小一プロブレム・仕組みで子育ては出来ない

「小一プロブレム・保育や学校という『仕組み』で子育ては出来ない」

「保育士にとって都合のいい幼児にするために、0、1歳児には話しかけない、抱っこしない保育が少しずつ増えていて、この時期に話しかけてもらえないと、壁に向かってじーっとしているような幼児が数ヶ月で出来てしまう。それを親たちが知らない」と以前、現在進行形の現状について書きました。

園長設置者の意識の問題もあります。こんなひどいこと園長・主任が許さなければできるはずがないのです。私には、「話しかけない保育」は、人間の未来に対するもっともたちの悪い犯罪行為のように思えます。こうした子どもの将来を考えなくなっている現象に拍車をかけているのは、政府の目指す保育の市場原理化や、雇用確保のために行われている「親たちの意識改革」です。

0、1歳児を預けることに後ろめたさを感じる必要はない。それは当然の権利なのだという考え方を広げ、一方で規制緩和によって子育ての受け皿の質を落としてゆく。無理に無理を重ね、保育界全体が無感覚になる方向へ追い込まれているのです。その流れに、実は親たちが加わっていることについて書きます。

この「保育士に都合のいい子」が、最近、親にとっても都合のいい子になってきている。そこが一番恐ろしいのです。問題が仕組みの問題から、人間性の領域に入ってきています。

以前、既存の園の運営を引き受け、子どもが活き活きするように保育内容を園長が変えたら、親たちから「子どもが、言うことを聞かなくなった」とクレームがきて、その子たちが卒園するまでは保育内容を変えないように行政指導された園長の話をブログに書きました。数年前の話です。この辺りにすでに出発点がありました。保育サービスという言葉を厚労省が使い始めたころから、親たちも、保育園に、自分にとって都合のいい子に育てるよう要求するようになってきた。そして数年後、民主党政権の厚労大臣が、「子育ては、専門家に任せとけばいいのよ」と私に言い放ったのです。

一緒に子どもを育てているはずの親たちと保育者の心が一つにならない。「サービス」という言葉を保育園の定款に政府が無理矢理入れられた頃から、そんな景色が広がり始めたのです。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=233。

 

優先順位

政府の「子ども・子育て支援新制度」が、大人の都合(経済優先)で組まれているのと似ているのですが、社会全体の子育てにおける常識、優先順位が、ここ10年くらいの間に急激に変わってきています。

障害児支援のデイでも似たようなことが起こっています。これも以前ブログに書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=269。無資格の指導員でいい「デイ」で訓練のような「しつけ」を受けた子どもが保育園に戻って暴れる。どんな訓練をしているのか園側が問い合わせても教えない。その上、親に「『専門家』(デイの指導員のこと?)のところではおとなしく出来ている、だから素人(保育園)は駄目なのよ」と言われ本当に頭に来た、と熊本である園長先生が話してくれました。競争で成り立つ市場原理が、一貫したルールが確立されないまま、「子育て」における対立関係をあちこちで生んでいるのです。

 

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親子という運命にも似た関係、選択肢がほとんどない状況で長い間行われていた「育てあい」「育ちあい」(時に、しつけと呼ばれる育てあい)が、仕組みの手に移って行った時に、仕組みを維持する人たちの質、心構え、絆が、人手不足の陰で一気に崩れてゆく。

こんなツイートが保育士からありました。

『私も1年目の時、2年目の先輩と理事長に「なんで人が育たないのにどんどん新園建てるんですか?」って聞いたなぁ。そしてその答えは、「それでもやるって決めたから」的なこと言われて、まったく納得いかなかった。1ミリも。』

親たちよりも長く子どもたちと付き合い、「子どもを優先して考えている」保育士の気持ちが、先輩保育士や園長の「やるって決めたから」という言葉に押し切られてしまう。その向こうにあるのが、無知な学者にそそのかされた「保育は成長産業」「市場原理に任せれば質が保てる」という現場を知らない安易な閣議決定です。

