昨夜は六本木のスイートベージルで尺八を吹きました。http://www.youtube.com/watch?v=pp611Jj-M7s&feature=player_embedded#t=246
ディジュリドゥーのKnob君のライブにゲストで参加しました。彼の姿勢が「音楽をする者」の原点なのかな、と時々思います。不思議な人物です。
ピアノの塩入さんから打ち合わせの時にCD「ピアソラ新基準 古川展生×塩入俊哉」をもらったのですが凄いです。ピアソラをチェロの凄い人とやっているのですが、素晴らしいのです。凝縮された空間で、間や余韻の向こうに広い空間を感じさせる、「焚き火があるから宇宙を感じる」、Knob君の「宇宙があるから焚き火が見える」世界とは対極にあって同機しているような、人間の感性、存在の幅を感じます。
3月18日にスイートベージルでこの二人のライブがあります。絶対、お薦めです。
パーカッションの楯さんは打楽器に加えて、アフリカのハープ、コラとか、ネーティブアメリカンの笛とか、カワリボーカルにも似た不思議な声とか、宇宙が共鳴する変なアンテナとか、使うのですが、次元が一気に広がって気分が楽になります。
音楽的に考えなければ私もけっこう吹ける、と思いました。論理性から離れること、いま、民族楽器はその象徴かもしれません。頑張らなくては。
民族楽器の持つ様々な形や異なった手触りからは、それぞれの楽器が進化してきた風土や文化の多様さ、それは言い換えれば人間の祈りと、その進化の過程の多様さなのですが、その長い年月を見渡し、感じることができます。
人間たちの歩んできた道筋や、歩みの速度の違いが、旋律やリズムを聴かずとも、民族楽器の姿や肌触りから、伝わってくる。楽器を見つめながら耳を澄ますと、石器の時代、青銅器の時代、鉄器の時代の心の合わせかたのちがいが聴こえてくるようです。
民族楽器は、「祈り」をテーマに人類の道筋が収集された博物館のようです。