夏休みも終わって/石川県で七時間講演

 夏休み中、石川県の園長先生たちに頼まれた講演は、依頼文の中ですでに7時間というものでした。4時間の講演を頼まれて5時間話したことが10年前にありました。群馬の保育士会だったと思います。時々ですが、2時間の講演に30分音楽の演奏をつけてください、と言われることもあります。会場にピアノがあったりすると久しぶりに演奏します。

 はじめから7時間と依頼されたのは今回が最初で最後かもしれません。県の社会福祉協議会主催の一泊研修会、東京から小松へ飛び、羽咋(はくい)まで車で能登半島を走って、初日の午後4時間、二日目は午前中3時間、夕食と懇親会も含めると急ぐ必要のない旅です。羽咋(はくい)は去年99歳で亡くなった祖母の故郷です。海辺で海水浴をする写真が残っていて、推測すると52年ぶりです。

 二日目の夜は、午後東京まで戻って、小田原での講演が入っていました。森の中での不思議な講演会だったのですが、その時の体験についてはまた書きます。
 空港から能登の自然を左右に見ながら車で走り、着くとそのまま二時間いつもの講演をしました。全県の大会で一日保育士体験のはなしが出来るのですから気合いが入りました。先進国社会で教育システムの普及と平行して幼児の役割が薄れていくと愛とか絆を求める人間の宿命が空回りしてどういうことが起るか、数字をあげ欧米の現状を説明し、そこからゆっくりと子育てで育つ人間性と過去と未来につながる絆がどう作られていたか、について例を挙げて話します。最後に、小野省子さんの詩を朗読し、15分休憩してシャクティの世界に入ります。シャクティとの出会いについて話し映像を1時間40分上映し、それに30分くらいの解説をつけました。シャクティの映像は、見方と心境によっては風景主体のかなりゆったりした映像です。ナレーションもありません。時々入る文字と音楽がガイドです。インドの村で感じる時間の大きな流れを感じてもらうことの方が、差別の歴史や情報として入ってくる知識より大切な気がして、そういう編集になっているのです。細かいところまで視点が行けば、淡々とした風景の中に、共有すべき過去の時間や人間の感性が散りばめられていて、両界曼荼羅になっていると思うのですが、一つ一つ指摘されてはいません。
 編集にかかろうとした頃、作品の存在意義を考えた時に迷路に入ったしまった私に、自分の存在意義を意識せずに受け入れよ、と教えてくれたのはソウバさんんでした。翻訳者、通訳、アンテナになればいい。しかし、これでいい、と思って作っても、時と目的と見る人の心理状態によって、私自身が「ちょっと長いかな、退屈しないかな」と一緒に見ていて不安になることがあります。
 以前、埼玉県庁で教育委員会のひとたちに見てもらった時に、松居委員の主張をこの映像を見て初めて現実のものと感じた、とある人に言われたことがあります。言葉で説明しやすいこともあれば、映像や音楽で感性に訴えた方がよく伝わることもあります。人間たちのコミュニケーションには、その両方のバランスが不可欠なのでしょう。
 私は、「0才児との言葉を介さないコミュニケーションの意味」「一方的に語りかけることが人間の能力をどのようにひき出すか」「どの次元で人間は絆をつくるか」ということについて普段から話していますから、こうして二通りの表現手段を使えることはとてもありがたいのです。講演と上映とを、どちらの時間を短縮させることなく出来る機会は今回が初めてでした。そして、先生たちも、はじめから二日間の研修に来ていますから覚悟が出来ています。私は、7時間飽きさせないように心配りをする必要もなく、強いて言えば、伝えるメッセージに意味が明確にあり、それが伝わり、去年の研修よりずっと面白かったね、くらいを目指せばいいのです。私自身シャクティの映像を見るのは、二月の江ノ島アジア映画祭以来でした。インドのあの肌触りが久しぶりに還ってきます。
 初日の四時間が終わって、先生たちに質問を紙に書いてもらい、それに二日目の三時間で答える、というのが私が立てた計画でした。嬉しかったのは、シャクティを食い入るように見て下さった先生たちの後ろ姿と、質問の紙に書いてあった感想でした。時を違えて、次元を違えて作り上げた講演と上映に、相乗効果があったのです。記憶の中にしか存在しない過去が、現在につながっている確認ができました。
 この確認は確かに大切で、幼児期の我が子の記憶を出来るだけ長く記憶にとどめ、それが現在につながっているという感覚が、時間と空間を越えた人間社会の絆の正体なのではないか、と思えたりします。
 
 

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