「愛着障害」と子供たち

八年前、ブログ:シャクティ日記に、「クローズアップ現代(NHK)〜「愛着障害」と子供たち〜(少年犯罪・加害者の心に何が)を書きました。 http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=267 
警告はすでに、繰り返しされているのです。(以下、引用です。)

クローズアップ現代(NHK)で、〜「愛着障害」と子供たち〜(少年犯罪・加害者の心に何が)という番組が放送されました。発育過程で家庭で主に親と愛着関係が作れなかった子どもたちが増えていて、それが社会問題となりつつある。殺人事件を起こした少女の裁判で、幼少期の愛着関係の不足により「愛着障害」が減刑の理由として認められたという内容です。

さっそく、保育園の園長先生から電話がありました。
「問題はここですね。保育の現場で私たちがずっと以前から気づいていたことです。肌の触れ合いや言葉掛けが減ってきて、一歳から噛みつく子がますます増えています。保育士が補おうとしても限界があります。手も足りません」。保育士たちが日々保育室で目の当たりにしている光景、いわば愛着障害予備軍の幼児たちなのです。

行政の方からも電話。「この番組を見て、政府は4月から始める『子ども・子育て支援新制度』をすぐにストップしてもいいくらいだと思います。幼児期の大切さをまるでわかっていない」。

役場の子育て支援課長がここまではっきり言うのも、今回の新制度は、首相の「もう40万人保育園で預かります。子育てしやすい国をつくります」という二つの矛盾した考えから始まっているからです。
3、4、5歳に待機児童はほとんど居ません。幼稚園と保育園でほぼカバー出来ている。首相の言う40万人は自ら発言出来ない、三歳未満児が中心で、番組で言われていた愛着関係の濃淡に最も影響を受けやすい、脳科学的にも人間性の基礎が形成されると言われている一番大切な発育期にある子どもたちなのです。

政府が経済最優先で進めている改革の中身は、認可保育園での三歳未満児保育を増やす、認定こども園、小規模保育、家庭的保育事業と、市場原理を利用しながら「乳幼児たちと母親を引き離すこと」なのです。

そして、すでに小学三年生までの保育でアップアップの学童保育を四月から一気に六年生まで引き上げろと言うのです。
指定管理制度の中で抵抗出来ず、行政から言われる通りにやるしかない非正規雇用中心の指導員に、様々なレベルの愛着障害の子どもたちに対応するだけの余力は残っていない。一週間程度の座学で誰でも資格をとれる「子育て支援員」で誤摩化せるはずもありません。

以下、放送された内容です。
(ブログのリンク。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=267 をご覧ください。)

繰り返しますが、警告は繰り返し発せられている。

政府の思惑を、ネット上で広めていただきたいのです。コピーペースト、シェア、リポスト、口コミ、どんな方法でも構いません。
このままでは、保育も教育も、学童も児童養護施設も、一斉に倒れていくことを理解してもらいたいのです。よろしくお願いいたします。

 

(講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。「ママがいい!」を読んでの勉強会であれば、ボランティアでも行きます。幼稚園や保育園で、出来ることがたくさんあります。子どもにとって、親を信じることは、人生の流れを決めていく指針です。「愛されている、そう思う子どもに育ってほしい」。親たちの、その願いが、社会を整えます。)

 

「ママがいい!」と言えない乳児たちのために

(「ママがいい!」より、引用)

以下は、東京西部で代々保育園を営む理事長の言葉である。

「本年度の入園説明会が終了した。0歳児保育を希望する人が三十四名もいた。そこで、0歳から六歳までの発達の特徴と、〇、一、二歳児における母子関係の大切さを説明した。世の中には0歳児から預けようとする風潮が広がっているけれど、それは間違いですと伝え、なぜ育休を取らないのか? と訴えた。説明会終了時、拍手が起きたのには驚いた。夫婦が寄ってきて『説明会を聞いて本当に良かった!』と感謝された。その目には、自分で育てようとする意思がはっきりと見て取れた」(共励保育園・こども園の長田安司理事長のツイートから)

きちんと説明すれば、親は理解する。この国の素晴らしさであり、土壌だと思う。

「保育所に入りたい待機乳児」はいない。〇、一、二歳児は、母親と一緒にいたい。その願いにすべて応えることはできないのだが、政府が意図的にその意に反する政策を進めていけばどうなるのか。すでにその答えは出ている。大人たちの都合で仕組みや制度の整備が進めば、弱者の存在感は薄れ、保育の先にある様々な仕組みが順番に破綻し始める。その結果、貧困に追いやられ、孤立する弱者が増えていく。

(引用ここまで)

多くの人が知らされていない。

説明すれば、拍手が起きる大事なことを知らされていないのです。しかし、知らせようとする保育園の理事長もまだいる。

「なんとなく、流れで」と、政府や経済界がつくった誘導にしたがって0歳から預けてしまう人たちがいる限り、「ママがいい!」と言えない乳児たちのために説明しなければいけない。

なぜ、それを義務教育でやらないのか、とつくづく思うのです。中学校の家庭科の授業が、市場原理に呑み込まれている。性的役割分担を否定するようなことを教える。

「女性の活躍」という言葉、「一億総活躍」もそうでした。その裏に、母親の役割を「活躍」から外そうとする意図がある。母子分離で経済競争を促す。人類史上最も愚かな試みです。

「平等」など、実は、誰も信じていない。真剣に平等を言うなら、子どもたちの「願い」が優先されるはず。

 

本当に保育が必要な時間だけ預かっているのであれば、保育士は足りています。不平や不満を広めて、競争原理に駆り立てようとする、「欲の資本主義」の企てが、保育、そして学校という仕組みを追い詰めています。いい加減にしないと、戻れなくなる。

三十年前、私を鍛えた園長たちは、祖母の心で保育をしていました。

「病気の時くらいは、側にいてあげなさい」、「そんなに長く預けたら可哀想でしょう」そうはっきりと言った。

そうした親身な人が傍にいてくれることが、母親たちを救ったのです。自分を頼り、信じている子どもの姿が親たちに気づかせたのです。いつでも許し、愛してくれる小さな人たちがいることが、一番幸せなのだと。

「保育は成長産業」という閣議決定で、政府は母性という、この国の文化の心髄を家庭からも保育からも失わせようとしています。子育てを「負担」と宣伝する政府の「罠」に親たちが気づくように、「ママがいい!」ぜひ、読んで、広めてほしいのです。図書館で順番待ちになっているそうです。この国には、利他の心で社会を創る、運命としての道がある。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/ に、タイトルをつけて、原稿を載せてあります。いま、意識が変わり始めている。

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。「ママがいい!」を読んでの小さな勉強会であれば、ボランティアでも行きます。

幼稚園や保育園で、出来ることがたくさんあります。子どもにとって、親を信じることは、人生の流れを決めていく指針なのです。「愛されている、そう思う子どもに育ってほしい」。親たちの、その願いが、社会を整えます。)

 

人間は、弱者の願いを尊重し寄り添う

 

最近、保育関係者から講演依頼を受けると、不適切保育を無くすにはどうしたらいいですか、と前もって質問されることがよくあります。他人の子ども、しかも0、1、2歳をいじめる、人間として許せない保育士は雇わない、不適切とわかった時点ですぐに解雇する、それだけのことなのです。母子分離の目標数値を「子育て安心プラン」で掲げ、それができない状況を作り出しているのは、政府なのです。そこに気づかない限り、すでに学校教育まで達している不信感の連鎖は止まらない。

 

最近の記事です。

大手の福祉系株式会社が経営する保育園に、不適切保育士が四人常駐していた、という。

(思考を情報レベルで止めないで、この「市が虐待と認める」風景を、毎日毎日、たくさんの子どもたちが見ていた。そのことを忘れないでほしい。その出来事は、子どもたちの記憶の中に、原風景、PTSDとして残り続ける、そこまで想像して読んでほしいのです。)

 『吐き出すまで嫌いな給食たべさせる…ニチイ学館運営の保育所で園児に虐待行為』 https://www.tokai-tv.com/tokainews/article_20231023_30806 

 ニチイ学館が運営する名古屋市中川区の保育所で、虐待行為が発覚し、市が改善勧告をしました。名古屋市によりますと、中川区の認可保育所「ニチイキッズ長須賀保育園」で2023年4月から9月にかけて、保育士4人が3歳や5歳の園児に対して、食べたものを吐き出すまで嫌いな給食を食べさせるなどの不適切な保育を続けていました。(中略)この園では2015年にも、園児に食事を無理やり食べさせる虐待行為が発覚していて、ニチイ学館は取材に「2回目が起きてしまったことは深刻な問題と捉えている」などとコメントしています。

 名古屋市 虐待行為で2つの保育施設に改善勧告 https://www3.nhk.or.jp/tokai-news/20231023/3000032389.html
(前略)ルナ4新栄では、9月、園児が吐き出して机の上や床に落ちた食べ物を再び園児に食べさせたほか、食べ物が床に落ちたことに対し「ごめんなさいは」と謝罪を要求するなどの行為があったということです。
市は、いずれの行為も虐待と認定した上で、園児の生命や身体に危害を及ぼすおそれがあるとしてそれぞれの施設に対し、児童福祉法に基づく改善勧告を行いました。
市は、施設に対し、職員を対象とした研修や、利用者の信頼を回復するための取り組みを定めた再発防止策を策定し、11月22日までに提出するよう求めています。
「ニチイキッズ長須賀保育園」を運営するニチイホールディングスは、「園児、保護者の皆さま、関係者の皆さまに多大なるご迷惑とご心配をおかけし、深くおわび申し上げます。改善勧告を重く受け止め、名古屋市の指導をあおぎながら再発防止を徹底するとともに、適切な保育園運営に努めてまいります」とコメントしています。
また、「ルナ4新栄」を運営する社会福祉法人「中日会」は「保護者に多大なるご不安やご不信をいだかせて誠に申し訳ありません。園児の発達を考慮した保育を実践し、不適切な保育を徹底して排除します」などとコメントしています

 

(ここから私です。)

「改善勧告を重く受け止め」る、のではなく、その前に、人間として受け入れてはいけないこと、なのです。なぜ、その時止められなかったのか、仕組みに子育てを任せ、それに慣れるということの恐ろしさがそこにはある。なぜ、そんな仕組みになってしまったのか、保育現場が人間性を失っていく現実を、他人事ではなく、社会全体の問題として「重く受け止め」なければいけない。

