教育という視点 (保育園の背負う重荷が増えています。)

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(都市部の役場の人から。)

なぜ、ここまで保護者は怒り憤るのでしょう…

世の中が、世知辛くなってしまったからでしょうか…

そのイライラを、こどもを叩いたり、私にぶつけてくるのであれば、時間を惜しまず全身全霊で受け止めた甲斐があるというものなんですが。

それだけ、孤育になっているということなのかもしれません…

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i mages

 

講演する保育士会から前もって質問が来ました。講演の中で私の意見を聞きたいというのです。

「保育指針改定で、教育という視点がより重要視されていますが、保育士が気をつけるポイントはなんでしょうか」

うーん、またか、という感じです。

学者や政府は小一プロブレム、学級崩壊の問題をいよいよ保育園・幼稚園に押し付けようとしている。

大学を卒業、就職した若者たちが会社に入って三年もたない、続かない、そんな話をよく聞きます。確かに中学生くらいで、特に男の子が幼い、私もそれを感じます。そして、3割近くの男性が一生に一度も結婚しない。それが少子化の大きな原因でしょう。

男たちに、意欲、忍耐力、責任を負うことに幸せを感じる力、生きる力が欠けてきている。引きこもりや暴力、犯罪の原因の多くがそこにある。

大学教育が問題だ、いや、それ以前の高校教育の問題だ、中学校が問題だ、小学校の問題だ、と順番に言われ、仕組みがお互いに責任転嫁をして、いよいよ「保育の問題だ」となったのです。

「保育」をさっさと飛び越して「親の問題だ」とはっきり言えばいいのに、学者やマスコミはその現実を指摘するのをいまだに避けている。自分たちが干渉・操作できる教育という「仕組み」の問題を越えてしまうようで踏み込めないのかもしれない。しかも、総理大臣が3歳未満児をもう40万人親から引き離せ、と言い、すべての政党が「待機児童をなくせ」と親子を異常に早期に引き離す施策を公約などに掲げているのですから、いまさら「親の問題だ」「親子関係の問題だ」とは言いにくい。

NHKのクローズアップ現代は、実は言っていた。(「クローズアップ現代(NHK)〜「愛着障害」と子供たち〜(少年犯罪・加害者の心に何が)」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=267)国連の子どもの権利条約や、ユネスコの子ども白書などでも、この親子関係の問題、特定の人との愛着関係の重要性についてはずっと言っていた。解釈はいろいろですが、「三つ子の魂百まで」ということわざは、様々な国、様々な宗教、文化圏で「常識」「知恵」として言われてきた。学校教育、学問などというごく最近のものが現れるずっと前から言われていた。

「教育」という言葉を保育所保育指針に入れれば、それで何とかなるのではないか、と思っていることがおかしい。本気かどうか知りませんが、姑息です。問題の本質がわかっていない。学校教育が成り立たなくなっている、だから、もっと早く保育園で「教育」すればいいという学者の無知と傲慢さが腹立たしい。

それなら、非正規の保育士の時給を教員並み(時給2700円)にしろよ、と言いたいくらいですが、それで本当に学校教育が成り立つようになるとも思えない。でも心情的には、非正規の時給が教員の三分の一という待遇で二十年も黙ってやってきた保育士たちに、これ以上もう要求するな、とは言いたい。

教育が成り立たなくなってきたのは、「教育」の問題ではありません。就学前に親が育たなくなってきたからです。義務教育が存在する以前の「子育てが親を育てる」という本来の法則が、ここ百年くらいの間に、「システムとしての教育」「システムとしての福祉」の出現により成り立たなくなってきているところに問題はあるのです。

教師の質の低下も確かにある。しかし、本当に教師たちが言いたいのは、子育てを当たり前のように保育や学校に依存しようとする親が増え、家庭や家族の中で感じるべき安心感、安定感を欠いた子どもたちによってクラスがまとまらなくなってきた、ということでしょう。一人の担任に30人の子どもの子育てはできない。学校教育は、親たちがそこそこ子どもをしつけ、学校の先生にそこそこ感謝して成り立つもの。

「子育て」は育てる側を育て、育てる側の心を一つにする、それが人類としての基本です。

今回の保育指針の改定は、結局、「教育」という言葉で誤魔化し保育園に「しつけ」をさせようとしているのです。

しかし、それは家庭の協力なしにはできないし、保育をサービス、成長産業と政府が定義付けたら、そのことをはっきり親たちに言うこともできなくなっている。この矛盾が保育界を追い詰める。

(規制緩和され、無資格者の存在が当たり前になってきている)小規模保育や障害児デイサービスなどで、親に、「家庭でも、もっと規則ただしい生活をさせてください」と言おうものなら、親が息巻いて役場に駆け込む、プライバシーの侵害だ、と訴えるような状況がすでに始まっている。

政府の無理な(無知な)労働施策と規制緩和で、ただでさえ質が下がってきている保育士たちに、他人の4、5歳児を30人しつけろと要求したら、虐待まがいの風景が現れる。(以前にも書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1400)

たとえそこで子どもたちが一時的に座っているようになっても、保育士にしつけられ、笑顔が消えた子どもたち、特に親との愛着関係ができていない子どもは、小学校4年生5年生くらいでキレるという。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=233

しつけた人がもうそこにいないのだから仕方ない。親も育っていない。(しつけというのは、しつける側がどう育つか、というのがその行動の本質。)土台や継続性のないしつけは数年しかもたない。小一プロブレムが、小四プロブレムになってゆくだけのこと。子どもの「しつけ」は、本来「みんなで可愛がる」という子育ての土台があってされるものです。

みんなで可愛がる、という土壌があれば、しつけさえ必要なくなってくる。欧米人が日本の伝統を見てそのことを書き残しています。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=205

こうした欧米人が書いた日本の子育てについての記述を読んで思い出すことがあります。以前、ある学者が私に「可愛がると、甘やかすは違いますよね」と言ったのです。「そんなもの、同じでしょう」と私は答えました。厳密に言えば、言葉が違うのですから違うのでしょう。でも、そんなことを考えながら「子育て」はできない。

保育士の3割を派遣に頼る園が現れ、ますます保育室が荒れてきている現状で、「教育」(しつけ)という言葉を保育に持ち込める状況ではすでにない。いや、持ち込んではいけない。もっと先に整えなければいけない問題がある。

 

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