そんな優先順位の狂った環境で育った(育たなかった)親子関係が、小一プロブレムを一気に進めている。こんな記事がありました。

「小1プロブレム 県内急増」

http://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/news/20170521-OYTNT50020.html 保育新制度が押し進める学級崩壊がいよいよ始まっている。数年後もっとひどいことになる。このままでは教師の精神的健康がもたない。

この記事にある「小一プロブレム」に対するマスコミや学者の分析と対処法が、実は、ますます小一プロブレムを増やしていくのです。保幼小連携と言われますが、それは小学校に入る時の壁を低くしようとすることでしかない。保育園や幼稚園を学校という仕組みに近づけても、本当の解決にはならない。5歳まで特定の人たちに可愛がられること、特定の人たちを信じることで子どもは安心し、安定する。それが何千年もやってきた子育ての基本です。そうすることによって、人間は人生に必要な価値観や絆の土台を作る。その土台さえあれば、子どもたちは壁を乗り越えられる。むしろ、その壁が、子どもを育てる。その壁が、親を育てる。親子の絆を強くする。

壁をなだらかにする、そんなごまかしでは、いずれ、高校や大学を卒業した時にもっと大きな壁に跳ね返されるだけです。それが人生の致命傷になりかねない。それがひきこもりや暴力を生んでいるのでしょう。人間の成長、そして絆が存在するために、常に壁は必要です。

百歩譲って、この記事にあるように、学校教育を成り立たせるために、本気で幼稚園や保育園を学校という仕組みに近づけようとするなら、つまりしつけをちゃんとしろということなのですが、小規模保育や家庭的保育事業の規制緩和は何なんだ。3歳未満児を40万人預かるために、資格者は半数でいいなどと安易な規制緩和をしておきながら、しつけもちゃんとしろ、というのは無理難題どころか本末転倒、施策としては意味不明です。

未満児保育は脳の発達と直接関わる大切な役割です。それを知っている園長が、いい加減な保育をされた3歳児は預かりなくないと思っても不思議はない。自分の園で未満児保育した子どもたちでなければ預かれません、とはっきり言う園長もいます。「子育て」を真剣に考えれば、当然でしょう。

未満児の時に親をしっかり指導できなければ保育は成り立ちませんから、親にサービスだけしているような園から来た3歳児は引き受けません、と言う園長もすでにいます。

園長先生たちは、この慢性的な保育者不足という困難な時期に、必死に保育士を守らなければならない。保育は、保育者の元気と楽しさがその中心になければ保育ではない。それが、幼児という「幸せを体現する人たち」と付き合う責任でもあるからです。

幼児が5歳くらいまで、特定の大人たちに可愛いがられていれば、学校教育は成り立っていたのです。幼児は、他人に無理やり「学校教育がなりたつために」しつけられるものではありません。

記事はこう締めくくられています。

『鳥取大地域学部の塩野谷斉教授(幼児教育学)は、「小学校と幼稚園、保育園などが一体となって子どもを育てる意識が大切。学校の教員と保育士らが連携すれば、子どもの発育を連続した視点でとらえ、より充実した保育、教育ができる」と話している。』

学者や政治家は、仕組みで子育ては出来ないことにいつ気づくのでしょう。仕組みが手を替え品を替え子育てを肩代わりしようとすることが親心の喪失を進め、より一層仕組みの機能不全を招いているのです。

この括りの文章・発言に、「親」が登場しないことが致命的なのです。「誰かが、育ててくれるんだ」という親の意識が、小一プロブレムの中心にあるのです。

学問が子育てから「心」を奪っている。

 

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こんなツイートがありました。

「保育現場で悲鳴が上がっている。子供だけでない、保育士を育てなければならないからだ。育て直し‥大人になった人を育てることは子育て以上に難しい。だから子供時代が一番大切なのだ。乳児期が一番大事なのだ。それなのに、今の保育園はどうだ?本当に子供が大事にされているだろうか・・。」

そして、「子どもを安心して保育園に預けられない理由」という記事がありました。これがすでに現状、現実なのです。 https://news.nifty.com/article/magazine/12210-20170519-9559/?utm_