「親に見せられないこと」をする保育士を複数人雇い続けたということは、組織ぐるみの「確信犯」なのです。今更、「2回目が起きてしまったことは深刻な問題と捉えている」では話にならない。こんなコメントが成り立つこと自体がおかしい。こんなコメントやニュースに慣れてはいけないのです。

2回目が起こるまでの間、その風景に慣れようとした保育士たちがいた。その保育士たちの感性、人生が壊れていった。それを見ていた子どもたちの一生に、大人たちのその姿が焼きつき、その時の不安感が、将来パニック障害や統合失調症のような形で現れる可能性がますます高くなっている。

先進国社会に共通した精神疾患の異常な増加は、幼児期における安心感の欠如がその原因にある。幼児期の不安定な人間関係とそれを目にした恐怖がある。

 

次の週、こんな報道がありました。

保育士5人が計30件の虐待・不適切保育 徳島の村立保育所

 徳島県佐那河内(さなごうち)村の村立佐那河内保育所で不適切な保育が行われていた問題で、同村は1日夜、弁護士ら外部の専門家2人による調査結果を公表した。女性保育士5人が少なくとも9人の園児に対し、2021年度以降に計30件の虐待や不適切保育などを行っていたことが明らかになった。当初、同村の調査では虐待はなかったとされていたが、今回の調査では虐待15件を認定。保育士5人のうち2人は既に退職しており、同村は他3人について処分する方針。また、5人について刑事告発も検討する。

 報告書では、園児が口から吐き出した食べ物を食べさせた▽園児が机の上にこぼした牛乳を紙片でかき集めてコップに入れて飲ませた▽冬に園児の下半身の衣服がぬれた状態のまま散策させた――など計15件を虐待と認定。また、複数の園児に対し「アホ」「バカ」と言うなど、心身に有害な影響を与える行為が3件、園児の排便が床に落ちた際にティッシュでふくだけで消毒をしなかった▽絵本を読んでほしいと求める園児に対し「うるさい」と言うなど、身体的、精神的苦痛を与える「不適切保育」事案12件を認定した。

 岩城福治(よしじ)村長は記者会見で「園児とその保護者に心からおわびする。職員一丸となって、園児の心のケアと信頼回復に努めていく」と陳謝した。

 保護者の1人は毎日新聞の取材に対し、「これまで何度も保育所長を通じて村に虐待を通報していたのに相手にされなかった。保育所が一つしかないため保育士の人事異動もなく、状況を改善できない体質が問題だ」と憤った。

 

(ここから私です。

村に一つしかない公立保育園で、乳幼児に対する虐待が、数年に渡り複数の保育士(地方公務員、準公務員?)によって続いていた。親が役場に通報しても相手にされなかった。

これはもう過失ではない。国が責任を持つべき「仕組み」が破綻している中で起こる、組織的「行い」です。親たちに「子育ては人生の幅を狭くする」(子ども未来戦略)などと言って、母子分離を勧め、世論を損得勘定に誘導し、「子育て」を保育士に押し付けても、その歪みの中で保育の質は落ち、その影響は、子どもたちの人生を左右する。

仕組みから「心」が消えていくことが問題なのです。「弁護士ら外部の専門家2人による調査」が必要なことでは全くない。人間として、駄目なことはダメ、なのです。役場を含む現場で、いつの間にかそう言えなくなり、それに「慣れた」ことが問題なのです。

(経済財政諮問会議の元座長が、「0歳児は寝たきりなんだから」と言うのです。乳幼児たちの日常の大切さを、全く理解しない村長や政治家が居ても不思議ではない。)

「研修」や「対策」、改善勧告で対処する範疇を超えている。子どもたちは、安心できる環境を求めているのに、それに応えようとしない大人たちがいたということ。それまで見ぬふりをしていた村長が「信頼回復に努めて」いける問題ではない。子どもを可愛がる、から始まって、子どもに寄り添う、そして、「ママがいい!」と言っている子どもを母親から長時間引き離すのは、「可哀想」と思う心を社会全体に取り戻していくしかない。

村役場の職員が一丸となって、「園児の心のケア」など出来るはずがないのです。「村人が一丸になって」なら、まだわかる。しかし、役場が専門家を雇って、子ども一人一人に対応したとしても、そこに「心」と継続的な「絆」がなければ、できることではない。乳幼児期の発達に影響するこうした出来事は、原因と結果の境界線がわからない。はっきり言ってしまえば、心の専門家、みたいな人が増えるほど、社会全体の心の病は増えていく。カウンセラーや心療内科が「薬物依存」や「アルコール中毒」の入り口になっていく。(仕組みと薬物の関係について欧米社会で何が起こったか、「ママがいい!」に書きました。学問と仕組みに人間性の代わりはできないのです。)

「専門家を雇って」というのは、いつもの言い訳、「ケア」という横文字を混ぜるのは学者の誤魔化し。「ママがいい!」という言葉にみんなで真剣に向き合って、親身な絆を立て直すこと、耕し直すことしかない。

NPOでも、保育ママさんやファミサポを中心にした集まりでもいい。母親たちの心から生まれる「子育て支援センター」が、雨後のたけのこのように増えていけばいい。それは、今、増え続けている。

一昔前にそれが当たり前だったように、「お互いの子どもの小さい頃を知っている」という関係から、信頼関係を作り直すことしかない。だからこそ、幼稚園、保育園の役割り、サービス産業化せずに、親心のビオトープになっていくことが鍵になってきているのです。

人間は、弱者の願いを尊重し、寄り添うのです。

「ママがいい!」という言葉をありがたい、と思い、みんなが、心を一つにする。良くないことがあれば、「可哀想だった」と、みんなで心を痛め、一緒に悲しむ、良いことがあれば、みんなで祝う。そういうことが大切なのです。

政府や仕組みに、その責任を委ねてはいけない。政府は、子どもたちが「可哀想」だ、という次元では、もう考えていない。

地方公務員として保育士を募集し倍率が出ない地域がある。保育士不足はそこまで進んでいます。「処遇改善」はしてほしいですが、すでに人材不足は「待遇」では修復不可能ということ。それを理解せず、いまだに、より多く預かることが「子育てしやすい」自治体、と宣伝し、当選しようとする、議員、首長たちがいる。

心ある保育士たちから支持されていた「育休退園」を廃止し、それが子どもに優しい市だと言う市長が当選したりする。生まれたばかりの弟や妹と過ごす「権利」、二度とできない「体験」を、お兄ちゃんやお姉ちゃんから奪ったことなどこの市長の思考経路には入っていない。自ら選択できない幼児たちの人生を慮る「責任」が政治家にはあるはず。現場の保育士たちが、どう感じるかも含め、「想像力」「理解力」が無さすぎる。これでは、現場が施策に背をむけ、壊れていく。育休退園に反発していた母親が、仕方なく家で二人の子どもを育てているうちに、三歳に満たない上の子が赤ん坊を可愛がる姿に感動し、やって良かったです、と役場まで言いに来たことなど、マスコミは報道しない。

子育ては、双方向への「体験」で、代替できるものではない。親がそれに早く気づくことが、崩れ掛かっている義務教育を支える唯一の方法です。

今日、ここに挙げた園児虐待の記事は、国を挙げての確信犯的なネグレクトの結果です。

幼児と関わらせてはいけない人は雇わない、雇ってしまったら解雇する、ブラックリストに載せる、そうした幼児を守る姿勢を国が前面に示すだけでも、その多くを未然に防ぐことができる。

(一日保育士体験を進めて、いつでも親に見せられる保育をする、そう決意するのが一番自然で効果的です。)

なぜ、それが出来ないか。と言うより、しないのか。

不適切者の存在を許したのは、0、1、2歳児と対話して自分自身の人間性を学ぶことを避けようとしている、親たちなのかもしれない。

1997年に、『保母の子ども虐待:虐待保母が子どもの心的外傷を生む』中村 季代 (著)という本が出版され話題になっています。

保育学者たちは、保育所における良くない風景が連鎖することを知っている。実習に行った学生に聴けばわかる。「あの園に実習に行くと、保育士になる気なくなるよ」と、先輩から申し送りになっている園がある。そこに子どもたちの日々が存在するのに、その実態を、実習園を確保するために、学者たちは放置する。

「教育」は、その本質と魂を失い、資格ビジネスになった時に、時間を換金する手法でしか無くなり、市場原理と結びついて負の連鎖を始める。他の学問なら気にもしないけれど、「保育」でそれをやられると人間社会のモラル・秩序が壊れていく。

子どもを育てるということは、人間が生きる動機と重なっているのです。

保育科で教えるなら、まず、11時間保育を国が「標準」とすることは、子どもの権利条約違反だと宣言すべきです。それ以前に、0、1、2歳児を母親から長時間引き離すのは可哀想、という気持ちを忘れてはいけない、と、学生たちに念を押すべきでしょう。

すでに義務教育の「家庭科」の時間において、それができない。人間性の根幹について教えることができない。そこに、「欲の資本主義」が学問を取り込んでいる現実が見えます。強者の利権争い、損得勘定が「子育て」において一回りして、「教育」を形骸化させ、学級崩壊やいじめ、不登校に連鎖している。

いま、保育界が感じている「あきらめ」にも似た苦しみは、

幼児たちの信頼の視線を毎日浴びながら、保育士が「良い心」を抑えて仕組みに合わせるために、見て見ぬ振りをせざるを得ない状況になっていることに原因があるのです。

(ブログ「シャクティ日記」:http://kazu-matsui.jp/diary2/ に、書いたものをまとめています。タイトルも付いています。ぜひ、参考にしてください。重複する内容が多いのですが、初めて文章を読んだ人にも、何が起こっているか、全体像を理解してもらいたいので、そうなっています。コピー、ペースト、リンク、なんでも結構です、拡散していただけると助かります。

「ママがいい!」、読んでみて、良ければ、ぜひ、薦めて下さい。早く、多くの人が、経済学者や政治家が作った、子どもの日常を軽視した競争の仕掛けに気づかないと、すでに、学校教育が限界にきています。

教員不足対応への費用 今年度の補正予算案に盛り込む 文科省

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231103/k10014246021000.html 

2023年11月3日 4時10分 文部科学省

深刻化する教員不足への対応を急ぐため、文部科学省は、教員として働くことを希望する社会人を対象に行う研修、いわゆる「ペーパーティーチャー研修」の実施に必要な費用を今年度の補正予算案に盛り込むことになりました。

