どもが未婚の母親から生まれる、という伝統的家庭観の崩壊にまで一気に進んでいった。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=976。精子の売買が合法化されているデンマーク。実の親、血のつながりという概念が薄れたアメリカの里親制度など、市場原理に頼らざる得なくなり、人身売買に近づく様相を見せています。

NHK世界のドキュメンタリー「捨てられる養子たち」 https://www.facebook.com/satooyarenrakukai/videos/1820006938239263/

(内容)比較的簡単に父母になり、簡単に解消できるアメリカの養子縁組制度。毎年養子となった子どものうちの2万5千人が捨てられているという。子どもをペットのように扱う社会の暗部を描く。

体育館に敷かれたカーペットの上を歩く子どもの姿を、両脇で見守る養父母候補の夫婦たち。その手元には子どもたちの写真入カタログが。簡素な手続きで身寄りのない子どもを引き取ることができるアメリカだが、その一方で深刻な問題も。14歳でハイチから引き取られたアニータは、5回目の引き受け先が8人の養子を持つ家庭で、養父は小児性愛者だった。育児放棄や虐待の結果、心に深い傷を受けるケースも少なくない。その実態に迫る。

原題 DISPOSABLE CHILDREN。制作 BABEL DOC production (フランス 2016年))

「ストロー菅の愛」NHK世界のドキュメンタリー

(内容)未婚のままアラフォーを迎えた2人の女性、シグネとマリア。子供を持つために精子バンクの扉をたたく。精子の売買が合法化されているデンマークの、近未来的な幸せ探し。

(詳細)詳細

結婚相手はなかなか見つからないが子どもが欲しい38歳のマリアと40歳のシグネは精子バンクへ。シグネは精子購入後に自宅で人工授精にチャレンジするが、なかなか成功しないため、貯金は減る一方で、欲しい“高額精子”も買えない。パソコンで精子を選ぶことに違和感を覚えたマリアは、ネットで知り合ったスペイン人男性に子作り旅行を持ちかける。デンマーク女性たちの挑戦を赤裸々に描く。

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義務教育が普及すると数十年で、人間社会は様々な形のパワーゲーム(マネーゲーム)に巻き込まれてゆき、「平等」という言葉を使って行われるパワーゲームもその一つだと思います。その結果、子育ての社会化(?)が進み、社会全体から男女間の「子育て」を基盤にした「信頼関係」が失われてゆく。同時に、子育てを労働と見なし始めると、それを保育者や教師、福祉士(他)による「労働」で補おうとする。家族という形が市場原理、損得勘定で動き始め、家庭における「子育て」が損な役割のように思われ始める。欧米先進国が避けられなかったこの流れに、日本だけは呑み込まれないでほしいと思うのです。幼児たちを眺める機会を意識的に増やすことによってそれはできると思います。)

土曜日・日曜日、48時間子どもを親に返すのが心配だと言い始める保育士たちがいるのです。「五日間、せっかくいい保育をしても、月曜日、また噛みつくようになって戻ってきます。せっかくお尻がきれいになったのに、また真っ赤になって戻って来る」。48時間オムツを一度も替えないような親たちを作り出しているのは自分たちなのではないかというジレンマが、子ども思いのいい保育士たちを自責の念に駆り立てる。

欧米に比べ子育ての本質をはるかに捉えていた日本の保育士たちは、親のニーズに応えるほど、親子が不幸になっていくのではないか、その矛盾と葛藤を抱え30年やってきました。その心の摩擦が限界にきている。しかし、いまだに学者や政治家たちは、「新しい経済政策パッケージ」のようなものを作って、労働力の創出を優先し、ここまでかろうじて頑張ってきた現場の保育者たち、学校の教師たちを精神的に追い詰める。

こういう人たち(学者たち?)に幸福感と一体であるべき福祉施策の主導権を握らせる道筋の一部なのであれば、それだけで「高等教育は、国民の知の基盤であり」えない。

最近目に付く、高等教育におけるエリート中のエリートたちが起こしている、一連の事件を見ていると、この人たち、(11時間保育を法律で「標準」と名付け、一方で規制緩和によって保育界全体の質を下げている学者や専門家も含め)仕組みのトップに登り詰めた人たちの中に、とても大切な「何か」が欠けている人たちがいる。社会に一番大切な、「子どもたちを含んだ連帯感」のようなものが感じられない。

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー