「行政アドバイザー」を依頼されて/部族の感覚

 今月、茅野市の子どもたちの育ちに関する「行政アドバイザー」を依頼されました。去年から続いてきた市との関係は、野菜や手作りのゼリーをお土産にもらったり、料理の仕方を添えたかんぴょうをもらったり、保育園を全部まわったりしているうちに、市長や教育長さん、子育て支援課のひとたちと本音で話せる関係になっていました。就任式があって、そのあと市長さん教育長さん、福祉部のひとたちと夕食をいただきました。

 学校を管轄する教育委員会が、幼児期の保育をどうとらえるか、はいまとても重要です。あの子たちがこっちへ来る、ということを忘れて進むと、学校教育を支えて来た保育が「雇用・労働施策」に取り込まれてしまいます。
 (経済財政諮問会議がいまの保育や親のあり方にどのように影響を与えてきたか繰り返し書くことはしませんが、経済学者の多くが、子育てが生みだす絆がめぐり巡ってどのように経済と関係しているか、理解していないように思えます。経済と幸福の関係さえ理解していないと思ってしまうことがよくあります。家族の絆が安定しなければ競争力は落ちます。競争原理で動いているアメリカで、英語も満足にしゃべれない移民一世が、二世三世に比べて経済的に成功する確率が高い。発展途上国の家庭観を持ち、発展途上国の教育を受けた人がなぜ市場原理の中で成功するか。そのあたりを経済学者たちが理解していない。
 システムを市場原理や競争原理に変えたからといって保育がすぐに変わるわけではないのですが、これまで保育を支えてきた経験豊かなな主任さんが定年退職になりはじめています。新任の保育士が数週間で辞めてしまったり、理事長設置者が子どもを第一に考えなくなったり、雇用・労働施策に振り回されてすでにこの20年くらいに起ってしまった保育界の変化は、やはりそうとう日本のいまの姿を形づくっていると思います。現場を耕していけばそれがいいのだ、と思うようにしています。上で何が行われようと、ひたすら幼児の私たちを信じてくれる力を信じればいい。彼らは一人では生きられないのですから。それは人類にとって素晴らしいことなのですから。)
 「一日保育士体験」を親たちがすることで、子どもたちが「どの子にもおとうさん、おかあさんがいる」と理解する。親たち全員にさせたいのはそのためです。子どもたちからの信頼を取り戻すために「全員」に向かって努力することが必要だと思います。毎年「おともだち」のお父さんお母さんとひとりずつ順番に、一日遊んでもらったり、教えてもらったり、抱っこしてもらったり、本を読んでもらったりすることによって、卒園して学校へ行ってからのいじめがなくなる。なくなることはないとしても、半減するのです。「おともだち」が個人ではなく「一家」として意識されれば、親子としての存在が認められれば、いいのです。いじめは、その子の一生を左右する体験です。この体験が、数十年日本の社会に意識として残る。できることはすぐにやらねばなりません。
 お父さんお母さんが、毎年一日、卒園までに三・四回これを体験することで、自分の子どもの成長だけではなく、一緒に育っていく子どもたちの成長を一つの敷地の中で見る。「自分はほかの子たちにも責任があるかもしれない」と頭の隅でふと感じます。我が子の環境問題は他の子たちなのだ、と理解します。人類が何千年も感じてきた「部族」の感覚です。石器時代にすでにあった、人類が生きていくために一番大切な運命をわかちあう者たちの絆です。それを司っていたのが「子育て」でした。
 子育ての周辺に存在した様々な儀式は、主にそれを確認する儀式でした。
 幸い茅野市では、学校と保育園・幼稚園が垣根を越えて子どもたちの成長を一緒に考えようとしています。第一に学校側が0歳から5歳までの子どもの成長の重要性を自分たちの問題として認識することから始まります。将来その子たちの成長を支える親たちをいま育てるのは自分たちだ、ということも意識します。高校生は数年後には、親になってこの仕組みの中に還ってくるかもしれない。
 保幼少連携と言われるのですが、まだ本質が理解されていません。授業がやりやすくなるために、くらいの視点で行われていることが多い。乳幼児、幼児たちがどのように人間社会に人間性を与えてきたか、彼らがどのように人間たちから良い人間性をひきだし、言葉で確認するものではない沈黙の次元の絆を生み出してきたか、までは理解されていません。思考がシステムの範疇を出ないのです。
 学校教育を支える土台がどのように作られて来たか、ひとり一人の教師が知ることは大切です。0歳、1歳、2歳で乳幼児がどのような役割を社会で果たし、三歳、四歳、五歳という特徴的な発達の段階で子どもがどのように自制心を身につけるか、そのあたりを教師も知ると子どもが違って見えてきます。
 この時期に親がどう親らしくなるのか。家庭と、保育・教育をする側との信頼関係がなければ学校教育は成り立たなくなる、成り立ったとしてもそれは子どもたちの笑顔と一体のものではないかもしれないことを知る必要があるのです。
 いじめは、「絆を作っていない」大人たちに対する子どもたちの警告です。
 子どもたちを教育して解決しようとすれば本末転倒になる。親身になって教師が生徒を指導し、いじめをなくそうとすることは重要ですし尊いことです。たとえば、学校で毎朝必ず輪になって踊ったり歌ったりすることはもっと古い、遺伝子にかなった石の時代のやり方です。しかし、いじめの本質は親同士、そして家庭と学校の信頼関係の希薄化にあるのだ、ということを前提に取り組まないと、ますます親たちは学校に子育てを依存し、教師は苦しい立場に追い込まれてしまいます。
 「一日保育士体験」で、父親を早いうちに人間らしくすることができれば、それが出発点になると思います。入園した年から「全員」を目指して、教育委員会と福祉部が協力しながら努力すれば地域の空気が変わってきます。
 焦点をしぼって徹底的に、ほとんど選択肢がないまでに進めようとしなければ意味がありません。進むことで生まれる絆もまた大切です。目的はそれを達成する過程がすでに目的を果たしたことになっている、のが一番いいのです。
 子育てをするということに選択肢はない。子どもは親を選べない、親も子どもを選べない。だからこそ人類は幸せだった。
 育てあうしかなかった、という感覚を社会全体に取り戻さなければなりません。

 茅野市がいつか、県の教員の異動があるたびに、「あそこへ行って教師をやりたいね」と囁かれるような市にならないかな、と願います。学校教育の質は教師の精神的健康、幸福感です。こういう時代です。社会は、教師にとっても子どもたちにとっても学校教育が気持ちよく成り立つかどうかで、その善し悪しを計られるべきだと思います。そして、それが成り立っていることに親たちが感謝する。感謝をする人間が一番成長することになっているのです。
 (私が学校に関してこうしたビジョンを持つのも、人生を振り返って学校のイメージがとてもいいからだと思います。教師の感性が感謝に磨かれていれば、学校はなんとかなります。そこで頼りあう、信じ合うことを学べばいいのだと思う。自立、という言葉は、まだまだいまの時点では人類には早いのだと思います。)

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