学校現場の教員不足が深刻な問題となる中、文部科学省は教員の確保に向けた一部の施策を前倒しして実施するため、今年度の補正予算案に必要な費用を盛り込むことを決めました。
このうち、各都道府県の教育委員会が教員として学校現場で働くことを希望する社会人を対象に行う研修、いわゆる「ペーパーティーチャー研修」の実施に必要な費用として、1つの都道府県当たり最大で570万円を補助することにしています。
研修は数週間程度で、不登校やいじめなど最近の教育現場の課題を学ぶことや、タブレット端末を使った授業の実習などが想定されています。
教員免許を持っていない人も研修を受けることが可能で、研修後、非常勤のスタッフとして学校で指導に携わり、適性を見極めたうえで「特別免許状」や「臨時免許状」が付与されます。
文部科学省では必要な予算として補正予算案に5億円を盛り込むことにしています。

(ここから私です)

五億円でどうなることではない。保育界で失敗した、有資格者の「掘り起こし」を義務教育でもやろうとしていますが、これは問題の先送り、やったフリに過ぎない。彼らの言う「資格」は人間性とは無関係で、そういう問題ではすでにない。人間性について真面目に話し合う、という土壌から耕し直さないと、発達障害x愛着障害xPTSDと思われる人たちが、教師や保育士になっている時代なのです。

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。

「ママがいい!」のおかげかもしれません。最近は、園長先生の呼びかけで、単体の園での講演会に行政や議員、市長、近隣の校長先生も来てくれます。)

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赤ん坊が泣く意味と「国際会議」

赤ん坊は、泣いたら抱きしめられて、安心し、泣きやむ。

それでも泣き止まない時は、5分、10分抱っこして歩き回るといい。自分の気持ちを落ち着けて、鎮まるように先導する。それでも泣き止まなければ、親はオロオロ考える。誰かに相談する。この繰り返しの中で「絆」という環境を察知し、人類(赤ん坊)はニューロンネットワーク、「思考のあり方」の取捨選択をしてゆく。

オオカミに育てられた子や、アメリカで地下に閉じ込められ幼児期にほとんど人間と接触を持たなかった子どもに、いくらその後に人間らしさを教えようとしてもできなかった、という記事を読んだことがあります。

そのことを考えると、アメリカで以前発表された、赤ん坊が夜泣きをしても親が自分の感情を抑え、我慢し、抱きにいかなければ、赤ん坊は学習して泣かなくなる、という研究が恐ろしく思えてきます。こうした一部の学者の仮説がマスコミによって流布され、「教育」と「子育て」の混同と勘違いが進んでいった。結果や成果で測ることで生まれた「両立」という言葉が、愛着関係の希薄化に繋がり、犯罪社会となって具体化する。

このレベルの脳の発達は、この時期に限定されていて、やり直しが効かない。「ママがいい!」と子どもたちが言ったら、それは、古(いにしえ)のルールが働いている、ということ。泣きやんでほしいと思う心は、宇宙が私たちに与えた進化するための心。そして赤ん坊が泣きやむこと、これが人間関係を調和へ導く原体験なのです。

 

以前、神戸国際会議場で、第四九回小児保健医学会で基調講演をしたときのこと。https://www.jschild.or.jp/academic/343/

私の講演のあと、海外の学者を招いてパネルディスカッションがあったのです。学者やお医者さんに混じって、音楽家は私だけでした。

パネルディスカッションで司会をした東京女子医大の仁志田先生とは長いおつきあいでしたし、小児科医学会会長の前川先生は私の本を読んで、東京フォーラムで行われた第一〇〇回記念大会で基調講演を依頼した方。ステージで私を紹介してくださった中村先生は「母乳の会」の会長さん。学問ではなく、人間を見つめてきた人たちです。

困ったのは、パネルディスカッションのもう一人の司会者、アメリカのサラ・フリードマン博士が、二カ月も前から電子メールで何回か私の履歴書を送るように求めてきたこと。

ほかのパネリスト(イスラエル、イギリス、インドネシア、中国、ネパールの学者)は早々にそれぞれの履歴書を送っていて、私のところへも転送されてきます。どこの大学で学士、修士、博士号をとり、学会誌にコレコレの論文を発表し、大学で教えていて、行政とはこういう仕事をしている、著書はコレコレ、と細かく書いてある。英語で。

私も当時、アメリカのレコード会社が作った英語の履歴書があったのですが、スピルバーグの映画やジョニ・ミッチェルのアルバムで尺八を吹き、CDを十四枚出し、プロデューサーとしての作品は100枚を越え……、など、小児保健学会ではまるで意味がない。よっぽど、「音楽家」とだけ書いて送ろうかとも思ったのですが、それも失礼な感じです。フリードマン博士はアメリカ人の女性で、私はたぶん、基調講演でアメリカのことをかなり批判的に言ってしまう。学会が始まる前に気分を害してはまずい。仁志田先生や中村先生は、私が本に書き、ふだんから講演している内容を欧米の学者にぶつけたらどうなるか、に興味があるはず。手抜きはできません。結局、何も送らずにその日がきてしまいました。

「節度と場所柄」と自分に言い聞かせつつ、世界の子どもの幸せを願って、私は、やっぱり三人に一人が未婚の母から生まれ、少女の五人に一人、少年の七人に一人が近親相姦の犠牲者で、生まれた子どもの二〇人に一人が刑務所に入るアメリカ社会の現状を、「まともな人間社会じゃない」と講演で言い切ってしまいました。同時通訳の人が、ヘッドホーンの中で、どう英訳したかは知りません……。

イスラエルとイギリスの学者が、共通して「長時間保育がいかに悪い影響を子どもに与えるか」というテーマで研究発表をしていたのが印象的でした。世間で言う「両立」は、実は子どもの側からは成り立っていないのではないか、ということ。当たり前のことなのですが、子どもに信用されない社会は殺伐としてくるということです。

日本でも厚労省は二〇年以上前に白書で似たようなことを言っていますが、当時は、それでもまだ八時間保育でした。それが、経済論に押し切られ、さらなる長時間の保育が義務付けられていった。補助事業という現実に保育界は引きずられ、保育学者たちが、「社会で子育て」とか、「欧米では」とか言って、政府の経済優先の施策を支えていた。

イギリスは、伝統的家庭観を取り戻そうと必死にもがいていました。すでに未婚の母から生まれる確率が四割を超え、義務教育が荒れ始めていた。中学、高校で退学者を増やし、家庭に子どもを返すことで親の責任を喚起する方策は、退学させられた生徒の七割が犯罪者になる、という結果を招き失敗していました。その失敗の原因を、こんどは長時間保育(母子分離)に見出そうとしたのでしょう。子育てと幸福感を重ね、家庭という定義を取り戻さない限り、何をやっても良くはならない。元々、保守的な気質を持った国ですから、そのあたりのことは、実は、わかっている。

イスラエルでは、子育てを仕組みが担ういう実験が、キブツという、大きな枠組みを使って終わっていました。学者は、ビデオを使いながら、政府に管理され、保育が仕事や作業のようになることで保育者の質がどう低下していくか、保育所での虐待や放置の現状を映像と数字を使って報告していました。

泣いている子どもに声をかけるまで、親なら平均何秒、保育者なら平均何秒。子どもの喧嘩を仲裁するまでに、親なら何秒、保育者なら何秒、という具合です。人間の本能と人工的な仕組みを比べ、その差が子どもの発達にどう作用するか、というのがテーマです。しかし、エビデンスということからすれば憶測の領域にとどまっていて、主として育てる側の変化に発表は集中しました。「子育てと保育の関係」については、エビデンスが揃ってからでは遅い。それが宿命です。だからこそ、日常的に子どもの未来を想像しながら自分の感性を磨くこと、それが子育てであって、そのために人間は喋れない0歳児を与えられたことに気づかなければいけない。

文化人類学的に言えば、「祈り」の世界に、「絆」を導くために、赤ん坊を「授かる」わけです。

アメリカのサラ・フリードマン博士だけ女性だったのですが、私が基調講演でアメリカの現状を批判したので不愉快な思いをしていたと思います。六割の家庭に大人の男性がおらず、公立の小学校を使って父親像を教えようという首都ワシントンDCのことを話し、「正常な人間社会ではない」と言ってしまいましたから。夕食時も目をあわせようとしません。

基調講演、パネルディスカッションのあと、夕食をはさんで、実は、そのあと深夜まで討論は続いたのです。

本当は「もう英語でしゃべるのは疲れましたね」と仁志田先生と二人でホテルのバーへ逃げたのですが、なぜか、みなさんがそこへやってきた。それから本気の、面白い討論会になった。英語で、通訳なしで。

私は、長時間保育で問題行動を起こす子どもが増える、という風に考えるべきではなく、長時間保育で親側に親心が育つ機会が減り、それが子どもの問題行動につながる、と考えるべきで、子育ての問題を「子どもが親を育てる。とくに絶対的弱者である乳幼児が人間から善性を引き出す」と考えないと根本的なところで間違う、という視点を繰り返し話しました。

彼らの履歴書を読んでいた私は、この人たちは国際会議に出るくらいの専門家、私の話をヒントに実際に国に帰って行動を起こしてくれるかもしれない。そう思うと、力が入ります。

イギリスとイスラエルの学者が長時間保育の問題だけではなく、保育の質、保育者は親に代わることはできない、というところまでつっこんでくるのに対し、フリードマン博士は、女性の社会進出、「自立」に不可欠な保育施設の存在を守る姿勢が鮮明でした。「機会の平等」(イコール・オポチュニティー)という点で、男女間に不公平なことが多すぎたのです。その反動が、「社会」の定義を経済活動に偏らせていったのですが、競争に没頭するあまり、役割分担の否定まで行ってしまうと、子育てが宙に浮く。それが「子ども優先」という人間性の喪失、感性と絆の希薄化につながる、と私は、数字を上げて説明しました。すると、深夜になるころ、サラは、ずいぶん私の話に理解を表明してくれたのです。

私は、ふと、「あなたは本当にアメリカ人ですか?」と聞きました。

すると彼女は、「二〇歳までイスラエルで育ったんです。それから三〇年間アメリカに住んでいます」と答えました。

女性が乳児を預け経済競争に参加することによって社会から失われるものがある、人類学的に言えば当たり前のことです。しかし、子育てを避けること、自分の人生をその束縛から、(ある程度)切り離すことが幸せであり、権利だと思い始めると社会からモラルや秩序が失われていく。そのことから目をそらすことは責任回避です、と言い切る私の視点は、純粋にアメリカ育ちの女性、しかも競争社会における勝ち組である「学者」という立場まで登りつめた女性にとって受け入れられるものではない。それがわかっていながら、その場で私が強引に、しかも短時間に私の通常の論法で話をすすめたのには、イギリスとイスラエルの学者の共感があったからかもしれません。

二人とも私の本を英訳すべきこと、出版社を紹介してもいい、共著を考えたらいいのではないか、とすすめてくれました。

保育園という仕組みが普及する手前で、「社会で子育て」の入り口に立っているインドネシアとネパールの学者が、「欧米なんか、絶対に真似してはいけない」という私の話を、時々、確認しながら、非常に興味深そうに聞いています。何しろ、先進国であるイギリスとイスラエルの学者は大いに頷きますし、サラも、そこまで過激に言わないでよ、という表情を見せながらも、笑顔になっています。

私が、「子育てと祈りの関係」について話し出すと、ネパールの学者は、目を輝かせて加わってくる。ネパールもインドネシアも、まだ宗教が、「学問」より上位にあって、子育てという「信心」が、「教育」に呑み込まれていないのです。いい会議になりました。

 

赤ん坊を「泣きやませる」ことは、人間の存続にかかわる重大事です。原始時代、それは肉食動物から身を守ることだったはず。生き残るために、道は用意された。

赤ん坊は、泣きやむことによって「信じること」を学ぶ。それが「部族」としての絆に結びつく、その原点に回帰して考える時なのだと思います。

以前、文部科学省と東京都が主催した青少年健全育成地域フォーラムにパネリストによばれたことがありますが、その集まりのタイトルは「子どもの健全育成と大人の役割」というものでした。このタイトルが「大人の健全育成と子どもの役割」とされたときに、現代社会が抱える様ざまな問題の糸口が見つかるのです。

保育園の園長先生が嘆いていました。「仕事をするために保育園に子どもを八時間以上も預けておいて、小学校に入ってから子どもが心配だからそろそろ仕事をやめようか、という母親がいるんです。本末転倒。小学校に入るまでが大切なのに」。

学校が普及した社会で、〇歳から五歳までの子どもたちの役割を軽く考えるようになっている。その存在に感謝していない。黙って、この人たちを抱いたり、見つめたりすることの重要性を忘れている。

国際会議の後の、私的なディスカッションで、学問がそうであってはならない、と私は必死に専門家たちに説明したのです。

温厚な仁志田先生が、横で、ニコニコ笑っていました。

今、考えると、ケストナーの児童文学「動物会議」のようですね。

 

(ブログ「シャクティ日記」:http://kazu-matsui.jp/diary2/ に、書いたものをまとめています。タイトルも付いています。ぜひ、参考にしてください。重複する内容が多いですが、初めてその文章を読んだ人にも、経済施策と家庭崩壊の関連性、それがどう保育や教育に影響を及ぼすか、全体像を理解してもらいたいために、そうなっています。コピー、ペースト、リンク、なんでも結構です、拡散していただけると助かります。

「ママがいい!」、にわかりやすくまとめています。ぜひ、推薦してください。

親の1日保育士体験をやっている公立園の園長先生が嬉しそうに報告してくれました。一人の女の子が、「お誕生日プレゼントいらないから、来て」と母親にお願いしたそうです。自分もお母さんを自慢したい。

園長先生にとってその言葉は、自分たちが「いい保育」をしている、という証しでもありました。部族の勲章です。

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。園で、親心のビオトープを作るやり方、など説明します。今週は、山口県で、子育て支援センター連絡会で講演します。保育園が主体になっている会ですが、それだけにとても期待しています。)

その保育園、売ってください

「こんなチラシが幼稚園の郵便受けに入ってたんです」と、理事長先生がメールに写真を添付して送ってくれました。

イラスト付きのチラシに、オレンジ色の見出しで、「その保育園、売ってください」とある。「過去には実際にこんな価格で売却できました!」と、値段が園種別に書いてあります。

株式讓渡

園種別      年間売上        諷渡偭格

東京都認証保育園 約1億3000万円     1億円

小規模認可保育所 約6000万円      3500万円

(他)

そして、

今すぐ売却は考えていないけれど、現在保育園かどのくらいの価値なのかを知りたい方

保育園の売却を考えているが他で査定してもらったら、査定金額が低くて諦めようかと思っている方

保育園経営が上手くいかずに閉園を考えている方

今すぐに○○○○へご相談下さい!どこよりも高く無料査定いたします

という言葉が並んでいる。

理事長先生は、「幼稚園」の郵便箱にこんなチラシが投げ込まれること、その無頓着であからさまな内容に驚き、違和感を感じているのです。

私も感じるこの「違和感」。

幼稚園、保育園の中身、価値は保育する人たちの人間性と人間関係であって、それは単純に売買、譲渡できるものではない。年月を掛けて築かれた信頼関係、子どもと過ごす伝統がどう保たれているか、それが親や子どもたちにとっての園の実態なのです。それをこの業者は、どうやって「無料査定」するのか。

「保育」という言葉で括られても、実際は「子育て」です。できる限り、家族とか「部族」のようでなければ、仕組みがサービスになっては諸刃の剣となる。そう思っている私には、保育者たちが「市場」に晒されている様子が、悲しくもあり、腹立たしくもあるのです。

国が保育という「市場」を拡大するために、保育はパートで繋いでもいい、という規制緩和を「短時間勤務の保育士の活躍促進」という馬鹿げた言葉を使って「奨励」したあたりから、保育界のイメージ崩壊の流れは決定的になってしまった。もっと真剣に、魂の次元で言えば、保育園や幼稚園は、卒園児とその保護者たちの記憶の中に立ち続けるもの、心の故郷(ふるさと)なのです。売り買いできるものではない。その基本を知らない人々が保育園で利益を得ようとする。

こんなチラシが投げ込まれることに、違和感を感じなくなった時、私たちは何を失っていくのか。

「親心のビオトープ」になってほしい、この国を建て直すには、もうそれしか方法はありません、と私が願う保育界とは別の次元に住んでいる人たちが、サービス産業の名のもとに入り込んでいる。これでは、子どもたちを守れない。

こういう配慮に欠けた、学校も含めモラルや秩序が欠けていく道筋を作り出したのが、「経済施策」として母子分離を進める、政府の制度設計です。

その中心に、「保育分野は、『制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野』」(「日本再興戦略」:平成二十五年六月十四日閣議決定)という閣議決定がある。

「新市場」が聞いて呆れる。この人たちは、保育においては、「人材の心」が市場そのものだ、ということがわかっていない。

「儲け」ることに囚われた制度設計が、11時間保育を「標準」と名づけることで、保育指針や国連の子どもの権利条約にある、「子どもの最善の利益を優先する」という人類普遍の法則を根っこから壊していく。彼らの目指す「新市場」で起こりつつある「保育バブルの崩壊」は、不動産バブルや介護保険の時と違い家庭崩壊、児童虐待、学級崩壊に直結している。

「仕組みの危うい可能性」を理解していない政治家や学者たちが、新たな市場を作るために、「子ども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)を立てる。

そこで、「キャリアや趣味など人生の幅を狭めることなく、夢を追いかけられる」ように、誰でもいつでも子どもを預けられることが「子育て安心」なのだ、と宣言する。

政府の言う(偽)「子育て安心」と、このチラシの狭間に、大人たちの思惑に振り回される「子どもたちの人生」がある。

この「罠」に、幼児の親たちが気づいてほしい。親のする「選択」が子どもの人生を左右する。「子ども真ん中」の背後に、子どもを可愛がる、という「古(いにしえ)のルール」から人々を遠ざける「意図」が潜んでいることに気づいてほしいのです。(「ママがいい!」、ぜひ読んでみて下さい。罠が仕掛けられた経緯、抜け出す方法が書いてあります。)

安い労働力を確保する「罠」の中で、利鞘を稼ごうとする人たちが、閣議決定に守られ合法的にこのチラシを配ることで、保育界の空気感と常識が変わっていく。投資目的の譲渡の過程で、数人の保育士が、その動機を見抜き去って行く。それが、児童養護施設、学童、特別支援学級を追い詰め、混迷と混沌に直結することなど彼らはまったく考えていない。誰かが儲ければいい、それが「いまの市場原理」です。そして、社会は意識の総合体なのです。

保育界に必要なのは、その安定性と信頼関係だった。

このチラシの宣伝文句にある、「保育園経営が上手くいかずに閉園を考えている方」がなぜこれほど早く現れたのか。

以前、保育バブルの始まりに、こんな宣伝がありました。(「ママがいい!」からの抜粋です。)

「保育園開業・集客完全マニュアル」

起業したい、独立したいというあなたの夢をかなえます。今ビッグチャンス到来の保育園開業マニュアルです。コンサルティング会社に依頼する百分の一の価格で開業ノウハウ全てが手にできます。

*独立・起業を考えているが、何から、どう始めたらよいかわからない。

*自己資金がなくてもできる起業を探したい。

*自分ひとりで始めるのは不安がいっぱいだ。

起業をしたいと思ったときがチャンスです。ネットビジネスも儲かるのでしょうが、やはり安定した収入は確保したいものです。しかし、単に「起業」と言っても、何をどう始めたらよいのか、どんな手順を踏んで、どんな書類を用意しなければならないのか、わからない方がほとんどです。

そこで、「保育園開業・集客完全マニュアル」をあなたにお届けいたします!今まで保育園経営などにまったく興味のなかった方にも一からご理解いただけるようにわかりやすい手順が説明されています。「保育園開業・集客完全マニュアル」をお読みになった方は、そのほとんどが興味を持たれ、開業されたオーナー様も多くいらっしゃいます。勇気をもって新たな一歩を踏み出すお手伝いをさせていただければ本望です!〉

保育は、「何から、どう始めていいかわからない」人、「今まで保育園経営などにまったく興味のなかった方」、「不安でいっぱい」の人がマニュアルを読みながら始める仕事ではなかったはず。この宣伝を打った人たちは、「親としての自分の価値を感じる瞬間を、親たちから奪うことになる」という、長年乳児保育の広がりの中で親身な園長たちが持ち続けてきた葛藤など一瞬たりとも感じていないのだろう。(ここまで、「ママがいい!」から抜粋。)

