子どもたちからの警告・学問が子育てから心を奪っている

子どもたちからの警告

待機児童解消、保育士不足、少子化対策、幼児の気持ちを置き去りに、言葉だけが「社会」と呼ばれるものの中を飛び交います。

久しぶりに保育に復帰した人が言っていました。新しい、小規模の保育園だったのですが、保育士の資格は持っていても幼稚園しか体験したことのない主任さんだった。保育園の保育を理解していない、と思い、すぐに辞めました、というのです。

それでも、その保育園には毎日子どもが通ってくる。多くが、期待に胸をときめかせ、ワクワクしながら・・・、通ってくる。その期待に応えようとしなければ、国が成り立たないことを、政治家たちは知ってほしい。考えてほしい。感じてほしい、と思います。

 

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子供たちがなりたい職業ランキング(ソニー損保生命)
保育園の先生は上位から消えました。
2015年は第3位。2017年は第11位。
 
 厳しく辛い、子どもたちからの警告ですね。現場の保育士と子どもたちが過ごす日々を考えず、安易に「預けて、働け」「預けて、働け」と親たちに言う政治家たち、そして、その動きを「権利」「権利」と扇動するマスコミ。このランキング調査は、そうした経済中心の動きに対する「子どもたちからの」警告だと思います。
 保育士たちが活き活きとしていないのかもしれない。保育が「子育て」であること、幼児にとっては一対一であることを忘れ、「仕事」なってきているのかもしれない。子どもたちが、いつか大きくなって、幼児と関わることに惹かれなくなっている。
 0、1歳児を躊躇せずに預ける親が増えたからかもしれない。子どもたちは、敏感に育てる側の本心を見抜きます。繰り返し許してはくれますが、見抜きます。
 保育の現場から、幼児たちが本能的に感じていた「子育て」の魅力が、ここ数年間の間に突然、欠け始めているのです。
 このリサーチは、将来、本当に保育資格をとってほしい、心ある子どもたち、資質のある選ばれた生徒たちが保育者養成校に来なくなることを意味しているのです。
 もうすでに、そういう状況に入っている。
 以前、保育士が子どもたちの「夢」だった頃、なりたい職業のトップ3だった頃、子どもたちは、賃金とか労働条件とか、そんなことでこの仕事に魅かれていたのではなかった。あの「先生」が好きで、あの「先生」に憧れていたはず。「賃金とか労働条件」よりもっと大切で、魅力的な「人間の優しさが作り出す雰囲気」、「家族的な空気」、「自分がいい人になれる時間」に子どもたちは引き寄せられたのだと思います。そのことに政治家たちは気づき、いま、子どもたちによる警告を見て、肝に銘じてほしい。このままでは、この国の根幹が壊れてゆく。
 
 子育てを、国や学者が、一生に数度しかできない素晴らしい体験と位置付けないから、「育てる側を育てる」という、その貴重な意味を、理屈ではなく「常識」としてマスコミが伝承しようとしないから、巡り巡ってこういうことになる。男たちが結婚しなくなっているのと似ています。みんな、自分の持っているいい人間性に感動する体験をしようとしない。それどころか、自分自身を体験することから、逃げ始めている。
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学問が子育てから心を奪っている

 

低賃金の労働力を確保するために(維持するために)、十数年前に政府は保育士養成校を増やそうとしました。養成校で学び、資格を取れば、他人の子育てができると勘違いした。学問で子育てができると考えた。そこがそもそも異常なのですが、養成校の存在自体が不自然で、まだまだ不完全だと気付いていなかった。資格という言葉で責任を誤魔化そうとした。

その上一番悪いのは、養成校が定員割れを起こし倍率がでなくなることが保育界にとってどれほど致命的かということに、まったく気づいていなかった。

ビジネス・生き残り優先の養成校は、政府の望み通り資格を乱発し、人間性のチェック機能さえ果たさなくなった。子育ての意味や大切さを教えるはずの教育機関が、資格の先にいる幼児たちの安全や安心を優先しなくなった。それまで何とか保育を支えてきた現場の保育士たちは、幼児が優先にされない状況に疲れ、国の「保育はサービス」という言葉を受け入れビジネス優先で考える園長の出現に疲れ、辞めていった。その結果がこれです。