こうした新市場、国の経済重視の規制緩和の隙間で、保育士による不適切な保育が次々と明るみに出る。その影に、子どもたちの一生を左右するPTSDや取り返しのつかない後天的愛着障害がある。近頃の学級崩壊を見ていれば容易に想像がつく。

そして、先日テレビのワイドショーのコメンテーターが、子育てについて、

「親ひとりでせいぜい2人の子どもの面倒をみる。だけど保育所だったら保育士1人で、何十人という子どもをみるわけですよ。子育てのコストは、そっちのほうが圧倒的に安い。預けることによって、フルタイムで働いたらお母さんの収入がドーンと増えるわけでしょ。個人にとっても国にとっても良い」「子育てに関しては全部社会がやる、と。税金で全部負担するというふうなことにいくのが、国にとっても絶対によい」と訴えた。

https://www.chunichi.co.jp/article/810741

『保育士1人で何十人の子をみる コストが安い』

保育は子育てなのです。繰り返しますが、結果や手法ではなく、双方向への「体験」です。コストパフォーマンスで考えるべきものではない。コストで考えれば、育てる側の人間性を育て、社会に絆を生み出すという幼児の存在意義が見えなくなる。ただでさえ、子ども優先という姿勢が置き去りにされ、それが学級崩壊や児童虐待の増加に現れているのです。

政府が「保育は成長産業」とか、誰でも預けられるのが、「子育て安心」などと馬鹿げたことを言っているから、保育園を売り買いする業者が現れ、子育てをコストパフォーマンスで計り、保育園で預かった方が効率的、と全国ネットの番組で言うコメンテーターが現れる。

(ブログ「シャクティ日記」:http://kazu-matsui.jp/diary2/ に、書いたものをまとめています。タイトルも付いています。ぜひ、参考にしてください。重複する内容が多いのですが、初めて文章を読んだ人にも、何が起こっているか、全体像を理解してもらいたいので、そうなっています。コピー、ペースト、リンク、なんでも結構です、拡散していただけると助かります。

一昨日、ある市の公立保育園の保育士たち百五十人に夜、講演しました。仕事が終わった後でしたが、すっかり目が覚めたように、聴いてくれました。まだ、正規が六割という市でしたし、あらゆる年齢層が居て、「20年前に私の講演を聞きました」と言う人がいたり、「1日保育士体験やっています。親たちに本当に評判がいいんです」と報告してくれる人たちがいて、勇気づけられ、嬉しかったです。「ママがいい!」すでに持っていて、サインを頼まれました。)

 

 

体験が知識です

(「ママがいい!」に、中学生の保育者体験について書いた文章です。)

長野県茅野市で家庭科の授業の一環として保育者体験に行く中学二年生に、幼児たちがあなたたちを育ててくれます、という授業をして、保育園に私も一緒について行った。
生徒たちは、図書館で選んだり自宅から持って来た幼児に呼んであげる絵本を一冊ずつ手にしている。
昔、運動会の前日てるてる坊主に祈ったように、絵本を選ぶ時から園児との出会いはもう始まっている。
男子生徒女子生徒が二人ずつ四人一組で四歳児を二人ずつ受け持つ。四対二、これがなかなかいい組み合わせなのだ。幼児の倍の数世話する人がいる、両親と子どものような関係となる。一人が座って絵本を読み、二人が園児を一人ずつ膝に乗せる。もう一人は自分も耳を傾けたり、園児を眺めたりウロウロできる。このウロウロが子育てには意外と大切なのだ。
園児に馴染んできたところで、牛乳パックと輪ゴムを利用してぴょんぴょんカエルをみんなで作って、最後に一緒に遊ぶ。
見ていてふと気づいたのは、十四歳の男子生徒は生き生きと子どもに還り、女子は生き生きと母の顔、お姉さんの顔になる。慈愛に満ちて新鮮で、キラキラ輝きはじめる。保育士にしたら最高の、みんなが幼児に好かれる人になる。中学生たちが、幼児に混ざって「いい人間」になっている自分に気づく。女子と男子が、お互いを、チラチラと盗み見る。お互いに根っこのところではいい人なんだ、ということに気づけば、そこに本当の意味での男女共同参画社会が生まれる。

帰り際、園児たちが「行かないでー!」と声を上げる。それを聞いて、泣き出しそうになる中学生。一時間の触れ合いで、世話してくれる人四人に幼児二人の本来の倍数の中で、普段は保育士一人対三十人で過ごしている園児たちが、離れたくない、と叫ぶ。その声に、日本中で叫んでいる幼児たちを聴いた気がした。涙ぐんで立ち去れない幾人かの友だちを、同級生が囲んでいる。それを保育士さんと先生たちが感動しながら泣きそうな顔で見ていた。(ここまで抜粋。)

園児たちが、中学生に「行かないでー!」と叫ぶ。
そして、中学生は、自分のいい人間性を体験し、感動したがっているのです。

その向こうで、自分たちの進める「仕組みの危うい可能性」を理解していない政治家や学者たちが、新たな市場を作るために、「子ども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)を立てる。

「キャリアや趣味など人生の幅を狭めることなく、夢を追いかけられる」ように、誰でもいつでも子どもを預けられることが「子育て安心」なのだ、と国が閣議決定で宣言する。
「子ども未来戦略」という名前がついているのです。それを家庭科の時間に教えようとする教師がいるかもしれない。
一方で、中学生を園児たちに出会わせることで、何かを見極めようとする教師たちもいるのです。私たちは、分岐点に立っている。

政府の言う(偽)「子育て安心」と、家庭科の授業の狭間に、大人たちの思惑に振り回される「子どもたちの人生」があります。
この「罠」に、親たち、そして教師たちが気づいてほしい。親や教師がする「選択」が子どもの人生を左右する時代なのです。「子ども真ん中」の背後に、子どもを可愛がる、という「古(いにしえ)のルール」から人々を遠ざける「意図」が潜んでいることに気づいてほしい。(「ママがいい!」、ぜひ読んでみて下さい。罠が仕掛けられた経緯、抜け出す方法が書いてあります。)

アインシュタインは、情報は知識ではない、体験が知識なのだ、と言いました。
「教育で専門家は育つが、人は育たない」と内村鑑三も言いました。

法律で国を治めることはできない。本来、人間性で「鎮める」もの。
乳幼児と、全員が付き合って、社会に「人間性」がみちるのです。

 

変わらないものへの憧れ

高校生、中学生、小学生に、夏休みを利用して三日間の保育士体験をさせていた園長先生の話です。
保育園は夏休みもやっていますし、〇歳児からいるから都合がいい。変わらないものへの憧れが、風景と共に、自分の中ではっきりとしてくる。
一昔前になりますが、ふだんはコンビニの前でしゃがんでタバコを吸っている茶髪の悪そうな高校生が、園にくると園児に人気が出て、生き返るというのです。
心が園児と近いと生きにくい世の中になったのかもしれません。だからこそ一人でしゃがんでいたのかもしれません。

駆け引きをしない人に人気が出るということは、本物の人気。高校生も、本能的にそれを知っていて、自分が宇宙から認められた気分になる。それでいいんだ、と宇宙から言われ、不良高校生たちの人生が変わる。自分が自分であるだけでいい、という実感が「生きる力」になる。

それまで、信じることのできない相手からいろいろと言われてきて反発していたのに、そのままでいい、と一番信じられそうな人に言われ、命に対する見方が変わるのです。そして、自分もこうだった、ということに遺伝子のレベルで気づく。幼児を世話し、遊んでやって、遊んでもらって、弱いものを守る幸せが新鮮なことに思えるのでしょう。駆け引きのない人間関係の楽しさ、嬉しさに感動するのですね。
どんなにひねくれた高校生でも、どんなに苦しそうで危機に陥っている人でも、一歳児に微笑みかけられると嬉しくなる。微笑み返します。幼児とのやりとりは、人間に、自分は本質的に善だ、ということを憶い出させてくれる。
赤ん坊と母親が家庭科の時間に学校にきたり、中学生が保育園に出向いたり。親の1日保育者体験もそうですが、こうした幼児たちとの直接的体験の積み重ねが、いつか社会に生きてくる。

ズボンを腰まで下げて悪ぶっていた高校生が、保育園に来て、三才児にズボンのはき方を説明されて慌ててズボンを上げる。校長や教頭が三年注意して上がらなかったズボンが、三才児が注意すると三秒で上がる。
三才児は無心に、自分の存在意義と高校生の成り立ちを指摘する。
高校生は、三才児がいるから自分がいい人になれる、三才児がいるから、自分はすでにいい人なのだ、ということを遺伝子のレベルで知っている。知っていることを憶い出すために、高校生には三才児が必要なのです。

風景が生み出す「心のゆとり」

「ママがいい!」からの抜粋です。この部分が一番好きですとメールをくださった方が居て、嬉しかったのです。

風景が生み出す「心のゆとり」が集団としての人間を支えていたのだ。言葉でも理屈でもない。幼児の居る風景が整ってゆくと、幼児のいる風景が人間社会を整えていく。

その風景が人間たちの安心を支えるのだ。窓から雨をながめ、一緒にしゃがんで花をながめ、カタツムリをながめ、倒されてしまった積み木をながめ、ある日静けさの中で、無言で心を重ねてくれる人が身近にいるかどうか……。その有無で幼児期の体験はその価値が決まってくる。いい保育士は、それを生まれながらに理解している。その静かな心の重なり合いが少ないと、数年後に始まる学校生活での人間関係の質が粗くなってくる。

(「ママがいい!」からの抜粋です。)

 

時間どろぼうの罠

人類は、母親無しでは生きられず、その制約は数年間続く。その条件を克服することが、進化の過程で脳の発達をうながし、他の種に比べ、格段に高度な社会性を築いたのだと言う。わかる気がする。

他人には任せられない。でも、一人では育てられない。

生まれて数年、絶対に「自立」できないこと、その先も、子孫を残すためには家族だけではなく、「部族」が必要であることが、大自然の一部でありながら、超自然ともいえる「優位性」を人類に与えたのです。逆算すれば、絶対的弱者たちを「育てる」、「可愛がる」という体験をしなければ、高度に発達した社会を維持するための「人間性」が獲得できないということ。だから、国連やユネスコ、WHOも、人生最初の千日間は、できる限り「親と引き離さないように」と、それを、子どもたちの「権利」として説く。

子どもたちが、親たち(人類)を育てる「権利」と言ってもいいでしょう。:人類の存続は、子どもたちの「承認」を前提とする

欧米先進国で、「家族の形」がこれほどまでに崩れ、責任の所在が曖昧になり、実の「父母」と言う言葉が、いつの間にか避けられるようになってさえいる。「特定の人との持続的な関係」などと言い代えられたりする。これは、優位性を武器に「豊かさ」に溺れた、意図的な「退化」です。

仕組みが、人間の思考を支配し始めている。地球温暖化の原因になった「驕り」(おごり)に似ています。「個人の夢」(主体制)によって、「絆」という持続性が後回しにされ、社会全体が集団としての方向性を見失い、破壊に向かおうとしている。(アメリカは子どもの権利条約に署名していますが、批准はしていない。批准できる環境では既にない。)

先進国という言葉に騙されてはいけない。「多様性」とか「平等」いう言葉で越えてはいけない一線がある。

人間が哺乳類である限り、原点、出発点は「ママがいい!」です。

「第一義的責任」

発達心理学者の草分けエリクソンは、乳児期に「世界は信じることができるか」という疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳がある、と指摘し、それは世界中どこへ行っても、ことわざや言い伝えを通して、誰でも知っていたこと。それが最近、日本でも言い難くなっている。

学問も、政治も、マスコミも「市場原理」に操られ、強者の「権利」(利権)が優先され、「子育て」が、「可愛がること」から、「戦力をつくること」にシフトして行った。「体験」であるべきものが、「手法」になろうとしている。保育とか福祉、教育という仕組みで代替できると思い始めていることに、それが現れる。

以前、幼稚園の保育園化を進める政府の「幼保一体化ワーキングチーム」の座長を務めていた発達心理学者が、『保育の友』という雑誌のインタビューに答え、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせない時に社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と言ったのです。これには驚いた。一人の学者が、こういうことを言うのは仕方ない。でも、このポジションにいる学者が言うと、仕組みが動く。三歳未満児を長時間預らないと民間の保育が生き残れないように、補助事業の仕組みが巧妙に変えられていったのです。

幼保一体化は、「女性の就業率80%」という数値を目標にしています。そこに至る論理性が、これほど稚拙で、非現実的でも構わない、という政府の姿勢が驚きだったのです。

五歳までしか関われない保育士に、第一義的責任は負えない。毎年担当が変わり、一歳児は一対六、三歳児は一対二十、五歳児は一対三十という条件で、どの保育士がどの子の第一義的責任を負うというのか。

この座長は、ただの(たわいも無い)学問、思いつきで発言している。「第一義的責任」の理解が浅いばかりか、「子どもの権利条約」違反でしょう。こういう学者の軽々しい発言が、言葉から質量を奪い、報道によって、人間の会話から、深みが抜け落ちて行く。法令とか条例を作ることで、社会全体が薄っぺらいものになっていく。

この発言に誰も異を唱えなかった。

報道は、「待機児童」という言葉を使い、むしろ母子分離施策を「権利」として支持した。

一つの園、ひとクラスでも実行できるはずのない空論を「保育の友」で語った学者も、それに異論を挟まなかったマスコミも、政治家も、豊かさの中でポピュリズムと言う「市場」に反応している。親たちが何を聴きたがっているか、嗅ぎ分けている。

子どもたちだけが、正直に、「ママがいい!」と、叫び続けた。

子どもを保育所に置いて行く時に、「いってきます」も「じゃあね」、も言わない親が現れ保育士を悩ませている。荷物を置いていくように、子どもを置いていく。それを叱れない。

親身なコミュニケーションを奪われた「仕組み」の中で、保育士は「子育て」をさせられている。そして、「親身さ」を捨て始めている。

その風景が、日本の教育現場の崩壊を暗示している。

一人では生きられなかった、という「気づき」と、それでも、(母がいれば)生きられた、という「意識」の「相対性」の中に「子育て」(愛)は存在する。

 

講演に行き、幼稚園・保育園での「親の一日保育者体験」をお願いしています。

園で、幼児の集団に一人ずつ親をつけ込むと、遺伝子の動きが活発になって、「親心」が覚醒する。親たちの感想文から、それがわかるのです。希望者のみ、では駄目。実際には無理でも、「全員を目指します」とハッキリ言ってほしいのです。子育てに選択肢はない、という意思表示をしてほしい。選択肢がないから、より深く、内側に、自分自身を発見し、体験する仕掛けだった。そこに、「いい人間」はちゃんといる。宇宙は、私たち人間に、自信を持って0歳児を与えている。

しつこく、当たり前のように、淡々と、「子どもが喜びますよ~」と園長先生が言い続ければ、ほとんどの親がやりますね。特に、父親は、子どもたちに囲まれ喜ばれると人生が変わる。

(やり方は、「ママがいい!」に書きました。中学生たちの感想文と一緒に。)

 

「こども未来戦略がいう『安心感』」

配置基準を変え、待遇を良くしても、政府の意図と宣伝で、乳幼児を躊躇なく預ける親が増え続ければ意味がない。仕組みを良くする以上に、悪くする動きが「子育て支援」「安心プラン」の名の下に進められているから、学校教育への「負債の先送り」が止まらない。

異次元の少子化対策を進めている「こども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)に、「どのような状況でもこどもが健やかに育つという安心感を持てる」戦略、と書いてある。

しかし、よく読むと、これは、「こどもが健やかに育つという安心感」ではなく、「いつでも誰かに子どもを預けることができる安心感」であって、母子分離が根底にある。知らない人に自分の子どもを預けることを「安心」と結びつける。こんな馬鹿げた論法が、閣議決定で、いつまで通るのか。

戦略の中に頻繁に出てくる「両立」という言葉は、子どもの側からは成り立っていないのです。そればかりか、この十年間、様々な規制緩和で、「保育の質」は著しく下がってきている。

義務教育が「義務」であることが、諸刃の剣となっていく。親の「責任感」が弱まれば、特別支援学級を増やすしかない。それによって教員不足はさらに進む。0、1歳児保育を国策で増やし、それによる保育士不足を規制緩和で誤魔化し、保育界から良心を奪っていった同じ過ちを、国は再び繰り返している。体験に基づかない「戦略」で、「こどもが健やかに育つ」環境は、さらに遠のいていく。

(これまでの経緯については、「ママがいい!」を、ぜひ、読んでみてください。心ある保育士たちは、三十年間、必死に子どもたちを守りながら、政府の母子分離策に抵抗してきた。)

 

 「子育て安心プラン」https://www.kantei.go.jp/jp/headline/taikijido/pdf/plan1.pdf(首相官邸ホームページ)に、こう書いてあります。

「『M字カーブ』を解消するため、平成30年度から平成34年度末までの5年間で、女性就業率80%に対応できる約32万人分の受け皿整備。(参考)スウェーデンの女性就業率:82.5%(2013)」

これが「子育て安心プラン」の正体。

「子育て安心」=「いつでも預けられる」。誰が、どこから、こんな論法を持って来たのか。学者や専門家のお粗末な欧米コンプレックスが原因だとしたら、あまりに情けない。しかし、この論法がいまだに政府の保育施策の中心にある。それでも〇、一、二歳児を手離そうとしない日本の六割の母親に対する苛立ちか、作り過ぎた保育施設と、増設した養成校の延命、生き残りのためか、「誰でも通園制度」(異次元の少子化対策)で、国は、預ける親を増やすことに、いまだに躍起になっている。

(『M字カーブ』解消の「参考」に国が挙げたスウェーデンでは、三十年以上前から半数以上の子どもが未婚の母から生まれている。伝統的「家庭観」が消える一方で、五年前に徴兵制を「女性も含める形で」復活させた。徴兵し、女性に銃を持たせることが本当に「平等」なのか。貨幣で計られる「平等」の行き着く先、M字カーブ解消の正体がそこに見える。

「女性らしさ」が応えようとする「子どもたちの願い」が、いつの間にか価値基準から外されているのです。

外務省、海外安全ホームページの勧告:「犯罪統計によると、スウェーデン国内では、2020年に約157万件の犯罪が報告されています。2020年の日本の犯罪件数は約92万件(犯罪白書)であり、人口規模(日本:約1億2000万人、スウェーデン:約1000万人)で比較すると、スウェーデンでは非常に多くの犯罪が発生しています」。

犯罪率が、日本の二十倍。50年前、「福祉」という概念で家庭崩壊を進めた社会の、これが「結果」です。親子の絆という「安心感」が、教育や保育、学問を過信することで失われていくと、大体こうなる。)

「母子分離との戦い」

「欲の市場原理」に基づいた母子分離を「進歩」とすることで家庭崩壊が加速し、モラルや秩序が失われていく。欧米がたどった道筋について考えると、その向こうに、家族から引き離され、読み書きや、算数や、「所有」の概念を寄宿学校で教え込まれようとしたアメリカインディアンの子どもたちが見えてくる。カナダ政府とアメリカ政府は、ネイティブアメリカンの子どもたちを家族から引き離し、人類普遍の「伝承」を「学校」という仕組みで断ち切ろうとした。(過去、現在、日本も含め、様々な権力によって繰り返された手法です。)

伝承の世界で幸せだった子どもたちに、競うこと、欲をもつことを教え、アダム・スミスが言う資本主義のエネルギー「不平や不満の概念」を植え付けようとした。しかし、親から離された多くのインディアンの子どもたちが戦力にならず、一部は虐待され、学校内で殺されていった。

(カナダでは、1881年から1996年までに15万人の先住民の子どもが政府によって親から引き離され、「同化」を目的にカトリック教会が運営する寄宿学校に送られた。:ロイター)

去年、そのことでローマ教皇がカナダまで謝りに行ったのです。

「カナダを訪問中のローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は、かつて先住民の同化政策にカトリック教会が関与し虐待が行われた問題で、先住民らに謝罪しました。」

【ローマ教皇】カナダ先住民への虐待謝罪 「謹んで許しを請いたい」

https://news.ntv.co.jp/category/international/584e91f97f9743f6a4b6592af5597a5e#

 遺体は「1000以上」、暴行、レイプ、……先住民の子どもを大規模虐待、~カナダ寄宿学校の闇

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/109871?display=1

宗教と国策からみの母子分離と、子どもの「遺体は1000以上」という大規模虐待は、それほど昔のことではない。虐待された子どもたちは、まだ生きている。「家族と、暮らしたかった!」と叫び、踊り狂っている。