「てめぇら!」響く保育士の怒鳴り声 “ブラック保育園”急増の背景” (週刊朝日)https://dot.asahi.com/wa/2017052400011.html

 やっとです。ここまで保育界が追い込まれ、子どもたちの日常が保育という仕組みでは守れなくなって、子どもが何年も怒鳴られ続け(もちろん一部ではありますが)、やっとマスコミが真面目に取り組み始めた。
「遅い!」と言いたい。でも、これからでもいい。真剣に取り上げ続けてほしい。

書籍では「保母の子ども虐待」という本がすでに20年前に出ていました。当時本の内容に関して報道もされましたし、みんな実は気付いていたはずです。それなのに、規制緩和と市場原理で、ここ数年、保育界は一気に追い込まれている。週刊誌、新聞、テレビが、幼児の立場に立って、繰り返し、「こういう状況が止まるまで」徹底的に報道してくれないことが、政治家の安易な「子育てに対する姿勢」と現在の「子どもの立場に立たない保育施策」を生んできたのだと思います。
こんな状況になっているのに、「あと40万人保育の受け皿を用意します」と去年首相が国会で言い、それが今年は「50万人」になっているのです。もちろん、全ての野党が(こういう状況であるにもかかわらず)「待機児童をなくせ」と言っているのですから、与党がダメだと言っているのではありません。安倍さんだったら、もう少し日本の未来は子どもたちの育ちにかかっている、ということを理解してくれるのではないかと、期待していたくらいです。(萩生田さんにも何度も説明しましたし。)

いま、問題なのは、こうして実態が報道され始めても、それでも躊躇せずに0、1、2歳を預ける親が増え続けていること。
そして、待機児童を自園の人気と勘違いし、親の保育士に対する正当なクレームに「じゃあ、やめればいいだろう」と平気で言う園長さえ現れていること。

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 三年前、子ども・子育て支援新制度が始まる前年に、宇都宮の保育施設で乳幼児が亡くなる事件(事故)がありました。当時大きく報道もされ、私もブログに書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=255

こういう事件が、保育制度を規制緩和し労働力を確保しようという政府の保育施策の警告にならなかった。「待機児童をなくせ」という掛け声のもと、むしろ増える方向にいまだに進んでいる。だから小一プロブレム、学級崩壊が止まらない。
義務教育という仕組みは、一部の親子関係、家庭のあり方がすべての子どもの成長に影響を及ぼす、非常に影響力の大きい、同時に繊細で壊れやすい仕組みです。いま、閣議決定で進められている、「11時間保育を標準」と名付けた「子育ての社会化」という流れでは、これから義務教育が破綻し始める。そう簡単に止められない親たちの「意識改革」は現在進行形で進んでいるのです。

この国が、欧米のように訴訟社会になることでしか止まらないのか、と思うと情けなくなります。

『「社会で子育て」大日向教授、小宮山厚労大臣の新システム』http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=208

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スコセッシ監督の映画「沈黙」を見てきました。http://chinmoku.jp 良かったです。

遠藤周作さんのキリスト教への視線は、以前原作を読んだ時、「死海のほとり」のイエス像でも共感できて、それをスコセッシ監督がしっかり受け止め表現していて嬉しかったです。東洋的な解釈、仏教との対比からキリスト教会を見ていて、本当はカトリック信者でありながら遠藤さんは易行道が好きだったのではないかと思います。日本という国、泥沼と例えられていたのですが、不思議な表現で、いまとても意味があることに思えました。それぞれの文化や宗教で異なる神とのスタンスを見誤ったり、誤解することがここ数千年の人類の歴史なのでしょう。

映画の中で、神の声がモーガン・フリーマンの声だった気がして、エンドクレジットで一生懸命探したのですが見つかりませんでした。もしそうだったとしたら黒人の声を神の声に使っているわけで、スコセッシ監督のメッセージが隠れている気がしました。モーガンが監督したボパという作品に演奏で参加したことがあります。