教皇は、どんな気持ちで飛行機に乗っていたのだろうか、と考えるのです。

カソリック信者にとって、教皇は特別な位置にいる。その人が謝りに行けば、もう、言い訳はできない。しかし、ネイティブアメリカンにとって、「教皇」という地位は意味を持たない。

信仰は、一人一人と神との問題であって、それだからこそ美しいし、尊ばれなければいけない。それを忘れ、宗派とか教会という仕組みの単位で考えると、心の中に領域(テリトリー)が生まれ、必ずと言っていいほど、紛争や争いごとになってしまう。

「ママがいい!」(神がいい!)という声が遠のいていく。

国家や民族という単位、国境線という縛りもまた、人類が、高度な社会性を身につける過程で作られたもの。いつか、乗り越えなければならない縛り。

「Imagine all the people, Living for today」(ジョン・レノン)

だから、と再び思う。強者たちによる「母子分離をベースにした労働力確保」、そこに「教育」が介在する手法は、現在進行形のものであり、危険だということに気づいてほしい。「ママがいい!」という叫びは、どこの国、どんな時代でも、人間が人間であるために尊重されなけばいけない。それが、「古(いにしえ)」のルールだ、ということを忘れないでほしい。

ネイティブアメリカンの子どもたちには、白人の政府が掲げた「基本的人権」は適用されなかった。そればかりか、最近になって、子どもたちの遺体が次々に発見されるまで、その事実が隠蔽されていた。理念としての「自由と平等」を「教育」で押し付けられ、子どもたちは必死に叫んだのです。「ママがいい!」と。

その主張は、大地からの警告でした。

彼らの声が、慣らし保育で日本の子どもたちが言う「ママがいい!」と重なるのです。人類を導く者たち(子どもたち)の「健気さ」、神話を形づくる響きが、その中にはある。母親が、その言葉で輝き、女性たちの「その輝き」を守るのが「社会」(部族)であるべき、その原点が思い出されないかぎり、いまの混沌は収まらない。

人間本来の、「可哀想」という感覚を、強者の自己肯定感(自己中心)で無視しようとする動きを、「異次元の少子化対策」「こども未来戦略」から感じとって欲しい。こんな「戦略」に騙されてはいけない。

この時間が、親子にとって、二度と返ってこない、選択できない「時間」であることだけは確かでしょう。政府の「戦略」で、それが大量に奪われようとしている。「伝承の時間」が盗まれていく。

1980年代に世界中で出版され、映画にもなった、ミヒャエル・エンデの児童文学「モモ」を思い出します。あの物語りがあれほど支持されたのは、「幼児という存在」を見つめる意味を、誰もがすでに知っているからです。自分自身がエビデンスであることを知る道筋が遺伝子の中には既にある。

(トールキンの指輪物語が二十世紀に最も読まれた文学作品の一つ、と言われ、その遺志、内的欲求は、「トトロ」や「千と千尋」に継承され、支持されている。この巨大な共感が、エビデンスであり、真実だからです。あとは、政府の「戦略」に気づき、みんなで排除していけばいいだけ。)

「伝承」が「神話に過ぎない」と言われても、ああ、そうですか、と言えばいい。本来、神話の世界で人間はコミュニケーションをするのです。人類をその次元に導くために、0、1、2歳との会話があるのです。

親たちが、この時間を守るのです。子どもたちは、親たちを「守る人」に育てることはできますが、「私の人生」が、「私たちの人生」になる、その選択をするのは親たちです。その権利を与えられただけでも、充分に「生き甲斐」になる。

二歳児と二人で歩いていると、すべてが完璧に思える。それは錯覚だ、と誰かが言っても、その錯覚は、確かに二人だけのものだった。

政府の言う「子育て安心」が、「時間どろぼう」が仕掛けた罠だということを理解してほしい。慣らし保育で、子どもたちがそれに慣れても、原因をつくった親たちが、慣れてはいけない。社会全体がそれに慣れてはいけない。

自分が、人間性のビオトープの一員と考えられる仕組み。子どもたちを母親から引き離すのは「可哀想」という気持ちが、ふつうに言葉になり道筋を決める。そんな場所と時間を取り戻さないと、様々な仕組みが、明らかに限界に近づいているのです。

幼稚園、保育園が、幼児たちの存在意義が宣言される場所、親心を耕すビオトープになって欲しい。政府や学者が、自分たちの失敗を覆い隠すために言う「現実」とは別の現実が確かに存在すること、そこで「古」(いにしえ)のルールが働いていることを、遊んでいる幼児たちから学んでほしい。砂場の「砂」で幸せになれる者たち、頼り切って、信じ切って、幸せそうな人たちが、人生の「目的」を大人たちに教えることができる場所を増やしていってほしい。

よろしくお願い致します。

(この文章を、友人であり、笛の仲間でもある、Douglas Spotted Eagle=スポッツに捧げる。)

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。よろしくお願いいたします。「ママがいい!」を、ぜひ、口コミで広めてください。「親心のビオトープ」の作り方が書いてあります。最近また、Amazonジャンル1位に復活しました。「武器や道具にされたくない」「時間を盗まれたくない」という願いが、伝わり始めているのかもしれない。

親の1日保育士体験をやっている公立園の園長先生が嬉しそうに報告してくれました。一人の女の子が、「お誕生日プレゼントいらないから、来て」と母親にお願いしたそうです。自分もお母さんを自慢したい。園長先生にとってその言葉は、自分たちが「いい保育」をしている、という証しでもありました。部族の勲章です。

国という時間どろぼうに奪われた「時間」を取り戻す方法はあります。エンデさんの書いた「モモ」を読んで、時間どろぼうたちの存在に気づき、幸せそうに生きる若者たちが増えてくれれば、と思います。みんなが、「時間」を自分のものにするために、モモは、いつも身の回りにいる。

私の家の居間には、エンデさんが座ったソファーがあります。

ちょっと自慢です。)

 

『生命尊重ニュース』への寄稿

「生命尊重ニュース」8月号、に原稿を依頼され書いたのですが、嬉しいメールをいただきました。ブログにも載せます。コピーペースト、拡散などしていただければ幸いです。。

松居 和先生

先生のお原稿はお蔭様にて大変好評を頂き、「『生命尊重ニュース』を10部送って下さい、保育士仲間に送ります」とか、「先生の『ママがいい!』の御著書を10冊購入して配らせて貰いました」等々、たくさんの反響を頂きました上、先生の掲載号は在庫がなくなってしまうほどでした。

今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。    『生命尊重ニュース』編集長

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「生命尊重ニュース」8月号

ママがいい!

―宇宙は、なぜ0歳児を与えるのか

音楽家・作家・元埼玉県教育委員長 松居 和

 

私が30年住んだアメリカでは、3人に1人が未婚の母から生まれ、20人に1人が一生に1回刑務所に入ります。少女の5人に1人、少年の7人に1人が近親相姦の犠牲者と言われています。

25年前、タレント・フェアクロス法案という法案が連邦議会で審議されました。二十一歳以下の未婚の母には補助金を出さず、その予算で孤児院を作り、そこで子どもを育てようという法案でした。まだ起きていない犯罪を裁くこと。これほどの人権侵害はない、と思いました。

孤児院で育てば犯罪者になる確率、虐待される確率も少ない。否決されましたが、当時の下院議長が、「24時間の保育所と考えればいい」と言ったのを忘れません。「福祉」はそこまでいく可能性を持っている。

子育ては親が親らしく、人間が人間らしくなっていく道筋です。そのことを忘れては人間社会は成り立たない。

0歳・1歳・2歳児の存在意義

結婚しない、子どもつくらない若者が増えています。「結婚」は自ら進んで不自由になること。子どもを産むことは、それに輪をかけて不自由になること。そこに幸せがなければ人類は滅んでいる。

なぜ宇宙は我々に0歳児を与えるのか。立ち止まって、考えてほしい。「不自由になれよ」「幸せになれよ」と言って与えるのです。私たちが生きているのは、私たちの親たちが、私たちに自由を奪われることに幸せを感じたから。自由を捧げることに喜びを感じてくれたからです。

生まれて初めて赤ん坊が笑う。それを喜ぶ自分を体験し、人間は、自らの人間性を知ります。その笑顔を分かち合って、社会の土台ができるのです。

赤ん坊が泣く。私は、ある時、1分以内に泣きやむ方法があるはず、と色々試したのです。泣きやんでほしいと思うと、泣きやまない。そこで、赤ん坊を抱きながら1つの風景に集中してみました。アフリカの大草原に、マサイ族が1人立っている。この風景に私が集中すると、1分以内に泣きやむのです。

その話をしたら一人の園長先生が、そのくらいの赤ん坊は、認知症のおばあちゃんが抱くと泣き止みますよ、と教えてくれました。認知症のおばあちゃんと赤ん坊が二人ひと組になって、何かを伝えようとしている。人間のコミュニケーションの次元を深くするのは、一人では生きられない人たちとする体験なのです。

言葉を話せなくても、生きられる。ご飯を食べることができなくても、お母さんがいれば、生きられる。そこに人間としての道が現れます。社会にその風景が満ちていること、それを繰り返し目にすることの大切さを思い出してほしいのです。

 

子どもは誰が育てるのか

「待機児童」という言葉があります。が、実は待機している児童などいない。待機させられているだけ。0、1、2歳は哺乳類。お母さんといたいのです。

去年、「ママがいい!」という本を書きました。

アマゾンのジャンル別で一位になっているのですが、このタイトルを見て涙が出ました、と言う保育園の園長先生がいました。これは「慣らし保育」の時の子どもたちの叫び、ひと月も続くすすり泣きです。母親にとっては勲章なのです。それなのに、私たちを信じようとする幼児たちの願いから、みんなが目を背け、耳を塞ごうとする。保育学者が「社会で子育て」と言い、政府の母子分離策を支える。自己肯定感、自主性、などと訳のわからないことを言って、子育てをわかりにくくする。園長先生はそれに手を貸しているのが嫌になっていたのです。

慣れてはいけないことがある。

「ママがいい!」と主張することを、子どもが諦め、黙った時、私たちは大切なものを失っていく。ひとを信じる心、利他の心、助け合う絆が、営みから抜け落ちていく。少子化であるにも関わらず幼児虐待過去最多、不登校児童過去最多、という現象にそれが現れます。そして、無理難題を押し付けられた、いい保育士、いい教師たちが辞めていく。

これ以上規制緩和しても、仕組みは復活しません。子育てを親に返していくしかないのです。

幼児たちは、誰でもいい、とは言っていない。古(いにしえ)のルールを忘れてはいけない。

七年前、千葉で保育士が園児を虐待し、逮捕された。その時、園長が警察の取り調べに「保育士不足のおり、辞められるのが怖くて注意できませんでした」と言い、新聞記事になった。保育士の資質の問題が、政府の施策の問題に変化している。園長が悪い保育士を注意できないなら、0、1、2歳を預かってはいけない。3歳以上なら「先生に殴られた」と親に言える。乳幼児は言えないから、みんなで心を一つに、大切にする。それが人間社会の出発点でしょう。

国が、11時間保育を「標準」と名付けたのは、子どもの権利条約違反。それを保育学者は指摘しない。そればかりか、「可哀想」と誰も言わない、言えない雰囲気になっている。平等とか、権利だとか、経済だとか、両立だとか、大人の都合ばかり優先され、社会全体が感性を失っていく。

スウェーデンで50%の子どもが未婚の母から生まれるのは福祉が進んでいるから、と良いことのように言った専門家がいました。福祉が進めば家庭は崩壊する。幼児虐待、女性虐待が爆発的に増える。それは欧米の数字を見れば明らかなのに。日本のマスコミや学者は未だに日本は遅れているなどと言い、厚労省がエンゼルプラン、文科省が預かり保育、もっと預かれと保育者たちに言い続けたのです。雇用労働施策で、社会のモラル・秩序が崩れていきました。

保育の無償化は“子育ての社会化”です。これだけ保育士が不足し養成校が定員割れを起こしている状況で、できるわけがない。国の制度と位置付けるには、保育士の当たり外れが酷すぎる。それを知っていて言わない学者たちは、資格ビジネスの維持に必死なのです。

全国で保育者が悲鳴を上げています。これ以上預かったら親が親でなくなる。二十年前、子育て支援は子育て「放棄」支援、と保育士たちは言っていたのです。しかし、マスコミは子どもたちの側には付かなかった。

五日間せっかくいい保育をしても、月曜日また噛みつくようになって戻ってくる。せっかくお尻がきれいになっても、月曜日真っ赤になって戻ってくる。48時間オムツを一度も替えないような親を作り出しているのは自分たちではないか、このジレンマの中で日本の保育士は30年やってきたのです。今、異次元の少子化対策で、国は就労規定さえ外そうとしています。もう限界です。心ある保育士たちが去っていきます。国の少子化対策(雇用労働施策)で少子化は一気に進んだことを、マスコミを含めみんな知っているのに、保育の質、子どもたちの願いは、後回しにされ、今、学校教育の崩壊という逃げられない「現実」が突きつけられている。

 

幸せのものさし

親が子どもに殺される確率はアメリカの50分の1、犯罪率は欧米の20~60分の1。

この国には、子どもを可愛がる「伝統」がある。欧米に比べ状況は奇跡的にいい。「ママがいい!」ぜひ、読んでみてください。これからどうすべきか具体的に書きました。

0歳児を預けることに躊躇しない親が増え、学級崩壊が手に負えなくなって気づき始めましたが、子育てを自分の責任、生きる動機、喜び、と感じる親が急速に減っているのです。人生の始まりに、「ママがいい!」と叫ぶのを「諦めた」子どもたちが、親になり、教師になり、保育士になっている。

子育てはイライラの原因、預かります、と選挙対策で政府が言えば、結婚しない、子どもを産まない若者は増えるのです。でも、少子化は困る、と言う。滅茶苦茶です。こども家庭庁が、「子ども真ん中」とか言って、小学生、中学生の意見を聴く、と「やったフリ」をしますが、子どもの意見を聴くなら、「ママがいい!」と泣く幼児たちの声をまず聴くべき。人間性を支えるその言葉を無視し、社会から「利他の気持ち」を根こそぎ奪う一層の母子分離を政治家たちは進めている。二人目は保育料無償にする、「子どもが輝く」と最近都知事が言いました。

私が提唱してきた幼稚園や保育園における「1日保育者体験」、一人ずつ親を園児に漬け込むことで、親たちに「感謝」の気持ちが芽生えます。県で取り組むところが四県、自治体や、園単位でも広がっています。父親たちを幼児に混ぜることで家庭内暴力が止まったりします。

アメリカで高卒の2割が読み書きができず、26%が高校を卒業しない。4割の子どもが未婚の母から生まれる。親の半数が子どもに無関心という現実がすでに可能性としてあるのです。子どもたちが「親を育てる」という役割を果たせない。

マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく、無関心」と言われた。内村鑑三は、教育で専門家は育つが、人は育たない、と言い、アインシュタインは、情報は知識ではない、体験が知識だ、と言いました。

 

父親をウサギにする権利

日本は、“祈ること”を背景にした非論理的な国。『男はつらいよ』という映画は、欲を捨てた時に幸せになれるという仏教の教えが土壌にある。キリスト教も「貧しき者は幸いなり」と言います。親になる事は、損得勘定を捨てること。その利他の道筋が意図的に市場原理によって壊されようとしている。

11時間保育を国が「標準」と名付け8時間勤務の保育士に押し付けた時、朝、預ける保育士と帰りに返して貰う保育士が別人になりました。親身になるな、と言われたようなもの。親たちも、この人に預ける、から、この場所に預ける、という感覚になった。育てる側の心が一つにならない人類未体験の状況が、この時始まったのです。

0歳から園に来ると、保育士は、子どもが初めて歩けるようになる瞬間に出会うのです。そんな時、園長は「親に言っちゃいけないよ。『もうすぐ歩けますね』と言うんだよ」と教えた。「親が見ていないことを許したら、私たちの仕事が親子の不幸に手を貸すことになるんだからね」。これが本当の保育士心。そうやって親たちを導いてきた園長たちが、「保育は成長産業」とした閣議決定でサービス産業化させられ、消えていった。

ある時、保育園で父母に講演したあと、「はい、お父さんたち、ウサギになってくださーい」と、園長先生がウサギのかぶり物を渡しました。1人も断れないのです。驚きでした。園長は、父親をウサギにする権利を持っている。幼児という神様・仏様、精霊の前では、人間は正しい方向に進むしかない。強張っていた父親もかぶって3分もしたらウサギです。父親も、実はウサギになりたかった。(「逝きし世の面影」(渡辺京二著)という本を読むと、150年前、日本の父親たちがいかに幼児と一心同体だったか、欧米人が驚きを持って書き残しています。)

昔、男たちは年に2、3回、祭りの場でウサギに還っていた。自分の中に四歳だった頃の、砂場の砂で幸せになれた自分はいる。それに気づけば、「自分次第なのだ」と確認できる。父親をウサギにして一番喜んでいたのが母親たち。日本の、全ての幼稚園・保育園で、月に1回父親をウサギにすれば、世界平和もあるのではないか、とふと思いました。予算はほとんどいらない。

 

お母さん、どこ

「ヒカリちゃんのお母さん、どこかしら」/「ここにいるじゃない」/「それはコウちゃんのお母さんでしょ」。弟を抱いた私に、娘は言った。長いまつげの小さな目は、悲しげにも見えたし、何かをためしているようにも見えた。

「じゃあ、ヒカリちゃんのお母さんはどこにいると思うの」/「病院に寝ているんだと思う。バアバが言ってたよ。ヒカリちゃんのお母さんは、病院に行ったよって」。娘は、私が弟を出産した日のことを言っているのだ。

「お母さんをむかえに行かなくちゃ」玄関でくつをはこうとする娘の小さな背中を見ていたら、私は夕闇の中で、大切な人に置き去りにされたように、心細くてたまらなくなった。同時になぜか、動揺している自分がくやしくもあるのだった。

娘はふり返って、私が泣いているのを見て、

「あっ、ヒカリちゃんのお母さん、やっぱりここにいた」と、無邪気な風に言うのだった

 

私の講演を聞いた母親が送ってくれた「詩」です。

三歳の娘に「お母さん、どこ」と聞かれたら答えようがない。でも、このお母さんは、泣く、という、魂に寄り添うやり方を知っていた。教えたのはヒカリちゃんです。

生きる力は、信頼の連鎖に身を置くこと。それを幼児が体現している。

人間は、自分を「いい人間」にしてくれる者たちを自ら産み出すのです。頼り切り、信じ切って、幸せそうにしているその人たちがいれば、私たちは大丈夫なのです。

保育は、他人の子どもを複数、油断なく、心を込めて可愛がること。遠くを見ながら、幸せを願うこと……。生きる動機、天性の資質が問われる役割です。そういう人は、自然界における「伝承」であり「現象」。社会全体に、子どもを可愛がる雰囲気が満ちていないと成立しない。

先進国の中で奇跡的に家庭崩壊が進んでいない日本なら、間に合うかもしれない。

幼稚園や保育園、自主的な集まりでもいい、幼児を使って「親心のビオトープ」を増やして行くのです。親や生徒たちを園児に浸す、家庭での読み聞かせを習慣として広め、耕す。同窓会を繰り返して、みんなで祝えば、園が心の故郷となる。

お互いの子どもの小さい頃を知っている人たちに囲まれ、子どもは育っていくのです。いくつか行事を組み合わせれば、学校が成り立つ絆を復活させることは可能です。

社会を鎮めるために、幼児と過ごす時間を増やすのです。

宇宙は、我々を信じて、0歳児を与えている。伝令役たちを大切に守らなければいけません。

 

PROFILE

まつい・かず

1954年東京生まれ。慶應義塾大学哲学科からカリフォルニア大学民族芸術科に編入、卒業。尺八奏者としてジョージ・ルーカスやスピルバーグ監督などの多数のアメリカ映画に参加。1988年アメリカにおける学校崩壊、家庭崩壊の現状を報告したビデオ 「今、アメリカで」を制作。1990~98年東洋英和女学院短大保育科講師。家庭崩壊や幼児教育のあり方に関する講演を行い、欧米の後を追う日本の状況に警鐘を鳴らしている。2006年より埼玉県教育委員、2009~2010年同委員長。著書に『なぜ、わたしたちは0歳児を授かるのか』(国書刊行会)『ママがいい!』(グッドブックス)他がある。ブログ「シャクティ日記」に連載執筆中。